« November 2004 | HOME | January 2005 »

December 31, 2004

2004年最終日

 2004年も残すところ1時間半です。外は雪。年越しの蕎麦も食べ、あとは、地味に年越しの瞬間を待つのみとなりました。

 雪です。本日だけで、たぶん、30~40cmという感じでしょうか(苦笑)
 今年は、私の愛車もスタッドレスにしていたんですが、良かったです。旦那の車では、車高が低いので轍のせいで下回りが危険になってしまっています;
 気温が低いので、道路の雪もなかなか融けません; 駐車場の中は雪がてんこ盛りの状態ですが、もう、雪かきの気力もありませんヮ(がっくり)

 そんな本日、旦那はドラクエの最初のエンディングを迎え、その横でサイト作業を行っておりました。自サイトと同時に、別館として共同運営している読書サイトの整備を少しやっておりました。感想の方を入れられていないので、これくらいはしないと;
 カテゴリー内の登録数が増えて、文庫サイズのものなど、50を超えているので一覧がものすごい事になってまして、それを10ずつ表示されるように変更したり、幅の微調整をしたり、さりげなくbk1ランキングを入れてみたり(笑)――そして、ランキングを見ていて、面白そうだなぁとおもって、ついつい本を検索したりしてみたりとか。
 そして、今は、一応、紅白を眺めております。<マツケンサンバは見ておかないと。

 みなさま、どうぞ、楽しいお年を迎えられますように。

December 29, 2004

積雪

 朝起きて、なんだか世界が静かだなぁと思っていたら、雪が降っておりました……。昼過ぎまで降って、積雪は5cm前後という感じでしょうか。気温自体はそれなりに上がったので、雪かきなどをする前にかなり融けてくれまして、ちょっと楽でした。本日は都内も雪だったみたいですね?

 さりげなくまったりな年末です。――というのも、年末が旦那の当直期間なので、まったりとしか過ごせないと申しますか(笑) もちろん、私自身の仕事は家でやれるものですから、年明けに多忙モードに突入しないで済むよう、少しずつやっています。
 そして、その横で、旦那がドラクエ8やってます(笑)<おかげで私はゲームがちっともできません;
 レベルは現在35を超えたあたりで38時間くらい経過しています。「明日からはちゃんと原稿書きするよ~」とか言っていますが、年賀状すら書き終えていない人が、なに言ってるんでしょうか(笑)
 まぁ、まとまってゲームできる時間なんて、この年末年始くらいしかないので、夜食を作ってやったりなどしながら、のんびり横で眺めつつ、おいらはお仕事モード。

 そんなおいらのゲームの時間は、旦那が仕事をしている時。本日は、いただきストリートのFF&DQ版をやっておりました。
 トーナメント、3試合で終了のものを2つ終わらせ、その次に取り掛かったのですが、相手が強くてナ……(がっくり) はやくモードを増やしたいのですが、なかなか;
 今までのシリーズより、キャラクターのレベルの落差が激しいような気がします。あと、マップは結構面白いですね。――あと、どれくらいかかるんだろう;
 きっと、春とかまでかかるんでしょうが、面白いので許してあげます。<誰も君に許されたくはないだろうよ;

December 27, 2004

お世話になりました。

 この2004年も、多くの方にご心配とご迷惑をかけつつも、なんとか無事に乗り切れそうです。

 2004年もあと残すところ4日となりました。
 今年もまた、多くの方にいろいろとお世話になりながら、この1年を乗り切りました。正直、7月の尾張くらいから、疾風怒濤の日々となりまして、何かあったか思い出そうとしても思い出させなかったりもするのですが、とにかく、なんとか乗り切ったな――という感じです。
 お世話になった方々、本当にありがとうございました。来年もまた、宜しくお願いいたします。
 また、近しい方が亡くなっておりますので、私からの年始のご挨拶は遠慮させていただきます。(いただく分に関しては、ありがたく受け取らせていただきますので、ご心配なく)

 2004年、私の中の印象は、「天変地異の年」という感じでした。今年の漢字が「災」には深く共感しています。台風で実家の様々な備品が崩壊し、新潟の地震では軽度ではありましたが揺れを体感しました。
 26日のスマトラ地震は、毎年この年末年始の時期に該当地域に旅行に行く友人も居るので、それが心配です。一応メールで日本に居るのかどうか、被災していないかどうかの確認を取ろうとしているんですが、休みを取っていない場合は年末の一番忙しい時期になるので、返事がなくてですね;
 正直、もう、ものすごーく心配なんだけど; こればっかりは元気で「大丈夫だよー」と返事が返ってくることを願うばかりです。
 来年は、「災い転じて福となす」となればいいなと願っております。

 私個人の中で、一番被害を被ったのは、大挙してやってきた台風でした。「私が」というよりは「私の実家が」なんですが。テレビのアンテナは折れたし、持っている土地に生えている木に、隣にある作業所の作業場の屋根が飛んで、刺さったまま(地上7メートル付近;)だし。台風の後の片付けの際に、母が腰をぎっくりやってしまいましたし。そんな状態でも「けっこうひどい被害だったのよー」と電話口で笑ってすませる母は偉大ッスね……。

December 22, 2004

早めのメリークリスマス

 早めですが、予定がモリモリ(笑)なので、気分だけは楽しくメリークリスマス!<とか言いつつ、本当のところメリークルシミマスな気分です(がっくり)

 風間のクリスマスの予定――とにかく引越しの準備のために家の中を片付けまくる。

 現在、拠点を二つかまえて居る我が家ですが、引越しをするとなると、単純に手間が2倍になるわけです。他県に引っ越すことになるのはこれで2回目(本当は3回なんだけど、うち1回は現在の二重生活なので、引越し業者を頼んでないの)です。
 片方は生活の拠点となっていて、まだ引越し準備をする状態ではないのですが、もう一方は週末ごとにしか存在しない家なので、今から準備をしないと間に合わないわけです;
 おかげで、世の中は忘年会のシーズンだって言うのに、最近一滴もお酒飲んでませんよ。風間サンらしくないですよ(笑)

 そんな本日は、取引先のパーティーまで仕事の話をしにいきます。パーティーに出られたら楽しいのでしょうが、何しろ会費がお高いので、商談のみです。ええ、美味い飯、美味い酒を横目に、地味に喫茶店で。
 なんだか、寂しいのぅ。

 このところ、徹夜をすることが多いため、生活時間がガタガタです。いけないなぁと思いつつ、だって、やっていることが終わらないんだもの(涙)
 早く、睡眠時間3時間の生活から脱皮して、美しい蝶になりたいです。<今はさなぎですか;

 というわけで、出かけます。

December 20, 2004

金曜ロードショー予約(笑)

 金曜ロードショーの【サイト】を見に行った。1/14の「ドリブン」のキャストを見て、心がときめいた(笑)

 実は、「ドリブン」という映画自体は、劇場に観に行って、正直「○☆※▽!」という気持ちになった作品なのです。
 正直、地上波公開されても興味はなかったのですが、ジミー役が櫻井さんなら話は別(大笑)

 ジミー役だとすると、かなり出ずっぱりな役なので、期待しております。
 忘れないように予約しておかなくては。<すぐ忘れるからな;

December 18, 2004

怒涛の一年終了間近?

 2004年という年を振り返ってみました。
 ――記憶の穴を見つけて、ふと、歳を感じてみたり(笑)
 以下、防備録のようなまとめです。

  1月:
 義父宅へのお年始で始まった一月。「ラストサムライ」を見て、渡辺謙氏の姿にメロメロになった松の内。大河ドラマ「新選組!」の開始に伴い再読した「燃えよ剣」で、山崎の最期に号泣してしまい、やっぱり烝サンが好きだと、そう確認しました。
 この月の観劇は「ベント」――やはり号泣もので、涙をこぼさずに居るのがものすごく大変でした。すごくいいお芝居でした。「異聞 西遊記 孫悟空」も観劇。

  2月:
 京極堂シリーズをガッツン読み始めた二月。仰向けに寝ていて本を取り落とし、肋骨を強打すること数回。本というものは色々な意味で凶器ですな。
 「あなたとわたしの日野市新選組ツアー 源さんのご子孫はやっぱり素敵な方でした」を決行。同じ畳の上を歩き、郷土を愛する方を間近で見て、綿々と受け継がれていく歴史という流れってすごいなと、感動しておりました。
 「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」は公開直後に頑張って見に行った覚えがあります。

  3月:
 とにかく3月は「黒龍の柩」でしょう。男と男の世界、土方サンと山南サンの篤くも深い友情と信頼、ひたすらに理想と情熱で突き進みながらも、どこかで醒めていて、迷い脆い面を覗かせる土方像――これに惚れなきゃ女じゃないでしょ、とまで思ってしまった本でした。
 本当に「新選組」にはまってしまって居たんだなぁ;
 能の謡本を数冊購入してはまったのもこの時期。

  4月:
 まだまだ地味に京極堂を読み続けておりました。仰向けに寝ていて本を取り落とし、肋骨を強打すること多数。本というものは色々な意味で凶器――って、同じ事を何度繰り返すのですかあなたは;
 プチ多忙期に入り、自由になる時間は減りつつありましたが、それでも映画に行ったり、演劇のDVD見たり楽しんでおりましたね。試験も受けたしな。
 「ホーンテッドマンション」面白かったです。

  5月:
 徐々に多忙期に差し掛かってきた五月。「燃えよ剣」と「アマデウス」を観賞。
 「アマデウス」は、本当に素晴らしかった。初のボックス席でドキドキした(笑)し、周囲の観客をあまり意識しなくてよかったので、もうどっぷり浸ってしまいました。
 家に帰って、押入れの中のCDを漁り、オペラを聴いてしまったりとか、しておりました。はい。影響受けすぎです。
 「CASSHERN」観たり、コミティアに潜入したりしておりました。

  6月:
 「オイディプス王」を観賞。悲劇の世界に浸りきり、「人間って何だ」とか、「悲劇って何だ」とか、考えてもおいらには無理だよ、難しいよ――という気持ちになった翌日、天使の歌声「ウィーン少年合唱団」の公演を鑑賞。
 歌が好きだと全身で表現しながら歌う姿に、なんだか救われたような気がしました。
 能やオペラのチケット争奪戦に見事敗れ果てていたのもこの頃(がっくり)

  7月:
 初の沖縄を体験。沖縄は美味しかった。うん。沖縄最高。また行く!
 「のだめ」にはまり、ナントカのようにクラシックを聞き続けてました(笑)
 「キング・アーサー」も観ましたね。ファンタジーじゃなかったけれど、私は好きでした。でも、ランスロットとトリスタンがピーーーーッだったので、すごく悲しかったです。
 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」も見たような……。ハリーが大きくなってました。
 「フルハウスキス」の攻略を始めたくせに、まだ終わってないのはどうして?

  8月:
 引越しが決り、怒涛の日々に突入。「パトラッシュ、ぼく、もう疲れたよ……(がっくり)」な日々と申しましょうか。
 実は、あまりにも怒涛だったので、8月の自分の生き様をあまり覚えておりませんのです;
 たしか、月末滑り込みで「LOVERS」は見に行ったように思います。

  9月:
 土砂降りの花火大会(笑)――これは強烈でした。雨にも負けず、風にもまけず、打ち上げる花火師の心意気に乾杯。
 親戚の訃報やその後の事務処理の手伝い、新たに繋がりを認識して語り合った方の存在など、忘れらない時期でもあります。
 個人的にはターキーのボトルを女二人で空けて語り合い、その後道路で爆睡してしまった自分の記憶をなかったものにしてしまいたいです(がっくり)

  10月:
 超絶多忙期に突入。生存確認がとれず(笑)、生きてるのかお前――な感じで色々な方にご心配をおかけしましたスミマセン(がっくり)
 自分を叱咤激励する(?)ために始めた「マイネリーベ」はネタ過ぎて、未だに終わってません(笑) 暇になったら攻略しようと思いつつ、ネタだからまぁいっか、とか思ってしまっています。

  11月:
 映画「誰も知らない」はものすごく強烈でした。未だに上手く感想を語れないかもしれません;
 紙の本を読む時間がなく、それでもどうしても活字が読みたくて、移動時間に電子ブックに走っておりました。たぶん、10月と11月だけで30冊分くらい読んだんじゃないかな。電子書籍、場所をとらないのが一番の利点ですが、パソコンのバッテリーが刻々と減っていくのが難点です。シグマブックとか、買っちゃおうかな;
 オペラ「フィデリオ」を観賞。めちゃめちゃよくて、泣きました。

  12月:
 まだ、あと2週間くらい残っておりますが――というか、2週間しか残っていないのですが;
 「Mr.インクレディブル」と「ハウルの動く城」、どちらも楽しかったです。
 舞台は「SHIROH」ロックミュージカル。実は、ちょっとうるっときたりなどもしたんですが、恥ずかしいから内緒。

 ざっと思い出してみて、10本くらい映画に行ってました。DVDで観賞したものもたぶんそれくらいなんじゃないかと思います。忙しかったわりによく観てますね――っていうか、本当に忙しかったんですか?(笑)
 舞台は6つ、DVDで観たものがそれに+α。野外能を1番だけ(通りすがりで観た/笑)
 本は、正確には覚えてませんが、たぶん20冊くらい(読書感想書いてないし; でも、多くが古臭い文学の再読本だったので、読書記録として残すのはなんだか^^;)、それ以外に電子書籍で30~40冊程度。
 クラシックは、オペラと合唱のみ。ピアノコンサート行きたかったなぁ……でも、なかなか食指が動くものがなくて。
 美術館は、出先で行ったものだけだったかも。残念。

December 12, 2004

阿修羅城の瞳

 穂高サン@【Novelism】所有のDVD『阿修羅城の瞳(2003年公演)』を鑑賞させていただきました。
 【阿修羅城の瞳】<こちらは、映画化、来年春公開予定の同作品のサイト
 『SHIROH』鑑賞後だったので、舞台の熱を持ったまま、ついつい見惚れてしましました。

 映画化されるという情報は知っていたのですが、キャストまではよく知らなくて、上記のサイトに行って、ちょっとびっくりしてしまいました。「笑死」役、韓英恵さんなんですね。『誰も知らない』での強烈な瞳力が印象に残っていて、なんか、ものすごく納得。あの役は絶対瞳力がないと無理でしょう。特に映画というメディアになってしまうのならば。

 公演を見終わった後、どうしても『阿修羅』というモノが気になってしまい、ついついググルで調べまわってしまいました。『鬼』という単語と『阿修羅』という単語が、いまいち自分の中で結びつかなかったんですよ; どっちかというと、『羅刹』の方が私の中で鬼っぽかったというか。<あくまでも仏教的な意味での『鬼』のイメージが強すぎたんでしょうね;
 もちろん、三面六臂であることが作品上とても重要で、『阿修羅』という単語が持っている『絶対に勝てないんだけど、戦い続けなくてはならない』という意味合いがストーリーと絡み合っているということは、よくよく理解は出来ておりました。
 ――で、調べまわってみて、なんだか、ようやくいろいろ納得。ストンと作品の中のいろいろなものが体の中に落ちてきたというか、不思議だと思った部分が納得できたというか。
 なんで『阿修羅城の瞳』というタイトルなのか、自分なりに納得できました。はい。お見事です。

 感想:
 とにかく天海祐希(闇のつばき役)さん、とにかく美人。艶めかしい白い肩が見えるたびに、思わず心の中でめいっぱい仰け反っておりました。剣持つ姿も強そう。――っていうか、市川染五郎(病葉出門役)さん、負けるんじゃないかと、めちゃめちゃ心配になってました(笑)
 伊原剛志(安倍邪空役)、男前です。男前で、姿も顔も男そのものなんだけれど、顔立ちだけなら少し甘いニュアンスがある染五郎演じる出門が強烈な『男』を感じさせるのに、邪空から感じられるものが『女』だったという、不思議な感触をもたらしていただきました。

 『鬼』というのは、「妄執」とか「執着」とか「恋」とか、そういった狂気にも似た『見えざる激しい思念』という、文字通り本来の意味通りの『鬼』だったのだなと、そう思うと、邪空の立ち位置が、日常の最中にあるんだなと、なんだか切なくなりました。

shop阿修羅城の瞳K.Nakashima Selectioncheck.gif

December 11, 2004

SHIROH@SHINKANSEN☆RX

 帝劇に劇団新感線のロックミュージカル「SHIROH」を見に行って参りました。
 【SHIROH
 新感線の舞台は初体験。初めての新感線。初めてのロックミュージカル。初めての上川さん(益田四郎時貞[島原の四郎]役)の歌声体験――ということで、期待に胸躍らせて挑みました。

 穂高サン@【Novelism】にお誘いいただいたのが、11月上旬、行く気満々でスケジュールを空けて行って参りました帝劇。帝劇、前に一度、何かの機会に行ったような気もするのですが、方向感覚を失って生まれた私にとって、いつもの所も初体験(笑)気分なので、ほとんどカルガモの雛のように後ろをくっついて行っただけでした(がっくり)

 実は、私はQ州出身。天草四郎生誕の地とされる宇土へは車で30分(※長崎出生説もありますが)という場所で育っているので、いつもいつも天草四郎をメインキャストとした映画や舞台などがあると、なんとも不思議な気持ちになります。実際、私が水遊びをしていた場所は、鎌倉時代からの川港(現在は、ただ石段が残るのみ)で、加藤清正の時代から、貨物の集積地としての経済港であると同時に、有明海に船を漕ぎ出す軍港でもあり、島原の乱の際には鎮圧のための船を出したという史実が残っておりました。キリスト教の川伝いの伝播を阻止するために、生まれ育った家の周辺は、これでもかというくらい寺が多く、小学生の頃の自由研究のテーマとして取り上げられたりしておりました。なまじ、天草・島原一揆には多少の予備知識があるために、四郎が二人で、裏切り者の南蛮絵師・山田右衛門作抜きでどうやって舞台が組みあがるのかとか、期待と不安でドキドキ~って感じで、とりあえず着席、開演を待っておりました。

 感想:
 いやもう、とにかく中川さん(SHIROH[天草のシロー]役)歌上手いし! 15歳で一揆の対象として祭り上げられた≪天草四郎≫の少年らしさとか、純粋さとか、もうとにかく前面に出てます――って感じで、オネーさんもうどうしようかなと。<どうもしなくていいです;
 上川さん(益田四郎時貞[島原の四郎]役)、甘い声で上手く台詞に被せながら歌ってらっしゃいました(途中、ちょっと庇護欲をそそる所もありましたが/笑)。殺陣は絶品。立ち姿だけでキマる役者さんって、あまり多くないようにも思うんですが、この方、立ち姿だけでもう、キマってるんですよね。

 残念だったのは、役者さんお一人お一人の声量に違いがあるため、マイクの音量バランスがアンサンブルやコーラスの際に、若干微妙~な感じに聞こえてしまったことでしょうか。

 内容への感想は、ネタばれになってしまうので細かくは書きませんが、ロックミュージカルというよりは、ゴスペルミュージカルという印象が残りました。思っていたよりずっと、ちゃんと宗教色があって、きちんと≪天草四郎≫であり、ちゃんと≪ぱらいそ≫で≪まるちり≫だったように感じたので。

 ただ、天草・島原一揆の真の悲劇性は、幕府に対して今後起こるだろう一揆を根絶やしにするための生贄的な意味合いだけでなく、一揆に加担した民衆の心の支えがキリスト教であったにも関わらず、当のキリスト教界の認識は『重税に苦しむ農民一揆』であると認識されている所にもあるように思います。実際、当時のキリシタンの姿を見た宣教師の中には「彼らが信じるあれは既にキリスト教ではない」と述べる者もいたそうです。そういう意味合いでの悲劇性は舞台の中では薄かったカナと思いました。はい。

shopSHIROHK.Nakashima selection (Vol.11)check.gif

構築完了予定日

 現在、Movable Type日本語版を使用して、サイト構築運営のための試運転中です。構築完了予定日は12月15日~20日予定。

 基本系をあまり変えずに、でもデザイン的には多少変った風に見せかけて、画像は極力使わず――と考え始めると、ものすごく面倒ですね;
 なるべく可愛く――などと思っていたのですが、なかなか、かなり難しいです。最近、ずっと空のイメージでサイトを作っていたので、今回も空色を中心に、空色とオレンジで作ってみています。

 以前のバージョンと比べて、カテゴリーが使いやすくなったカナ――という印象はあります。サブカテゴリーをきちんとサブカテゴリーっぽく演出できるのが、うれしいかな。結局日本語カテゴリーは使用しなかったので、その辺の使い勝手がどうなっているかはわかりませんが、現在の使用感は以前のものより若干いい感じ、くらいでしょうか。

 読書関連の共有ブログも日本語化してみたいですが、日本語無償版はユーザー1名なんですよね; なので、こちらは当分昔のバージョンで行きます。デザインくらいは変更したいかな。<正月休みに時間があれば。

December 10, 2004

第一章『k-2011』 (8)

 慌しく通信スイッチを切ると、数秒後に軽い機械音がして、監視プログラムが作動し始めた。美都が安堵のため息をつく。
「セキュリティーチェックはオールクリアね。良かったわ」
 琢己は疲れたように肩を落とした。

「今の子が、AOMCなのね。全く普通の子供と変わらない……。ちょっと言葉遣いが大人びていて、初めて会った頃のあなたみたいだわ」
 思い出すように瞳を伏せて、美都は首を傾げた。初めて出会った時、二人ともまだ立場は高校生だった。当時はまだ現在のように飛び級制が一般的ではなく、義務教育である中学の課程までは通常どおりに通う必要があった。その後の飛び級試験の結果によって高校課程の期間が決定されるが、最短でも一年、高校生として学校に通う必要があった。琢己も美都も立場は高校生だったが、既に高校課程の単位は全て修め、入学する大学も決定していた。研究所の手伝いをしながら、お互い初めて自分と同じ立場の人間と出会った。
「どんなに人のように思えても、奴はAOMCだ。巨大なDNAコンピューターが全ての行動を制御する。精密な思考プログラムが組まれていて、人間の脳と同じように学習することも可能だ。そして、いったん学習して手に入れた知識や思考をけして忘れる事はない…」
 苦しげな琢己の声に、美都は慌てたように声をあげる。
「どうしたの? 後悔してるの?」
「しているさ……」
 美都はゆっくりと琢己の傍に歩みより、そっと肩に手を触れた。
「何を?」
 琢己は答えなかった。美都はため息をつくと、思い出したように仮眠室のドアを見つめた。
 その先にあるベッドには女性が一人横たわっている。所長から渡された『資料』である彼女は、『k-2011』の開発者の妻であり、唯一の『k-2011』の感染者だという。いったんは目を覚ましたのだが興奮が激しく、仕方なくもう一度鎮静剤を打ち、体に付けられていた拘束具を外して眠らせている。
「そろそろ薬がきれる頃だわ。私、見てくるわね」
 感染者の体液を使って『snow』のウイルスデータの詳細をコンピューターに検査させている。結果が出るのは5時間後だ。それまでに僅かでも『k-2011』について知っておきたかった。そのためには一刻も早く女性に状況を説明し、協力を仰がねばならない。女性は極度の緊張状態のために疲弊している。点滴は行っているが、脱水が酷く、興奮状態の持続も脱水による電解質の異常のせいかもしれなかった。
 そっと扉を開けると、その音に反応したのか、女性の瞼が微かに上がり、顔が扉のほうへ向けられた。
「お目覚めになられましたか?」
 美都は出来るだけ音を立てないように部屋に滑り込むと、女性の枕もとに座った。
「脱水が酷かったようです。今、点滴をしています。もうじき終わりますから、そうしたらもう、起きてくださって結構ですよ」
 起き上がろうとした女性を押し留め、美都は安心させるように笑った。はっきりと意識をもった女性の瞳に異常は見られない。しかし、緊張と不安が女性の顔を強張らせていた。
「ここは、もしかしたらご存知かもしれませんが、国立の研究所の中です。私は研究員の霧島と申します。あなたは、連合によって拉致され、不当な扱いを受けていました。私の知らない場所でのこととはいえ、卑劣な手段だったとお詫びします。しかし、どうしてもあなたの協力が必要なのです」
 女同士だからだろうか、女性は不安げな顔をしたままだったが、その場から不意に逃げようとしたりはしなかった。ただ、チラリと視線が走って、壁の時計を見つめた。
「今は、木曜の昼です」
 時を告げると、女性が一瞬驚いたように美都を見た。
「ここにいるのは、私だけね?」
 女性は掠れたような声を絞り出した。
「ええ。そうです」
 美都は短く答えた。女性の顔にふと安堵の色が見えた。
「お名前を教えていただいてもいいですか?」
 女性はゆっくりと起き上がった。
「狩野千恵子――この研究所には若い頃、勤務していましたわ……」
 静香は点滴のパックを見上げ、それが既に空になりかけていることを知ると、ゆっくりと立ち上がり女性の腕を取った。
「点滴を抜きましょう。あちらでコーヒーでもいかがですか? 散らかってますけど」
 手早く針を抜き、女性が立ち上がるのを助けると支えるように手を添えながらゆっくりと扉を開ける。琢己はまだ、端末機の前に座っている。
「この椅子にどうぞ」
 美都の声を聞いて初めて気がついたのか、琢己が立ち上がり小さく会釈をした。そしてゆっくり近付き、あまり近すぎない場所に座った。
「彼も研究員で結城と申します」
 千恵子はその声に応えるように琢己を見つめ、しっかりとした声で問い掛けた。
「何故、こうまでする必要があったの? 主人が海外へ行く時にはっきりと約束したはずだわ。今後いっさい、連合は私達の家庭に介入しないと」
 千恵子の声には僅かに敵意が感じられた。無理もない。突然家に押し入られ、半ば拉致されるようにして連れて来られたのだ。
「すみません。実は、私たちの方もあなたの事について何も知らされていないのです。というのも、私達の手元にはあまりに乏しい資料しか存在しないからなのですが…」
 美都はゆっくりと言葉を選んだ。だが、結局ストレートに疑問を口に出した。
「――『k-2011』というコード番号をご存知ですね?」
 千恵子は一瞬眉をひそめ、曖昧な表情のまま頷いた。
「研究対象だったわ」
「実は、その変異株と思われるウイルスの感染症が、南アフリカ酸素生成プラントの近くで発症しました。致死率が高く、非常に危険なウイルスに変貌を遂げています。オリジナルの感染動物を捜すためのユニットは、不運にも感染し、全滅しました。現在、彼らが感染の拡大を阻止するために放った火が、森を焼いています…」
 千恵子はふと、ニュースでちらりと見た山火事の様子を思い出した。
「オリジナルの探索は不可能になったのね?」
 琢己は少なからず驚いていた。彼女は確かにかつてここで働いていた助手だったのだろうが、既に現役を退いて15年以上になる。だが、千恵子のその言葉にあまりブランクは感じられない。
「はい。不可能になりました。私たちは、手元にある資料だけで血清を作らなくてはなりません。どうか、私たちに『k-2011』について教えていただきたいのです」
 美都は祈るような気持ちで千恵子を見つめた。千恵子は微かに首を傾げた。
「私が連れてこられた理由は分かりました。ですが、例えば私の血液から『k-2011』に対する抗体を採取しようとしても、おそらく無駄です」
 千恵子はまっすぐに美都を見つめた。
「あなた方は私が『k-2011』の感染者だと思っていらっしゃるのでしょう? 確かに私は『k-2011』に感染しました。しかし、私は感染者ではありません。感染したのは私の娘だけです」
「――どういう意味でしょうか…?」
 千恵子の言葉は不可解だった。美都は反射的に疑問を投げかけた。
 千恵子は微かに微笑むと、ゆっくりと口を開いた。
「16年前、私は体調不良に悩んでいました。当時、私は夫と――狩野博士と交際していましたが、まさか、妊娠しているとは気が付かなくて、彼の研究の助手を続けていました。当時の研究対象だった『K-2011』への感染の可能性が分かったのと妊娠の事実が分かったのはほぼ同時で、奇形の可能性も含め、厳重に胎児の診察が行われました」
 思い出しているのだろう、千恵子の頬には寂しげな微笑みが浮かんだ。
「そして、ウイルス感染を引き起こしたのは私ではなく、胎児であることが分かりました。おそらく、研究中の感染性を低下させた『k-2011』弱毒株が私の体内に侵入し、胎盤を経由して胎児感染を起こしたのだろうと推測されました。エコーでの診察に異常はなく、20週目に行われた羊水検査でも特に異常は有りませんでした――けれど……」
 不意に黙ってしまった千恵子の顔には、微かに怒りに似た表情が浮かんだ。
「大事を取って、予定日にあわせて私は帝王切開で娘を産みました。そのとき検査された娘の血液には『K-2011』の抗体が見つかりました。娘の体に異常は有りませんでしたが、ウイルスの研究チームは生まれたばかりの娘の体にメスを入れ、片方の卵巣を摘出したんです」
 美都は産み落としたばかりの我が子の体にメスを入れられる母の気持ちを思った。
「『k-2011』の研究のためですね?」
 琢己が小さく尋ねると、千恵子は頷いた。
「私たち夫婦はすぐに研究所を辞しました。通常、辞めることは出来ないと言われている研究所ですが、事態が事態だっただけに、表面上はすんなりと、研究所との関係を解消することが出来ました。けれど、娘が2歳になる頃、連合は娘を誘拐した……。目的は主人を再び『k-2011』の研究に向かわせるためでした。『k-2011』は雪を媒体として使用する新しいタイプのウイルス兵器で、感染後に発症のタイミングをコントロールできる事から、本格的に殺傷能力の高いものを作り出す計画がなされていたのでしょう――」
 千恵子は不意に顔を上げた。壁にかかっているEVILのマークを睨むと、唇を噛んだ。千恵子の振るえる指を、琢己はただ見つめていた。
「主人からは数回手紙がきました。手紙の最後には必ず『いつも後悔の海に居る』と記されていました。そして、最後の手紙には……」
 ただ一言――愛していた、と、過去形で。
 千恵子の声は震えた。

 部屋の中は静まりかえっていた。
 娘の安全のために家族と決別する道を選び、殺人ウイルスの研究を続ける中、突然、彼は自らの研究と共に自分自身をも抹殺した。その理由も告げず、家族への愛情さえも過去形にして彼は去ったのだ。
「私には、彼の決意の底にあったものを知ることすら出来ませんでした。けれど、彼は自らの全てを捨ててさえも侵してはならない領域があることに、人として許されざることがあることに、きっと気がついてしまったんでしょう。気が付かざるを得ないような場所まで、彼の研究は転がっていってしまっていたんです。推測でしか、ないのですけれど……」
 ポツリと、自分に言い聞かせるように千恵子は呟いた。モニターのかすかな唸るような音だけが響いて、琢己は漏れそうになる深いため息を押し殺した。
 千恵子の言葉一つ一つが、琢己の胸には痛かった。
 自らの全てを捨ててさえも侵してはならない領域――。その、踏み入る事の出来ない領域の境界線を、たしかに琢己は見つめたことがあった。
 あの時、聡明な、曇りのない瞳がまっすぐに自分を見つめていた。全てを悟っているかのように、微笑みもせず、かといって憎しみさえも見せずに、童女のような少年は琢己の目の前に立っていた。研究用の白い裾の短いズボンから伸びた足はか細く、耳元でぷっつりと切りそろえた髪は綺麗に梳かされていた。何の感情もないように見開かれていた瞳に、不意に浮かんだのは慈愛の微笑だ。
 少年へと伸ばした琢己の指が頬に触れると、その瞳はゆっくりと閉じられ、不意に眦から一筋だけ涙が零れた。そのときに胸に沸き起こった、表現することさえも難しい、激しく狂うような悲しみと怒りに似た後悔の感情を、琢己は忘れることが出来ない。
 ――俺は神じゃない!
 琢己は宗教上の神を信じたことはなかった。琢己の中で『神』とは科学そのものであったと言ってもいい。彼のAOMCプロジェクトが成功した時、周囲の人間は『とうとう科学は神を超えたのだ』と琢己に賛辞を贈った。それは琢己にとっても、琢己の『神』の圧倒的な勝利だった。自分の信じていたことの正当性の証明に他ならなかった。
 だが、あの涙を見た瞬間に、そんな幻想は音を立てて崩れた。琢己は己の精神が悲鳴のような声で叫ぶのを聞いたのだ。
 ――神よ、お許しください!
 琢己は彼を抱えあげ、地下に潜った。彼を守り育てるために、琢己は地下組織のメンバーに医者として参加した。不安定な彼の体を維持するためには、最低限の医療設備が必要だったのだ。
「琢己!」
 追憶の波に漂っていた琢己の精神は、悲鳴のような美都の声で現実に引き戻された。美都は愕然としたような顔で端末機のモニターを指差している。
「どうし――!」
端末機のモニターに、先刻見つめたばかりの柔らかな微笑が浮かんでいた。ほんの一瞬だけその映像は暗い画面の中に浮かび、不意に暗転したモニターの中でカチカチと小さな文字が打ち込まれた。
 ――What is M? I want to know about M. I want to know myself.
 琢己は、言葉につまった。それは彼が常に心の隅に置いていながら、一度も琢己に問いかけなかった言葉だ。そして、琢己自身も満足に答えてやることは出来ない。彼に与えられたDNAは、EVILから提供されたもので、人物を特定するようなものは全てマスクされていた。『M』は『Mongoloid』のことで、とある健康な提供者のものだとしか知らされなかったのだ。
 琢己は端末に駆け寄ろうとした。だが、その動きは背後からの甲高い悲鳴に止められた。
「めぐみ!?」
 張り裂けんばかりに見開かれた千恵子の瞳に、端末機の画面が映っている。驚愕にひき歪んだ顔が、突然、激しく横に振られた。
「違う――、めぐみじゃない! めぐみじゃないわ!」
 美都の制止の腕を振り切って、千恵子は端末に走り寄った。画面の文字を読み取った瞬間に、千恵子は絶叫した。
「今の子は誰? いったい誰なの? 何故めぐみの顔をしているの? 『M』って何よ!」
「千恵子さん!」
 美都は慌てて走り寄り、端末に覆い被さるようにして激しく嗚咽する千恵子を抱き寄せた。
「落ち着いて! 今の顔に見覚えがあったんですか?」
 千恵子の体は、力なく美都の胸に崩れた。拉致され体調が満足でない状態での一瞬の激しい興奮が、千恵子を一気に疲弊させていた。
「娘よ……。私の大切な、この世界でただ一人、私達が守ると決めた、私達の娘――」
 美都は問い掛けるように琢己を見上げた。琢己は何も言わず、端末の通信スイッチをONにし、巡回プログラムの隙間をぬって、誰からとも分からない形で送信されたメッセージを開いた。そこには、暗い画面に表示された短い文章と全く同じものが並んでいるだけだった。

第一章『k-2011』 (7)

「地殻変動で家族を無くした俺は、施設に収容され、そこで社会適合できる職をあてがわれ、15になったら独りで生活させられるはずだった……」
 野島は初めて重い口を開いた。
「当時、各国の警察は連合と激しく対立し、水面下で激しい情報戦が繰り広げられていた。施設に入った人間は好むと好まざるとにかかわらず次第に警察色に染められていく。俺もその例に漏れなかった……」

 父を尊敬していた少年の心にとって、父と同じ職業というものは素晴らしいものと感じられる瞬間がある。野島は警察という職を選んだ。高い知能指数を保持していた野島は高校をスキップし、大学で特殊な捜査過程――心理学やコンピューターによる情報操作などを修めた。
「海外ボランティアは名目さ。もちろん救急医療程度は学んでいたから、実際のボランティア活動は行っていたけれど、実際に俺がさせられていたのは連合の動きを探ることだった。そして、俺はある一人の人物と会うことになる。連合内部でウイルス学を修めていた研究者、名前は最期までわからなかった。俺は彼に日本に残した家族の状態を教えてくれるように頼まれたんだ」
 野島はゆっくりと顔を上げ、私をじっと見つめた。
「狩野、俺が出会った人物、それがおそらく、お前の父親だと思う……」
 めぐみは小さく頭を振った。世界から音が消えた。


 酸素生成プラントの脇で起こった小さな事故の現場に野島は来ていた。重症の怪我人は既に車で病院へと搬送されていたが、切り傷、擦り傷程度の怪我人はまだ、その場で治療を受けるのを待っていた。
 ボランティアをはじめて4年が過ぎた。遣り甲斐はある。しかし、ボランティア作業の裏で自分に課せられた、任務は、野島を悪戯にいらつかせた。
 自分が不実であるように思えた。こうして、怪我人の腕を取り、止血し、治療を受けさせ、彼らは一様に感謝の眼差しと言葉を野島に贈って去っていく。
 純粋にボランティアなら心から喜べるのにと、野島は苦く笑った。任務を受けて海外に渡ったばかりの頃、どうしてあんなにも誇らしくあれたのか、今ではどうしても分からなかった。
「あ、先生。空、空を見てよ…」
 痛みに顔をしかめながら、それでもおとなしく野島の治療を受けていた少年が、不意に空を指差した。
「虹…。すごいね…」
 空いっぱいに掛かった大きな虹が、鮮やかに網膜に焼きついた。
 その虹はなかなか消えず、結局10人のボランティアでの治療が全て終わってしまっても、ぼんやりと空に掛かっていた。

 ――子供の頃、虹を追って行ったことがある。虹の出来る場所を見てみたかったのだ。もちろん、たどり着くはずはなかった。

「虹、好きなのかい?」
 柔らかな、優しげな声だった。久しぶりに聞いた日本語に驚いて、野島は声の方を振り返った。振り向いた先にいたのは、白衣に身を包んだ、痩せた、色の白い男だった。
 それが出会いだ。

 そこまで語ると、野島は小さく溜息をついた。冷めたコーヒーを口に含み、苦い顔をして嚥下すると、ちらりとめぐみの顔を覗き込んだ。
 めぐみは黙ったまま、そんな野島の様子を眺めていた。
「久しぶりに聞いた日本語は、懐かしかったよ。それはその男性も同じことのようだった……」
 再び、野島は記憶を探るように、ゆっくりと話をはじめた。

 男はいつ日本を発ったのかと尋ねた。野島が3年前の2044年だと答えると、男は懐かしそうな瞳をした。
「私は2038年以来、日本の土を踏んでいないんだ」
 家族はと問うと、男は寂しそうに口を噤んだ。
「妻と娘が一人。娘はもう、10才になった頃かな。私のことなど、覚えてはいないだろうね」
 懐かしいなら帰ればいいのだ。男の身なりから察するに、おそらくはどこかの研究プロジェクトに加わっているのだろうが、どんなプロジェクトでも、通常1年に20日は連続の休暇が取れるようになっているはずなのだから。
 野島は思った通りに口に出した。男は寂しそうに笑った。
「いや、私は長期の休暇は取れないんだ。細胞の培養をしているからね」
 何を研究しているのかと問う野島に、男は答えた。
 ――ウイルスの研究だと。

 その場所での任務はもうじき終わりかけていた。課せられていたのは、生成プラントの周辺に散らばる研究室への人の動きを見ることだった。俺は問題ないと報告した。早く、日本に帰りたかった…」
 野島の顔は青く見えた。俯いた顔に影がさして、めぐみは一瞬泣いているのかと不安になった。
「帰り際、俺はその男を捜した。日本に帰るのが無理なら、家族の近況くらいは伝えてやれるかもしれないと思ったからだ。――でも、会えなかった。彼とは、もう二度と会えなかったんだ…」
 そして、男がふと漏らした故郷の話から野島はこの場所を探し出し、彼がかつてこの地の大学で学んだことを知り、まるで彼の背中を追うように入学を決めた。それはあまりにめぐみの志望理由と似ている。二人はそうとは知らないまま、同じきっかけで大学に入り、いつの間にか隣に座っていたのだ。
「狩野の生い立ちを聞いたとき、壊れて穴のあいてしまった場所に、何かが――そう、そこにあるべき何かが、ぴたりと嵌まり込んだような気がした。狩野の母さんを襲った黒服を見たとき、それは明確な一つの考えになった。俺が出会ったのは狩野の父親。彼の研究プロジェクトはウイルス。そして、その研究プロジェクトの出資者は、おそらく――」
「連合ですね」
 ケイは恐ろしく冷めた、態度で言い放った。
「僕のプロジェクトにも連合が一枚噛んでいるといいましたよね。連合はなぜか、ことに遺伝子に関する分野に多く関与しています。おそらく、狩野博士の参加していたウイルスプロジェクトも、遺伝子関連のものなのではないかと思いますが…」
「遺伝子操作の際の遺伝子の運び屋としてのウイルス研究か?」
「そうです。もしくは――そこから発展させられたウイルスそのものの研究か…。どちらにしろきな臭いですね。博士は研究室に拘束されていた可能性が高い」
 父は帰れなかったのだ。日本に焦がれ、妻を、娘を思いながら、父はけして日本の地を踏むことが出来なかった。
「私のせいだ…」
 ポツリとめぐみの口から呟きが漏れた。

 灰色の壁。無機質な金属の匂い。冷たい床。黒い服の男。白い雪。曖昧な視界。――そして、声。
 ――『ユキ』って言うんだよ。

「私が断片的に覚えていることが正しい記憶なら、私は連合に誘拐され、父は私を守るために連合に従った…。あの灰色の壁の建物の中で、人工的に降らせた雪の中で、私は父が泣くのを見た。私を抱き上げて父は泣いた。私を、守るために……」
 記憶の奥深くにあった雪。めぐみはゆっくりと冷めたコーヒーの入ったカップを置き、膝を抱えた。誰も言葉を発しなかった。
「雪の記憶を探さなければ。どうして雪が降っていたのか。どうして今になって私の家に連合が現われたのか」

 私は雪の記憶を探る。あの無機質で人工的な雪が私に何かを語っているのだ。
 私は知らなければならない。
 私は目覚めなければならないのだ。母のゆりかごから這い出し、世界を知るために。

 めぐみはまっすぐに何もない壁を見つめた。本当に真実を知りたいならば、自分の目で見つめなければならないのだ。世界を。

 不意に端末機が唸った。一瞬ギョッとしたような視線が端末機に注がれ、ケイがそっとその画面を見つめた。通信元はEVILだが、表示された識別コードには見覚えがある。
「大丈夫です。一応、端末機の映像範囲には入らないようにしてください。古くからの知り合いですから、安心して」
 ケイは用心深く通信スイッチをONにした。画面に骨格がしっかりとした、少し痩せ気味の男の顔が現れた。

「こんにちは。どうされました?」
 めぐみは野島と肩を並べるようにして、部屋の隅で端末機を見つめる。この位置は端末機のカメラからは死角だが、モニターの画面は目に入る。画面の中の男は微かに唇をゆがめ、小さく笑った。
『元気か、坊主』
 少し困ったように寄せられた眉の下で微かに男の視線が泳ぐ。
「いやですね、つい先日お話したばかりじゃないですか」
 ケイの声や口調はくだけている。かなり親しいのだろうと想像がついき、何故かめぐみはほっとした。
『すまん、時間がないから用件だけ先に話す。実は、頼みたいことがあるんだ』
「頼みたい事?」
 画面の中で男はしきりに時計を気にしている。
『南アフリカ酸素生成プラント付近の致死的ウイルス発生の話は先日話したが、実は、そのことで困ったことが起きた』
 男は小さくため息をついた。
『レジスタンス内に感染が広がった可能性がある。周辺区域はおそらく近いうちに閉鎖されるが、実際の感染拡大状況を知りたい。だが、手段がない…』
 ケイは静かに頷いた。
「内部通信記録をハックすればいいんですね? あとは各種交通手段の乗客記録と」
『頼む。あぁ、もう時間がない。監視プログラムが動き出す。詳しい内容は端末内に入れておく、ハックして取っていってくれ』
 通信は不意にプツリと途絶えた。暗くなった画面にケイの顔が僅かに映り込んで見える。
「どういうことだ?」
 野島の低い声にケイは振り返った。顔からは笑みが消えている。
「今のが、僕の生みの親。プロジェクトを崩壊させ、僕をこうして生かしつづけてくれている人です」
 ケイは再び二人をソファに招いた。そしてすっかり冷めてしまったコーヒーを煎れなおすためにコーヒーメーカーに向かいながら、ケイはこれまでの経緯を話し始めた。
「プロジェクトが崩壊した時、僕は廃棄を覚悟しました。事実、彼も最初は廃棄を考えたでしょう。プロジェクトの崩壊は彼の連合への反抗でした。けれど、彼は僕を殺さず、僕を連れて研究所から逃げ出したんです」
 ケイはカップを二人に渡すと、自分は床に座り込んだ。
「彼は僕を連れて地下に潜りました。しばらくして、彼が地下組織の医師となったことで彼とは住居を別にしましたけど、その後もずっと僕の体の検査をしてくれています」
 ふと、昔の事を思い出したのだろう、ケイの顔が和んだ。
「つい先日、不意に彼から連絡があって、再び研究所のプロジェクトに参加する事になったと告げられました。正直、意外でしたが、理由を聞いて納得しました。その理由というのは――聞こえていたと思いますけど――南アフリカで、EVILが関係していたウイルス研究が原因と思われる致死的ウイルスの発生が確認されたからでした」
 南アフリカという単語が心に引っかかる。めぐみは顔をしかめた。
「酸素生成プラントの傍には3つの研究所があった。だが、ウイルスの研究を行っていたのは一ヶ所だけだ。後の二つは有害物質を浄化するバクテリアの研究をしていた……」
 野島の声は低い。
「父の研究していたウイルスのせいなのね?」
 めぐみはポツリと呟いた。そのために連合は家を訪れたのだろうか。家の中を荒らしまわったのも、父がウイルスに関する情報を残しているかもしれないと考えたからだと想像すると、合点がいくような気がする。
「それに関しては、まだ全く分かりません。今はまだ、その関連性を調査している段階でしょう。しかしどうやら、その南アフリカでレジスタンスの内部に感染が広がったらしいんです。詳しい事は後で資料を取り寄せますけど……」
 ケイはカップを床に置き、膝を抱えた。
「研究所はある意味で牢獄のようなものです。彼らは自らの探究心を人質に取られ、常に監視された状態で研究を行っています。全ての端末機には外部との交信を記録するための監視プログラムが入れられていて、内容まで全てチェックされます。あの1分間の交信はおそらく、強制的にプログラムチェックをかけていたのでしょう」
「それほど切羽詰っているということか…」
 野島の声にケイは頷く。
「僕はしばらく、そちらの方にかかりきりになるかもしれません。実際、このウイルスの発生はめぐみさんが襲われた事と無関係ではないようです。ウイルスに関する資料の中に、お二人が巻き込まれた事件を解明するきっかけがあるかもしれません」
 ケイは立ち上がり端末に歩き出した。通信スイッチを開けるとさっき聞いた連絡先のアドレスを打ち込み始める。
「ケイ、あの人宛てにメッセージを残す事は出来るの?」
 俯いたまま、めぐみは慎重に言葉を選びながら言った。ケイは振り返り微かに訝しげな顔をする。
「可能です。――ですが、いったい何のために?」
 めぐみは小さく息を吸い込むと、躊躇う自分の気持ちを振切るように勢いよく顔を上げた。
「あなたの研究になぜ私のDNAが使われたのかを知りたいの。なぜ、EVILに私のDNAがあったのかが知りたい」
 ケイは短い沈黙の後、静かに頷いた。
「分かりました。聞いてみましょう」

第一章『k-2011』 (6)

「起こしますか?」
「いや、眠れる時は寝せておいた方がいい」
「そうですね……」
 浮上していく意識の中に不意に会話が飛び込んできた。鼻腔をくすぐる珈琲の匂いが一気にめぐみの目を覚まさせた。
「――おはよう……」
 毛布の中に丸まったまま、めぐみは二人を見上げた。瞼が重く、きっと無残なほど脹れているだろうと思い、めぐみは瞼を擦った。

「おはよう……」
 めぐみはごそごそと起き上がると、顔を洗いたいと告げようとした。だが彼――自らをAOMCだと告げた彼は背中をむけて、めぐみのためのカップを用意しようとしていた。
 声をかけようとして、めぐみは初めて気がついた。彼を呼ぶための名前を知らない。彼が告げた名前はAOMC-DNAtype-M projectID2048-2。だがそれは彼の実験用のIDであって、彼という個性を内包する名前ではないような気がした。
「――あの」
 めぐみは躊躇った。何事かと振り向いた彼が、不思議そうに見つめて首をかしげる。
「何です?」
「私はあなたを何と呼べばいいの?」
 大きく息を吸い込んで、めぐみは彼に尋ねた。一瞬停止した彼の顔が、困ったように伏せられた。
 沈黙が流れた。
 めぐみは不意に思い出した。ずいぶん昔に、自分の名前の由来を母に尋ねたときに母は言った。大地のめぐみを忘れないようにするためだと、女の子のなら『めぐみ』、男の子なら『恵』と書いて『ケイ』と付けるつもりだったと。
「私、男に生まれていたら『ケイ』という名前になるはずだったわ。だから私、あなたをケイと呼ぶわね」
 乱暴な言い方だった。だが、そうでもしなければこの沈黙からは逃れられないように思ったのだ。
「はい」
 ただ、彼は頷いた。微かに微笑んだ顔は優しかった。


 保存用のパック食料を鍋にあけ、温めただけの簡単な食事だったが疲労した体には心地いい。ケイはめぐみ達にその食事をよそってやりながら、自分は小さな電解質ボトルを取り出した。
「ケイは食べないの?」
 ケイは笑うと、ボトルのキャップを開いた。
「僕は今まで消化活動を停止させていたので、生体維持に必要な電解質は電解質そのものの形で摂らなくてはいけないんです。もちろん、プログラムを切り替えれば食事に参加は出来ますけど、正常に機能するまでに2日くらいかかるので……」
 AOMCの一番の敵は温度だと言う。温度の変化は微妙な電解質バランスの乱れを生じる。生体プログラムを停止させている場合、AOMCは低い温度に設定されており、人間の体温に近い生体プログラムへの移行は電解質の温度を急激に変化させることになる。電解質バランスを崩さずに設定温度を上昇させるには最低でも2日はかかるのだ。
「昨日の夜、プログラムを変更したので、明日になればきっと食事もご一緒できます。それまでは、気になると思いますけど……」
 彼はめぐみのために自分が生体機械であることを極力意識しないですむように努めようとしているようだった。パック食料でさえ、ただ温めて出すだけでなく、器にきちんと盛り付けていた。
「ううん。いいよ。気にしないから。――いただきます」
 めぐみはようやくそれだけ呟くと、スプーンをそっと持ち上げて細かな野菜が米と一緒に煮込まれた食事に手をつけた。暖かく薄味のそれはすんなりと胃に入っていった。
「私、家を見に行きたい……」
 何口か食事を口に運んだあと、めぐみは唐突にその言葉を発した。
 我侭であることは分かっていた。頭の片隅ではその行為の無謀さを理解している。だが、家に帰れば、もしかしたら全てはいつもの通りで、母が笑顔で心配したのよと出迎えてくれるような、そんな気がしてならなかった。
「狩野、無理だ。もう少し時間がたたないと危険すぎる」
 すぐに野島が否定した。
「でも……」
 分かっている。自分の感情はただの夢だ。そんなことはめぐみだって分かっているのだ。
「セキュリティシステムには加入していましたか?」
 ケイは思慮深げに指を組み、めぐみの顔を覗き込んだ。
「うん。たしか、SER社のクラスAに加入してたと思う。スイッチを入れると自動的に家の中の画像が保安部に送られるタイプの奴に」
 微かに首を傾げた後、ケイは微笑んだ。
「それなら、もしかしてSER社の方からアクセスすれば家の中の様子くらいは見れるかもしれません。食事が終わったら試してみましょう」
 めぐみは首を傾げた。あの時母は自分からドアを開いたので、セキュリティシステムは作動しなかったはずだ。
「――SER社のコンピューターにアクセスして、逆に家の中のスイッチを作動させるんですよ。そうすれば現在の家の中の様子が見れます。あの手のシステムは近所の方の通報の場合にも対応できるようになっているはずですから」
「――ハックするのか?」
 野島が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まぁ、そういう言い方もできるかもしれませんけど、こちらに必要な情報を手に入れるだけで誰に迷惑かけるわけでもありませんから…。あなたの部屋も必要ならやりますが。ご家族が心配なさっているんじゃありませんか?」
 気遣わしげに覗きこむケイに野島は笑った。
「いや。俺は地殻変動のときに家族を全部無くしているからな。その必要はない」
「え……?」
 めぐみは思わず聞き返すように声を発した。ずっと、単に一人暮らしをしているだけだと思っていた。大学では生徒の大半が親元を離れて生活しているので、そんなことを気に留めたことはない。
「あ、別に自己紹介で言ってまわるようなことでもないからな、黙ってたんだ」
 慌てたように理由を説明する野島を見て、めぐみは不意に父のことを尋ねた後の謝罪の言葉の意味を理解した。野島は同じ想いを経験した者なのだ。
「そうですか……。では食事が終わったら、SER社と管轄の警察内部、そして連合の支部の情報を覗かせていただきましょう。事件の処理がどうなっているか知っておきたいですし……。それに――」
 ケイはそっとめぐみを見つめた。
「あなたにはまだもう少し、休養が必要ですから」
 その言葉の中の優しげな響きに、めぐみは素直に頷いた。優しい味の食事のせいか、体が温かかった。

 家の内部は悲惨な状態だった。じゅうたんは泥の靴で踏み荒らされ、テーブルにあったカップは床に落ちて割れていた。玄関の花は枯れ、流しには洗われていない食器がつけられたままだった。
 母は居ない。めぐみは確信した。この部屋の様子がそれを証明している。
「――何か、探したみたいですね……」
 画面が寝室に切り替わる。すると、慌てて何かを探したように扉が半ば開いている整理棚が目に入った。他の場所もよく見ていると、僅かにずれている引出しや、引き出され床に積まれた本など、明らかに誰かが家中を家捜しした形跡が目に入った。
「――何を?」
 それが疑問だった。めぐみの家庭は平凡な家庭のはずだった。悩みの種といえば、オーブンが最近調子が悪いということだけというような、そういう平凡な家庭のはずだった。
「わからないですね。少なくとも小物入れに入る程度の大きさのものだということしか……」
 ケイは内部の映像を画像データとして取り込み終ると、忙しくキーボードを打ち始めた。SER社ではセキュリティシステムへのハックを防止するために巡回プログラムが3分に一度の割合で走らされている。その上、5分に一度システムへのゲートパスワードは内部更新される。巡回10秒前にはこちらの足跡を全部消さなければならない。
「鮮やかだな……」
 野島はその手元を見つめた。
「このタイプのハックはそう難しいことではありません。システムそのものがプログラム実行型ですから、同じ手順で確実に足跡を消して息を潜めていれば巡回プログラムをやり過ごすことが出来ます。難しいのは思考型システムの場合ですね。システムへのストレスパターンを分析して、通常より過負荷になっている部分の巡回が強化されるようになっています。思考型の場合、最悪ゲートパスワードが30秒ごとに更新される場合もあります」
 ちなみに連合のシステムは思考型ですと笑って見せて、ケイはリターンキーを押した。
「進入痕跡は消しました。一度回線を切ります……」
 ケイはコンタクトスイッチをOFFに入れると、取り込んだ画像を呼び出した。
「画像を見て、気になるところはありませんか?」
 めぐみは食い入るように画面を見つめた。玄関に血痕は残っていない。ということは少なくとも母は無事である可能性が出てきたということだ。
 ――よかった。
 そう思うなり、じわりと目頭が熱くなった。めぐみが小さく鼻をすすり上げると、そっと野島の掌が頭に乗せられた。
「何か気がついたことがあったらすぐ言ってくれ、俺はあっちでTVと新聞を見てくる」
 めぐみはただ頷いた。画面の中に母の好きだったバラの花が半ば枯れて放置されていた。少しでも花が長生きするように母は毎日水上げを欠かさなかったが、その愛情でようやく咲いていた小さなバラは誰も居なくなった部屋でひっそりと枯れ始めていた。
「僕も向こうでデータの整理をしてきます。あとで珈琲を持ってきますね」
 居ない方がいいと判断したのだろう、ケイは物音を立てないように静かに隣から立ち上がった。熱量の少ない体が脇を通り抜けていくと、一瞬めぐみを寂しさが襲った。

 自分がこんなに弱虫だと考えたことはなかった。もう少し、誰かに頼らずとも生きていけると思っていた。
 だが、今のめぐみは醜いほど、誰かに守られ癒されることばかりを求めている。

「隣の部屋にいますからね」
 まるでめぐみの感情を察したように、ケイは優しく笑いかけた。母に似た微笑。だが、弱いとは感じなかった。
 めぐみはしっかりと頷くと、閉まっていく扉を見届け、もう一度画面に目を走らせた。
 誰もいない部屋。荒らされた戸棚。床に散らばった紙の中に、一枚、紙とは質感が異なっているものが落ちていることに気付き、めぐみはそこをアップしてみた。
 紙の間からかすかに覗いていたのは写真だった。
 若い父と母と、父の手に抱かれているのは生まれたばかりの私だろう。地殻変動の最中、街は混乱を来たし、どこか殺伐とした背景であるというのに、両親は幸せそうに笑っていた。
 ――どうして…。
 おもわず呟きが漏れた。平凡な毎日が続くと思っていた。平凡な昨日の延長は平凡な今日のはずだった。
 なのに、どうして私は今、独りなのだろう……。
「狩野! ちょっと来てくれ!」
 慌てたような野島の声が扉の向こうから聞こえて、めぐみは無理やり自己の中に没入していた感覚を現実世界に引き戻した。画面をそのままにして扉を開けると、TVの画面を見つめて硬直している二人の姿が目に入った。
「どうし…た……」
 TV画面に躍る文字を見つめて、めぐみは絶句した。
 ――母重体。15才の同級生を連れた大学生、逃亡――

 15才の同級生とは私のことか。逃亡している大学生というのは野島のことか。
「こういう手に出るなんて……!」
 苦しげなケイの声に、私は呆然としたまま揺れる画面を見つめていた。画面に映っているのは、紛れもなくめぐみの家。そして犯人として顔写真を出されているのは、紛れもなく野島のものだった。
「どういうことだ? 警察と連合といえば犬猿の仲じゃないか」
 連合――正式名称は国際政府連合特殊捜査部――はある意味で政府レベルと同等の権限さえ持ち得る。自然破壊や国際テロが日常のニュースにも珍しくなくなった現在では、国家間のしがらみを取り除いて対応できる捜査体系が必要だった。しかしながら連合の主となる母体は世界経済のリーダー的存在である数ヶ国であり、その行動もまた、すべての国に対して平等ということはなかった。
「連合が巧く事件を捏造したか、あるいは警察がそのプライドを折ってまで協力しなければならない状況に置かれているか、でしょうね」
 立ち尽くすめぐみにちらりと視線を走らせた後、ケイは野島を下から見上げ言葉を続けた。
「野島さん、あなたには予測がつくんじゃありませんか? 黒服の男達を見ただけでそれが連合の手の者だと瞬時に判断がついた、そんな情報まで知り得ているあなたには…」
 野島の顔が強張った。
 めぐみはただ、そんな野島を見つめた。急に野島の顔が見知らぬ男の顔に見えた。
 とにかく落ち着いて話せるようにと、ケイが煎れてくれた珈琲をゆっくりと口に運びながら、めぐみは項垂れている野島を見上げた。野島が小さく見える。
「では、質問に答えていただく前に、ここにある資料に目を通してください。『野島修司』に関する調査書類です」
 ケイに渡された書類には『野島修司』という一人の人間の過去について短く書かれていた。

 野島修司――Shuji Nojima
2028年、City Kにて誕生。父は警察官。
2037年、地殻変動時、父殉職。母と妹を事故で亡くし、City Tの警察施設に収容。
2041年、高校過程をスキップし大学へ進学。
2043年、大学卒業。
2044年~2051年までのデータは国内に存在せず。
2052年、帰国。再び大学へ進学。

「時間がなかったので、国内データしか検索できませんでしたが、あなたは既に大学を出ているにもかかわらず、再び進学している。何故です?」
 野島は口を開かなかった。
「僕がハックしているとき、あなたは言いましたね『あざやかだな』と。めぐみさん、あなたは僕の作業を見てどう思いましたか?」
 突然話を振られてめぐみは緊張した。小さく喉を鳴らして珈琲を嚥下すると、ようやく口を開く。
「ハックって、そういうものなのかなって……」
 にこりとケイが笑った。何故そんなことを聞かれたのか分からないめぐみに説明するようにケイは言葉を続けた。
「そう、ハックを経験したことがない人、ハックを見たことがない人にとってあの作業はそういうものです。野島さん、あなたは何処でハックを見たんですか? それとも、ご自分で?」
 野島は唇を噛んだ。
「そんなに構えないでください。僕には分かっていることがあります。あなたは一瞬で連合を判断できる知識と経験を持っている人間で、そして、おそらく、僕達の敵ではないということです」
 ケイは微笑さえ浮かべて野島を見つめている。
 めぐみは不意に、混乱する自分を抱き上げ追っ手から逃げた時の野島の顔と、そっと――そう、まるで父のようにやさしく――頭に大きな掌を乗せた、その感触を思い出した。
 ――おそらく僕達の敵ではないということです……。
 めぐみはケイの言葉を何度も心の中で繰り返した。そうすれば、一度生まれた疑惑の想いもすべて、消し去ってしまえるような気がした。

第一章『k-2011』 (5)

「すいません、もう一度、言ってください」
 美都が耳にしたのは信じられない――信じたくない現実だった。美都は、目の前で渋い顔をして頭を抱えている男性の唇を見つめた。深夜だというのに二人ともまったく眠たげな様子が見えない。――もっとも、寝てなどいられない状況ではあったのだ。

「オリジナル感染元を特定するために現地に飛んだ部隊が、全滅した……」
 分厚いカーテンと天井まで届く書架で埋められたこの部屋は、研究所の所長室になる。彼はこの研究所の所長という肩書きを持っていたが、実際には連合から派遣された事務官だ。実質的に研究を切り盛りするのは、彼の下にプロジェクトごとに配置されるプロジェクトリーダーになる。
 プロジェクトはユニットという研究員2人組の最小組織によって構成される。研究の全体像を把握するのはプロジェクトリーダーのみ。ユニットごとの指令はリーダーによって出される。ユニット間で情報の交換をすることは禁じられ、違反すれば軽くて罰金、時には実刑がくだる場合もある。プロジェクト参加の時点で署名させられる誓約書には、その旨の規定も盛り込まれていた。だが、実際には社会的な制裁を受ける以前に、闇に葬られることの方が多かった。
 美都は現在プロジェクトリーダーの権限を与えられ、その指示で感染源だと推測される場所に3ユニットを派遣させていた。
「どういう経緯ですか? 感染したんですか?」
 もちろん、資料を見せた時点でウイルスの危険性を十二分に理解した研究者たちだけを派遣した。辺境の土地のことなので若手を起用した方がいいという意見もあったが、どんな状況にも冷静に判断できるように、敢えて経験豊かな研究者を選んで派遣したのだ。
「感染についてだけ言えば、全員が感染した。最初にあのウイルスを発見した時、感染者は全員隔離し、身の回りのものから全て研究材料としたのは、君の方がよく知っているだろう。ところが、その一連の処理や今回の派遣について、レジスタンスの一部が首を突っ込んできた。彼らはそのウイルスは細菌兵器で、罪もない辺境の住民を実験材料にしたのだと、そう考えたらしい。――まぁ、実際当たらずとも遠からずではあったんだが……」
 美都は話の核心にいつまでの触れようとしないその態度に、苛ついたように唇を噛んだ。
「彼らレジスタンスの中の武闘派とも言われる連中が、ウイルス分離中の簡易研究室に突入した。そして、自らも感染し、襲撃を受けた我々のユニットも、感染を免れなかった」
 美都は声を失った。ウイルスの実体を知っていればこそ、その行動を短慮だと思う。だが、レジスタンス側もまさかそんな致死ウイルスだとは想像もしなかったに違いないのだ。この目で増殖能力を確認した自分さえも、それが事実だと認識する事が難しかったのだから。
「では、早く、次の捜索ユニットを……」
 今はまだ、死を悼む時間はない。体に血清を持っている可能性がある、オリジナルの感染元を捜索し血清を作る方が先決だ。
「その必要はない。もう、感染元を捜索することは不可能だ」
 男は美都の前にニュースのコピーを差し出した。粗い粒子の写真には大規模な山火事が写され、見出しに「アフリカ南部酸素生成プラント」の文字が踊っていた。
「この場所は……」
「レジスタンスが自ら火をつけた。山火事として事件報道がされている。当分、ヘタな動きは出来ない」
 眩暈に似た感覚が美都を襲った。手元にある僅かな『k-2011』の資料とウイルスを使って、血清を合成するしかないのだ。
「彼らは最期の瞬間まで科学者だった。発病後のレポートが届いている。彼らの遺書とも考えられる内容だ。読んでやってくれ」
 レポートの日付は一昨日。文字通り、彼らの最後のレポートだ。


 不幸にも我々全員は感染を確認した。一番症状の重い者は既に幻視など、精神障害の兆候が見られ始めている。我々はレジスタンスとの事故当時の記憶を可能な限り再現し、何か、感染に関して新たに発見、ないし推論できる事がないか、全員で話しあった。

 まず、最大の問題といってもいい感染経路についてだが、このウイルスはおそらく飛沫感染によって感染する。
 我々は全員、実験用のプロテクトスーツを着用していたが、事故によりスーツを切り裂かれ、ウイルスに感染した。このとき、プロテクトスーツ着用に加えて防護マスクを使用していた者もいたが、感染から発症にいたるスピードは他者と比べても違いはない。
 特に現在最も病状が進んでいる者は、事故当時プロテクトスーツの顔面に殴打を受け、眼部付近に負傷している。推論でしかないが、通常見られる口腔内を介した飛沫感染より、眼球粘膜、ならびに顔面負傷からの感染の方が病状の進み方が早いのではないだろうか。

 次にウイルス増殖における体内の変化としては、最初に侵され障害が現れるのは腎臓であった。全員が、早いもので感染後1時間、遅くとも2時間までに血尿と下腹部の違和感・疼痛を訴えている。その後、腹部不快症状――おそらく腸管が融解していくために起こると思われる腹痛や嘔吐に加え、発熱と粘膜充血が生じる。同時期に筋肉把握痛が起きている。
 感染から6時間経過した現在、神経障害の兆候が見られ、体を動かし思考することもおぼつかない。このレポートを書くために一文字打つのにも時間がかかる。
 ありとあらゆる血液が通っている臓器が、炎症を起こし、痛み、融解しているのだと、否応なしに自覚させられるような激痛が我々を襲っている。

 もう、我々には時間がない。
 この致死ウイルスを黙らせる血清の生成のために、自分たちが何も貢献できなかった事が、大変残念だ。
 健闘を祈る。

 美都は、最後の一文を読んで、思わず目を閉じた。
 ――健闘を祈る。
 その先の自筆の署名の部分は震えてほとんど読み取ることが出来ない。
「君にもう一つ渡したい資料がある。『k-2011』の母体となったウイルスに関する資料だ」
 男は電話のコールボタンを押すと、短く「連れて来い」と伝えた。すぐに扉が開き、車椅子に乗せられた女性が部屋に通された。薬を使われて眠らされているのだろう、口元に酸素マスクを当てられ、力なく投げ出された腕は柔らかな素材を使った医療用の拘束器具でしっかりと車椅子に固定されていた。
「これが、『k-2011』の資料、ですか?」
「彼女は『k-2011』のウイルス研究に従事し最終的には自らの研究内容と共に命を絶った研究員、狩野博士の元助手で、彼の妻だ。そして『k-2011』の母体となったウイルスのただ一人の感染者だ」
 美都は曖昧な表情を浮かべたまま眠っている女性を見つめた。
「もうじき薬もさめる。協力的ではないと思うが、どうか、彼女を説得して研究に協力してもらえるようにして欲しい」
「分りました」
 美都は小さくため息をついた。目の前の痩せた女性を見つめると、複雑な感情が湧く。彼女のほつれた前髪に、科学者としての、科学者の妻としての悲しみが降り積もっているような、そんな気がしていた。


「なんてことだ……」
 現地に派遣されたユニットの最後の手紙となったレポートに、目を通していた琢己が最初に言った言葉は、美都が予想していた通りの言葉だった。
「悲劇だな……。クソ! もう少し早くこのウイルスの事を知っていれば……!」
 そう、もう少し、琢己が事実を知るのが早ければ、もしかしたらこのレポートのような最悪の事態は防げたかもしれない。緊急の連絡手段を用いて、現地のレジスタンスの代表者に事態を報告することが出来たかもしれなかった。
「現在の状況は?」
 一番気がかりなのはレジスタンスの動向だった。ユニット壊滅は確かに残念なことだが、彼らはウイルス研究を生涯の目標に据えたプロだ。確実に感染が広がらない処置をしたに違いない。だからこその山火事だろう。しかし、レジスタンスは違う。彼らにどれくらい感染が拡がっているのか、彼らが自分自身の運命に気がつき、理性的な行動を取れるかに、ある意味世界の運命がかかっているといってもいいかもしれない。なにしろ、まだ、血清がないのだ。
「現地ユニットはレポート報告後、自ら研究所に火をつけたわ。高温で確実に体が炭化するように、燃焼剤を研究所内にばら撒いた上でね……。レジスタンスについては、全く報告がないの。一番恐ろしいのは、そこなのよ」
 調査しようにもコンタクトをとる手段さえも分からないの、とため息まじりに続けて、美都は琢己を見つめた。
「私が、今回のプロジェクトにあなたの協力を求めたのは、それも理由なの。可能であれば、あなたにウイルスの警告を伝えて欲しかった……。今からでも、なんとかコンタクトをとる手段はないかしら」
 琢己は小さく頭を振った。確かに琢己はそういう組織とつながりがないわけではない。だが、海外まで伸びるネットワークは細い。
 ――ネットワーク……。
 琢己は不意に思いついた一つの考えに、僅かに戸惑いを見せた。
 ――もちろんレジスタンス側も通信ネットワークを使用しているはずだ。当然、その通信の中には現在の状況を報告する内容も含まれるだろう。内容をハックすれば、情報を得るのも可能かもしれない。もちろん、恐ろしいほど緻密なハッキングの腕が必要だろうが。
 琢己には一人だけその腕を持った人物を知っている。彼はコンピューターそのものだ。もちろん、体は有機体なので通常の端末機のようにデータのロードを一瞬ではできないが、その情報処理のスピードは日常使用されている端末機のスピードをはるかに凌駕している。
 ――だが。
 彼をこの状況に巻き込んでいいものかどうか、琢己にはまだ迷いがあった。
「あなたでも、無理? 私達は悪魔が牙を剥くのを、黙って待っている事しか出来ないの?」
 美都の唇が震えた。彼女は事実、この見えざる悪魔に恐怖していた。仮に感染者が感染の事実に気が付かずに、或いはただの熱帯性の熱病だと誤解して、海外へ旅立ったらどうなるだろうか。山火事は各国のメディアを集めているだろう。もしも、その誰かが感染者と接触したら?
「現地ではどういう措置を取っているんだ?」
 琢己は苦しげに唸った。
「連合側に強く現地の閉鎖の要求をしているわ。たぶん今日中には、南アフリカの半分が準閉鎖区域に、山火事周辺が完全閉鎖区域になると思うわ」
 琢己は小さくため息をつくと、思い切ったように顔を上げ、美都を見つめた。
「俺が、ここを飛び出す前にやっていた研究を知っているか?」
 美都は突然話題を変えた琢己を訝しげに見つめ、曖昧に頷いた。
「ええ。AOMCでしょう? 体を有機体で構成して、脳のかわりにAOMCで制御させるという実験。あなたがプロジェクトを自分の手で崩壊させた後、内部ではかなりその実験についての捜査が行われたのよ。結局、何も出てこなかったけど」
 美都は不意に琢己から目を逸らした。
「私、あなたが、いくら有機体でも少女の形をしたモノを殺せるなんて思わなかった……。だから、驚いたわ」
 琢己はその美都の横顔に視線を注ぐと、小さく息を吸い込み、思い切ったように言葉を発した。
「殺せなかったんだ」
「え?」
 振り向いた美都の目に映ったのは、迷いと苦しみに眉根を寄せた琢己の顔だった。
「殺せなかった。受精卵の段階から分裂をつぶさに観察してきた。神経伝達物質の合成に成功して、受精卵にそれを投与し、初めて有機連合体として羊水の中で動いた時、神に感謝した。目の前で、5歳の少女の姿をしたあいつが全てを悟ったような顔をしてじっと殺されるのを待っているのを見た時、俺は、自分が犯した過ちの大きさと、これからやろうとしている過ちの大きさに震えた」
 琢己は顔を覆った。
「俺は、奴を地下に隠した。定期的に連絡をとりながら、奴は地下で暮らしている。もう、体年齢は13歳になった」
 美都は信じられないとでも言うように小さく首を振った。
「そんなの、上に知られたら……!」
 重罪――おそらく、琢己もその研究対象も闇に葬られるだろう。それが、EVILのやり方だった。
「奴なら、情報をハックできる。安全に、ハックの事実すら相手に知られる事なく、現地のレジスタンス内部の状況を知ることが出来る」
 美都は声もなく琢己を見つめていた。どうして今、琢己が自らの罪の告白をしたのか、ようやくその理由が分かったのだ。
「出来るの? 本当に、出来るのね?」
 美都は慎重に言葉を選んでいた。
「私は何も聞かなかった事にするわ。プロジェクトリーダーには、強制的に全ての協力者と事実関係の報告義務が生じるけれど、聞かなかった事は報告できない。上が納得しないなら、協力者の替え玉を作ってもいい。コンピューターに特異な才能をもった匿名の協力を得た事にすればいいわ。14才までなら名前の報告義務までは生じないから」
 卑怯なやり方だと、美都は自分でそう思っていた。琢己が告白したのは、そんな事務的な配慮をして欲しかったからではない事くらい、自分でもよく分かっていた。
「よかった……」
 沈黙のあと、ポツリと美都は呟いた。
「あなたが、殺すような人じゃなくて、良かった」
 語尾が震えた。不意に琢己に抱きしめられて、美都は初めて自分が泣いている事を知った。
「良かった……」
 繰り返し呟きながら、美都は奇妙なほど安堵していた。それは初めて琢己に思いを告げられた時の感覚と、不思議と似通っていた。
「連絡してみる。悪いけど、1分だけ監視装置を止めてくれるか?」
 静香は頷いて端末機に向かった。リーダー用のパスワードを打ち込み、監視装置のプログラムスキャンを行う。プログラムスキャン中は監視装置自体の機能は停止する。所要時間は約1分だ。
「いいわ、通信をはじめて」
 琢己はすぐに別の端末機に向かい、いつもの連絡コールを入れる。呼び出し音が3回。不意に画面に彼の顔が浮き出た。
「こんにちは。どうされました?」
 いつもと変わらない言葉で出迎えた彼は、少し蒼ざめて見えた。

December 9, 2004

第一章『k-2011』 (4)

 勧められた椅子に体を預けながら、めぐみは混乱していた。
 目の前にあるのはめぐみより幼いが、どう考えてもめぐみそのものだとしか言えないほどめぐみに似ている。鏡を見ているような気さえする。
「お前は……」
 呻くような野島の声は掠れていた。

「お前は、『何』だ?」
 彼は微笑みながら答えた。AOMC-DNAtype-M project-ID2048-2。それが名前だと。
「Artificial Organic Matter Computer? 人工有機電算機だと? お前がか……!?」
 21世紀に入ってまもなく概念が完成したDNAコンピューターは、それまで0と1の信号で処理されていたものを塩基配列に置き換えることによって優れた電算処理のスピードを獲得した。塩基配列を保持するための電解質の維持が一番の問題点であったが、単細胞生物の増殖体に組み込むことによって快適な安定性が得られるようになるのにさほど時間はかからず、それ以来、爆発的に進化を遂げた。
 しかし、多細胞生物に組み込んだ際に生じたいくつかの犯罪がきっかけとなり、現在その製造に関しては厳しい制約が設けられている。少なくとも、彼のように明確な形を持ったものは製造されていないはずなのだ。
「嘘だろう? AOMCが人型をしているはずが……」
 自らをAOMCだと名乗った彼は笑った。
「僕が誕生したのは2048年。その3年前、2045年と聞いて、何か思い出しませんか?」
 2045年という年は科学にとって重要な年だ。
 酸素生成プラントが全機稼動をはじめ、そのプラントのために各国が友好条約の提携を推し進めた。その調印の模様は全世界にリアルタイムで放映され、劇的なその瞬間は未だにメディアで繰り返される。そして、それと時期を同じくしたクローニング法案の改正――。
 各臓器単位であるならばクローニングが一般的に許可されたばかりでなく、受精卵に対する遺伝子治療にもクローン技術が応用されるようになった。
「まさか……」
 もしも、彼の言わんとしているものがクローン技術のことであるとしたならば、その時期に裏で流れていたクローン臓器を利用した背徳的とも言えるAOMC製造の噂は真実だったということなのか。
「そう。僕の体は一つ一つのパーツごとにクローニングされ、脳の代わりにAOMCが埋め込まれているのです」
 俄かには信じられない話だった。だが、そんなことよりもずっと気になる疑問が、めぐみの中にはあった。
「クローニングに使われた細胞は……私……?」
 めぐみは語尾が震えるのを隠せなかった。答えは既に分かっていた。お互いの顔がそれを証明している。だが、聞かずにはいられなかったのだ。
 彼は頷いた。目の前が一瞬、闇に閉ざされたような気がして、めぐみは目を閉じた。
「僕は僕に関する公式資料しか所有していないので、正確にあなたの細胞が使用されたと断言することは出来ませんが、外見の相似はおそらくその事実を裏付けるものでしょう。少なくとも、あなたの所有しているDNAと僕が所有しているDNAがかなりのパーセンテージで同一ものであるだろうと推測することが出来ます」
 彼はそう前置きをすると、ゆっくりと話し始めた。

 2035年。AOMCを多細胞生物に組み込んだ最初の実験体は、擬似愛玩物として開発された。
 巨大な塩基配列による飛躍的な電算処理のスピードの向上によって、非常にこまやかな感情プログラムをストレスなく走らせることが可能となり、緻密に計算された感情の動きは実際の愛玩動物以上に魅力的であった。まして、本来『擬似生物機械』である彼らは、不必要な場合にはその機能を停止させることができる。そして自分の好きなときに、電解質維持のためのプログラムを生物タイプに切り替えることによって、実際の動物のように餌や睡眠を必要とする可愛い姿を眺めることができるのだ。彼らは非常に手軽なペットとして、その世話のしやすさからすぐに多くの分野で注目を集めた。
 もちろん、市場に公開されるに当たって、犯罪等の有害プログラムの実行を阻止するプロテクターも開発されてはいた。しかし、すぐにプロテクター破壊プログラムは闇で開発され、現在も開発と摘発のいたちゴッコが続いている。

 いくつかの多細胞生物AOMCを使った事件がきっかけとなり、2044年には多細胞生物に対するAOMCの埋め込みは全面禁止された。
 そのとき行われたAOMCの廃棄運動は凄惨極まりないものだ。現在でも、時々思い出したように当時の映像がTVで流れることがある。『生物機械』という区分に入ってしまうとはいえ、多くのAOMCは明らかに猫や犬などの愛玩動物の形態をしている。それを、ただの機械として、まるでゴミのように捨てたのだ。大量のAOMCが集められた場所に、重い重機が入り込み、火がつけられ、その行為に反対する人々の叫びがこだまし、重苦しい顔の政府関係者と科学者の顔が交互に映し出されて……。
 専門分野の研究者たちの心情は推し量れなかったが、そのあまりにもインパクトのある廃棄運動の為に、大衆のAOMCに対する考え方は大きく変化した。――タブー視されたのだ。
 翌年、2045年のクローニング法の改正。これには国際政府と科学者たちとの間で、AOMCの制約を認める代わりにクローニング法案の改正を行うという闇取引がされたのだという黒い噂も流れていた。
 そして、2046年から、クローニング法を逆手に取ったように新たなAOMC projectが推し進められたという。
 各臓器をクローニングし、特殊な神経増殖因子を培養中に投与することによって、科学者たちはAOMCと生体との間に化学物質による信号伝達を可能にした。
 入れ物をクローニングで作成し、それを単細胞生物AOMCが支配する、新たな『生物機械』を誕生させたのだ。

「プロジェクトは3種類ありました。それぞれDNAtypeが異なっていて、type-Aは男性体、type-Xは完全人工DNA、そして、僕が作られたプロジェクトはtype-M、女性体……」
 科学を選んだものの性だろうか、話が科学的になるにつれ、それが自分の関係する場所で起こっていることだとは感じなくなっていく。その計画の恐ろしさや非道徳性よりも、科学技術の内容やその理解の方に神経が集中してしまっていた。
 だが、彼の口から『DNAtype-M』という単語が出来てた途端にめぐみは夢から覚めたような気持ちがした。
「女性体……。それはDNAのタイプが女性体だったということか?」
 かすれた声で野島が口をはさんだ。衝撃を隠し切れない様子で、野島は幾度も唇を舐めた。
「そうです。男性体は性染色体を使用しました。完全人工DNAは独自でDNA配列を精製したものです。ですが、そのどちらも実験は成功しませんでした。結局、作られたのは僕だけ。しかも、翌年2049年にはプロジェクトそのものが崩壊しています」
 彼は表情を変えずに言った。めぐみにはそれが冷酷に思えた。人間が積み重ねる記憶と彼が蓄積していくデータは性質が違うものなのだろうか。それとも、それに付随する感情の波そのものが、違う経路で発せられるのだろうか。
 めぐみには目の前の自分に酷似した顔がまったく違うものに思えた。――そう、思いたかった。
「表向きは僕は消去されたことになっています。プロジェクトの崩壊直前、僕はあるデータを渡されて逃がされました。そのデータとは僕に与えられたDNAの持ち主が現在も生存している少女のものであるという事実でした」
 彼はまっすぐにめぐみを見た。その視線の中になにか神聖なものを感じて、めぐみに不意に奇妙な疑問が浮かんだ。
 幼く見えるとはいえ、彼は少なくとも12歳以上には見える。身長もさほど変わらないし、体つきも細いとはいえ、それは少年のものだ。彼が生まれたのが本当に2048年ならば、現在まだ5つかそこらの子供のはずだ。しかも、女性体から作られた彼が、なぜ、女性体ではないのか。
 めぐみは素直に質問を口に出した。隣でギョッとしたように野島がめぐみを見つめた。
「まず、2番目の質問から答えましょうか。僕はあくまでAOMCとして開発されました。生殖能力は不要です。ですから、全ての器官の中で、卵巣と子宮はクローニングされませんでした。もちろんプロジェクトが続いていたならば、最終的に性ホルモンの投与なども考えられたでしょうが、崩壊したのは僕が体年齢5歳のときですから……」
 小さく彼は肩をすくめて見せた。
「そして、最初の質問に対する答えです。AOMCとこの体を繋いでいるのは特殊な神経伝達物質です。それを体内で作り出すために投与された神経増殖因子は神経細胞だけでなく、体内の全細胞に影響を及ぼしました。その結果、僕の細胞は通常より老化が早いのです。僕は一年で3つ年をとります。今、僕の体年齢は14歳なのであなたよりも幼いですが、一年もすればもう、あなたを追い越していくのです……」
 悲しそうに見えた。
 一瞬だが、光に照らされた彼の青白い顔が、とても悲しげに見えた。
 めぐみは声を失った。体の中をせりあがってくる巨大な感情の波に、悲しみや苦しみといった特別な名前をつけることは出来なかった。だた、制御できない激しい興奮がめぐみを支配していた。
「――泣かないでください。どうか……」
 震えるように彼が言った。めぐみは頭を振った。不意に零れ落ちた涙の理由は分からなかった。
「――泣かないで……」
 ゆっくりと、彼の頬に涙が伝ったのが見えた。ゆっくりと彼は近づいて、めぐみの手を握った。
 冷たい手……。だが、柔らかく優しい。
 双子は感応能力を持つ場合があるという。では、同じDNAで作られた彼とめぐみの間にもその力はあるのだろうか。けして人ではない彼と人間であるめぐみの間にも、感情のつながりがあるのだろうか。
 彼は泣いていた。まるで、めぐみの感情が彼にまで影響を及ぼしているかのように。
「あなたに、会いたかった。ただ、僕はあなたに一度でいいから会いたかったのです……」
 薄いガラスに触れるように微かに彼の指がめぐみに触れた。弱い、悲しげな微笑が母に似ていた。

 めぐみは確信していた。経緯がどうであれ、自分と彼とは確実に同じDNAから生まれたのだ。彼の体には自分と同じ血が流れ、彼の細胞は自分と同じ形をしているのだ。
 めぐみはそっと、彼に体に触れた。びくりと、彼が震えたのが分かった。
「――泣かないで……」
 呪文のように彼は繰り返した。
 野島はそんな二人の様子を、ただじっと見つめていた。

ようやく涙が乾く頃になると、不意にめぐみの全身に疲れが襲ってきた。思考は分断され、満足にものを考えることが出来ない。
 彼は無口になっためぐみを尋ねるように見つめ、食事を摂るように勧めた。
「保存用のパック食料になってしまいますが、食べないよりはずっといいと思います。食べますか? それとも、少し横になりますか?」
 めぐみは弱々しく首を振ってみせた。食事も睡眠もとれそうになかった。ただ、麻痺したような感覚が全身を支配している。
「横になれ。目をつぶっていればいつかは眠る」
 野島はソファから立ち上がると無理やりめぐみを横にならせた。そしてポケットから小さな小瓶を出して中の液体を口に含ませる。
 微かに苦味のある液体は、喉を焼きながら胃へと降りていった。
「未成年だから本当は飲ませたくないんだが、安定剤なんか持ち歩いてはいないし、こういう状況だとしょうがないからな……」
 気遣わしげに顔を覗き込みながら囁く野島を見て、ようやくめぐみは喉を伝っていったものが酒だったことに気が付いた。
 めぐみは小さく笑った。だが、きちんと笑えていたか、自信はなかった。
「寝ろ……。もう、眠れるから」
 大きな掌がゆっくりと頭を撫でた。
 また、涙がこぼれそうで、めぐみは慌てて目をつぶった。

 かあさん……。

 めぐみは心の中で呟いていた。
 優しい微笑ばかりが記憶の中から再生された。

 かあさん、私、どうすればいいだろう……。

 答えはなかった。瞼の奥からゆっくりと闇が訪れ、やがて、痺れた感覚全てを包んでいった。


 雪が降っていた。
 音もなく、ただ、灰色の壁を背景に、雪は降っていた。
 めぐみはそっと掌を差し出した。一片が掌の上に落ち、音もなく溶けた。
 一瞬遅れて、冷たいと感じた。
 めぐみは空を見上げた。
 灰色の空には太陽は見えなかった。

(おい、まだか)
(ええ)
(遅いな)
(来るでしょう、絶対に。目の中に入れても痛くないほど可愛がっている娘です)
(そうだな)

 めぐみは落ちてくる雪を夢中で見つめた。
 足元に落ちた雪を手で掬うと、冷たい床に指が当たった。
 床は固かった。

(来ました)
(来たか)
(つれて来い)

 めぐみは声の方を見た。
 黒い服が私を見つめていた。
 めぐみは恐ろしかった。

(娘は……)
(無事だ。もちろん)
(何故?)
(あなたには働いてもらわなければならない)

 パパ
 めぐみは叫んだ。

(娘を返せ、返してくれ……)
(もちろん、この契約書にサインを)

 雪が降っていた。
 床は冷たかった。
 金属の匂いがした。
 パパ
 めぐみは叫んだ。

(――『ユキ』って言うんだよ)

 優しい声だった。
 父の声だった。
 父に抱き上げられた。
 剃り残したひげが痛かった。

(めぐみ、これが『ユキ』っていうものなんだよ)

(よし、契約は完了した)
(丁重に送って差し上げろ)

 父は泣いていた。

 雪が降っていた。

(もう、これ以上娘に手を出さないでくれ)
(もちろんだ。契約は完了した)
(出発は一週間後だ。着の身着のままでいい)
(準備はみな、こちらで)

 めぐみは空を見上げた。
 暗い空は金属の匂いがした。


 母がアルバムをめくっていた。
 めぐみは膝の上で母の横顔を見上げた。
 母は若かった。

 ママ、パパはどうしたの?

(パパはお仕事で遠くに行ったの)

 母が微笑んでいた。
 悲しげだった。
 母はゆっくりと私の髪を撫でた。

 クリスマスには帰ってくる?

(そうね、お仕事が終わったらね)

 母は悲しそうな顔をしたままめぐみを抱きしめた。

(お仕事が終わったら帰ってくるわ、きっと)

 めぐみは悲しかった。
 自分の一言が母を悲しませたのだと悟った。
 めぐみは笑った。
 笑って見せた。

 パパが帰ってくるまでに、めぐみ、クッキーを焼けるようになるわ

 母は微笑んだ。
 弱々しい微笑を浮かべたまま、母は小さく頷いた。
 めぐみはそっとアルバムに手を乗せた。
 アルバムの中で父は笑っていた。

 父は帰ってこなかった。
 次のクリスマスも、その次も。
 めぐみは次第に父の話をしなくなった。
 母も、父の話をしなくなった。

 そして――

 ――多分、独りになったのだ。


 めぐみはゆっくりと目を開けた。
 無機質な天井が目に入り、小さく揺れる光に気が付いた。体には毛布がかけられていて、揺れる光は隣の部屋から漏れてきてるようだった。
 小さな話し声がした。めぐみは足音を忍ばせて扉に向かった。

「俺は明日にでもあいつの家を見て来ようと思う。おふくろさんが心配だし」
 扉の隙間から野島の広い背中が見えた。
「まだ、危険だと思います。もしも、あなた方を襲ったのが、あなたの予想通り連合の手のものだとしたら、たぶん、あの場所にそのまま置いておくことはしないでしょう」
 彼は小さく首をかしげると、髪をかきあげた。
「とりあえず、めぐみさんの精神状態の安静をはかって、あとはデータです」
 彼は腕を組み、野島の顔を覗き込んだ。

 めぐみは足音を忍ばせてそっとソファに戻った。
 冷静に話す二人の会話をそのまま聞いていることが出来なかった。
 毛布に潜り込むと、不意に母の顔が浮かんだ。そして、さっき見た夢を思い出した。

(もう、これ以上娘に手を出さないでくれ)

 父の声だった。
 あれは夢だったのだろうか。それとも、不意に再生された記憶だったのだろうか。

 灰色の壁。無機質な金属の匂い。冷たい床。黒い服の男。白い雪。曖昧な視界。――そして、声。
 ――『ユキ』って言うんだよ。

 だが、めぐみは確信した。
 ――私は雪を見た。私を救うために父は家を去った。
 ――私は雪を見た。私を守るために母は男達に立ち向かった。

 私のせいだ……!

 めぐみは小さく体を丸めた。世界からこの体を消してしまいたかった。

第一章『k-2011』(3)

 琢己はふと肌寒さを感じて資料から目を上げた。読み進めているうちに、日が翳ってきたことにも気が付かないほど集中してしまっていたらしい。薄暗くなり始めた室内は静かで、視線の先にあるどす黒い試験管チューブは不気味に沈黙している。視線を巡らせると、隅の机の上で美都が突っ伏していた。かすかに肩が上下しているのが見える。きっと眠っているのだろう。

 琢己は上着を脱ぐと、そっと美都の側に歩み寄り、起こさないように注意して掛けてやった。
 ――おそらく、連日徹夜だったんだろうな。
 美都は恋人にして仲良く睦みあうようなタイプの女ではない。結婚には不向きな女だし、プライドも高い。だが、だからこそ美都は美しい。
「琢己……?」
 ぼんやりと美都の顔を眺めていると、まだ焦点の定まっていない美都の視線と出合った。
「ごめん、起こしたか……」
 ようやく肩にかけられた上着に気がつき、美都は小さく笑った。
「ありがと……。資料、読めた?」
 机の上に行儀悪く座ると、琢己は頷いた。
「あのウイルス――『snow』の母体である『k-2011』の最初の母体は、何だと思う? 大きさや核酸のタイプから考えてピコルナウイルス科だと思うけど、その中のどれかなんて、同定できるか?」
 美都は首を振った。
「無理よ……。ピコルナウイルス科は一番種類が多いわ。一番小さくて、一番単純な形をしたウイルス。――ヒトに属するものだけでも同定されている種類が200を越えるわ……。ヒト以外の属性でヒトにも感染し得るものを含めたら、同定には天文学的時間が必要ね」
 指先で資料を弄びながら、美都は言葉を続けた。
「『snow』は単に『k-2011』が変異しただけではないみたいなの。おそらく近種のピコルナウイルス間で数回から数十回の組換えが行われていると推測されるわ。そう考えないと、RNAの塩基鎖があまりに『k-2011』とは違いすぎる。こうなると、『k-2011』の十分な資料が残っていないのが、致命的ね。『snow』と『k-2011』の共通点は、0度以下では完全に活動を停止すること、そして日光に反応すること、この2点だけ。『k-2011』は確かに細菌兵器を目的とした試験的開発だったけれど、毒性そのものはまだそんなに強くなかったのよ」
「『k-2011』はどういう使用法だったんだ? 当然、知っているんだろう?」
 琢己の問いかけに美都は口を閉ざした。意志の強い切れ長の瞳が、一瞬危ういほど揺らいだのが見えた。
「教えろよ。プロジェクトに組み込まれて研究をするためには必要な情報だろう?」
 沈黙が流れ、琢己が諦めかけた頃、ようやく美都は重い口を開いた。
「『k-2011』は髄膜炎を起こしやすいウイルスよ。活動温度の幅が広くて、水などから飛沫感染・粘膜感染によって体内に入る。日光を浴びることによって体内で発生する活性ビタミンDの補助作用で増殖能が格段に高まるわ。使用法は――『k-2011』を混入した水を使って、人工的に雪を降らせるの。ウイルスは0度以下では完全に活動を停止するからマスクと眼鏡で完全防備していれば事実を知っている人間には感染率が低い。もともと、雪の降る地域を想定敵国として開発されてきたウイルスなのよ」
 美都は不安げな眼差しで琢己を見上げた。

 琢己と美都との付き合いは長い。大学の特別研究室で出会った時、美都は16で琢己は17だった。ともにかなり飛び級をして大学に入り、学業の傍ら研究室の手伝いをしていたが、今ほどには飛び級制度が浸透していなかったこともあり、周囲からは特別視され、大学内での居心地は悪かったといってもいい。
 両親が研究者であり幼い時から英才教育を受けてきた美都と違って、琢己はごく普通の家庭の中で育ち、自分の力で研究者の地位を獲得した。最先端の研究を行うこの国営の研究所にも、美都が推薦のような形で配属されたのと違い、琢己は半ば強引に引き抜きのようにして配属された。――だが、バックグラウンドが全く異なっていたとはいえ、常に特別視される境遇が同じだった二人は、次第に同じ時間を過ごすようにもなった。そんな時だ、琢己が叔父を連合――国際政府連合特殊捜査部に社会犯罪者として射殺されたのは。
 もともと琢己には強い反連合意識があった。その事件をきっかけとして、研究所の最大の出資者が連合であることを知った琢己は、当時行っていた機密レベルの研究を放棄し、資料を処分した。そのまま研究所を辞し、さらには追及の手を逃れるために地下に潜った。
 地下――そう、こんなに恵まれた時代であってもレジスタンスは存在する。地殻変動によって国家間の垣根を越えた連合政府が必要となった世界は、一見矛盾なく営まれているように見える。だが、一歩裏側を見れば、連合政府と、本来の国家ごとの政府と、そしてレジスタンスが三つ巴で頭を付き合わせている。微妙な三者のバランスの中で、ようやく釣合いが取れているのが今の社会であって、上澄みのような平和の下には、さまざまな思惑が飛び交う。

「『k-2011』が試験開発で終わったのは、研究の中心的人物であった博士が自殺したからなの。彼は開発された『k-2011』を全て焼却してしまった。資料がこんなに少ないのもそのせいなのよ」
 科学者で自分の研究内容を全て抹殺できるものはほぼいない。科学のためという名目の元で、どんな劇薬も、どんなに危険なウイルスでも一部は必ず保管されるものだ。科学者は、自分が追い求めている真実が研究の先にあると信じている。少なくとも琢己は信じていたし、事実、自分の研究内容を全て抹殺できなどできなかった。地下に潜る際に、琢己は当時の自分の研究材料を全て抹消したと周囲に思わせていたが、実際は、研究対象を街に解放し、その後も定期的に連絡を取り合い、研究対象であった彼の観察は続いている。
「ウイルスを全部? 本当に? 血清は?」
 すべてを無に返すには恐ろしい意志の力が必要だ。そしてその結果が確実に正しいとは断言出来ない。ウイルス研究の場合、仮に同種のウイルスが発生しとしたら、かつてのその研究の資料が血清精製の助けになる場合もあるからだ。
「ウイルスも、血清も、そのウイルスの母体となった物の資料も、彼は全部自分と一緒に燃やしたの。残された資料は報告のために月に1通送られていたレポートの中身だけよ」
 ゆっくりと美都は立ち上がった。肩から上着を外すと、そのまま琢己の前に立つ。薄暗くなった部屋の中で美都の瞳だけが僅かな光を受けてキラキラと輝いていた。
「これは、私の想像なんだけれど、彼は『k-2011』に感染していたのかもしれない。この『snow』の母体になった『k-2011』は、彼の死体から分離され、何か他の動物の中で生き続けて、組換えを繰り返したんじゃないかしら。そう考えると組換えが頻繁に行われていたのも頷ける気がする。彼が命を絶ったのが、問題の南アフリカの酸素生成プラントの傍の研究所なの。今回のウイルスが発見されたのもその地点よ。最初の犠牲者はプラントの監視員だもの。――アフリカにはおそらく、まだ私たちが知らないウイルスがたくさん居るはずだし、有害物質除去が徹底されていないから、組換えも起こりやすい条件にあると思うの」
 自らの考えに恐怖を抱いたように、美都は肩を震わせた。琢己は美都が手に持っていた上着をもう一度肩にかけてやった。
「科学者が根拠のない推論を推し進めるべきじゃないな。たとえ、その推論がどんなに事実に近い要素を持っていたところで、その推論が事実であるかどうかは、解決法とは全く関係がない」
 美都はゆっくりと琢己に寄りかかった。以前知っている体の厚みより更に細くなってしまった体を琢己はそっと抱きしめた。
「私、怖いのよ。笑っていいわ。鋼鉄の女が……」
「違う……」
 琢己は短く否定すると、震えている首筋に唇を押し当てた。
「お前は誰かに寄りかかること、誰かに守られること、そして誰かを愛することを学ばなかっただけだ」

 彼女はどうしようもなく強いがゆえにどうしようもなく脆かった。心の弱い人間なら悲鳴を上げてすぐにリタイアしてしまうような状況にも、彼女の精神は立ち向かった。琢己が破格の扱いを受けながらも体制を批判する異端児でいたのは、信念などという格好いい考えからだけではなかった。異端児でいれば風当たりは強くはなかった。『まぁ、あいつは変わり者だから』という言葉が、琢己に向かってくる無言の負の刃をそらす結果になっていた。
 だが、美都は違った。両親共に有名な研究者だというサラブレッドの血と才能を周囲に見せつけ、美しい顔に艶やかに化粧をし、自分に与えられる様々な利権を惜しげもなく周囲に見せつけた。そうすることによって彼女は彼女なりの鎧で全身を覆い尽くしていたのだ。
 ――だから、たぶん、惹かれたんだろうな……。
 琢己との愛の語らいの場面でまで、美都はその鎧を外さなかった。だが、深く眠りに落ちた後の彼女が無意識にすがるように琢己の腕を掴んでいたことを、琢己だけが知っている。
「捜しているんだろう? 今もアフリカではそのオリジナルをさ。だったら、俺たちは俺たちでできることを考えればいい。まずは感染経路の確定だ」
 美都は琢己の腕の中にいた。泣きそうに歪んだ顔が、一瞬危ういほど揺らいで、小さな微笑が唇の端にのぼった。


 色々と後始末をしてくる、と琢己は美都に伝えておいた。
 研究に入るともなれば、山ごもりに近い生活になる。もちろん、最新の研究施設だから宿泊用の部屋もあれば簡易キッチンもシャワールームもある。だが、日常的に外出すること自体に様々な危険が伴うようになるだろう今回のウイルス研究では、ちょっと郵便物を受け取りに行くという行為さえもがままならなくなる。それ相応の対応はしておかなければならない。当然ともいえる琢己の言葉に、美都は納得していたようだった。
 だが、琢己が本当にしたいことはそんなことではなかった。琢己には、かつての研究対象であり、現在では自分が後見人のような形で世話をしている人物がおり、どうしてもその人物に連絡をつけておきたかったのだ。
 アパートに滑り込むと、琢己は机の上の半分以上を占領している大きな端末機のスイッチを入れた。自動的にメールを回収し、不在中の通信や来訪者の一覧が表示される。それらにこれといった異常がないことを確認すると、琢己は手早く通信用ダイアルを回した。
 数回の呼び出し音の後、不意に画面は明るくなり、少女のようにも見える幼い顔が映し出された。
「こんにちは、どうされました?」
 静かな微笑を含んだような笑顔。線の細い印象は昔から変わらない。
「よう、坊主、元気か? また背が伸びたんじゃないか?」
 坊主と呼ばれて、不意に相手は破顔した。屈託ない笑顔はまだ少年と言ってもいい。だが、次に少年の口から出てきた言葉は、その笑顔とはあまりに結びつかないものだった。
「それは、もう、成長期ですからね。今が多分、伸びのピークじゃないでしょうか。それに伴って幾分体内の電解質バランスに不安があります。次の検査は少し早めにお願いできませんか?」
「そのことなんだが……」
 琢己は語尾をつまらせると、少年の笑顔を伺うように眺めた。
「実は、どうしようもない事態が発生してEVILのプロジェクトに参加する事になった」
 『EVIL』という単語を聞くなり、少年の顔は強張る。
「いや、お前に関係する内容じゃない。実は、南アフリカ酸素生成プラント付近で、かつて研究所が開発していた兵器用のウイルスに関連した致死的ウイルスの発生が確認された。まだ資料の一部を読んだだけだが、驚異的なウイルスだと言っていい」
 ほっとしたのか、少年の顔に笑顔が戻る。そして、興味をかきたてられたように、その瞳が小さく光った。
「南アフリカの酸素生成プラント付近というと、近年、有害物質の濃度の上昇と気温上昇について問題視されている地域ですね。昨年でしたか、確か、黒羽蝶の異常発生が伝えられたりもしましたが……」
「そうだ、その地域だ。実は、今回の致死ウイルスの母体となった兵器ウイルスは資料が乏しい。虫のいい話だが、場合によってはお前のその頭脳が必要になってくる可能性もある。もしもそうなった時は、協力してくれるか?」
 少年は心配そうに上目遣いになっている琢己を見て呆れたように笑った。
「かまいませんよ。僕はあなたに作られたものです。人間の創造主が神なら、僕の創造主であるあなたは、僕にとっては神だ。実際には3年前、僕は処分されていて当然だった。事実、世の中の人は僕は処分されたと思っているでしょう。今の僕があるのは全て、あなたのお陰です」
 琢己は少年の寂しそうにも見える微笑を見つめ、小さくため息をついた。
「悪いな、坊主。勝手に作り出して、勝手に放り出して。でも俺は、お前を最期まで見つめるからな。お前の最期は俺が看取ってやる」
 少年は嬉しそうに笑い、照れたように鼻の頭を掻いた。そして、不意に表情を引き締めた。
「今後の連絡先と連絡端末を教えておいてください。僕の方も可能な範囲で資料を集めてみます。僕の端末はいつものとおりです。もしも、僕が解析したほうが効率がいい資料などがあったら、入れておいてください。結果は端末でお知らせします」
 手早く連絡先を教え、通信監視システムの問題があるので資料に関しては端末からハックして持っていってかまわない旨を伝えると、琢己は手早く通信を切った。画面に白い顔の残像が一瞬だけ浮いて、不意に部屋は静かになった。
 ――5年、か……。
 実際の予備研究から入れれば約7年、琢己は彼と向き合っている事になる。彼に名前はない。研究者は彼をtype-Mと呼んだが、琢己だけは彼を『坊主』と呼んだ。
 ――坊主といっても、奴の染色体はXXなんだがな。
 受精卵に対し、ある特殊な化学物質の投与を行うと分断した体のパーツを分化誘導できる――。その内容も、実際のクローニング自体もグロテスクでさえある。だが、そのグロテスクさなど吹き飛ばしてしまうだけの科学的熱狂がそこにはあった。
 顕微鏡の視野の中でゆるやかに回転している卵。自己増殖された卵はそれぞれ異なった試液につけられ、分化誘導試験管の中でゆるやかに細胞分裂を繰り返す。
 女性体の卵を使った実験だけが成功した。男性染色体と使用したものと、人工DNAによる実験では試液中で卵が壊死したのだ。壊死の原因は投与された神経増殖因子との相性が悪かったためだ。女性体の卵だけが、その神経増殖因子とどうにか共存し、そして彼は生まれた。
 琢己はぼんやりと暗くなった画面を見つめた。既に彼の研究が崩壊してから3年が経つ。名前を付けなければならないと思いながら、つい、後送りにしてきた。――怖いのかもしれない。名前を付け、一つの人格として彼を認めることが。
 琢己はため息をつくと、考え込んでしまいそうになる思考を無理やり追い払い、乱暴にバッグに服を詰め込み始めた。そしてもう一度端末のスイッチをつけると、郵便物の配送先の変更願いと、ごく親しい人間にだけ連絡先変更の連絡を出し、スイッチを切った。
「さて、行くかな」
 一度部屋をぐるりと見渡すと、琢己はバッグを肩にかけ、幾分乱暴に部屋の鍵を閉めた。ふと、視線のようなものを感じて空を見上げると、すっかり暗くなった空に、月が顔を出していた。

第一章『k-2011』(2)

 ――私には、たった一度だけ雪の記憶がある。
 めぐみは時折ふと意識の上に浮上してくるこの考えに、戸惑いと疑問を持ち続けていた。

 2037年、めぐみが生まれた年に起こった大規模な地殻変動は、世界各地の火山活動を伴い、大森林を焼き、いくつかの主要な都市を飲み込んだ。めぐみの住む都市は、かろうじて崩壊は免れたものの、海流の変化や、今もって複雑に変化する偏西風の影響で、四季の変化のない暖かな地域へと変わってしまっていた。現在、世界の都市機能は回復を見せているが、その噴火の影響で都市部の大気には多くの有害物質が含まれるようになっており、地鳴りのような有害物質除去装置の唸り声が鳴り止むことはない。
 噴火でいくつかの密林が焼け、大気温の上昇でいくつかの地域が水没した。森林が少なくなったことによる大気への酸素不足が深刻な問題となったが、10年前には酸素生成プラントが国際科学庁によって開発されている。これで当面の人類の悩みは、不安定な気象が引き起こす自然災害に対してどのように対処するかということと、増えすぎた人口が消費する地下資源を今まで以上にどのようにして節約するかということに収まったようだ。もちろん、そういった激動期が幼い時期と重なっていためぐみにとっては、その事すら学校で教えられたことだったが。

 かつて、めぐみの住む地域でも雪は降っていた。四季の変化の美しい国だったという。だが、もう雪は降らない。
 しかし、めぐみには雪の記憶がある。
 ちらちらと舞い落ちる白い塊は冷たくて、めぐみはその恐ろしいほどの繊細さに幼い心を震わせた。
 ――『ユキ』って言うんだよ。
 優しい声を覚えている。それが、父の声らしい。

 めぐみには明確な父の記憶がない。
 めぐみの手元には数枚の父の写真が残っているが、それはどれも父の若い頃の写真で、結婚前の母との写真や生まれたばかりのめぐみを抱き上げている写真だった。
 写真に写っているその父だという男性は線の細い人で、きっと優しい人だったのではないかと思うのだが、めぐみの母はあまり多くを語ろうとしない。幼い頃、父は科学者で外国で研究を続けているのだと聞いたが、たまに父から来たという手紙を母が読み聞かせてくれるだけで、それが本当に父からの手紙であるという実感はあまりなかった。数年前からはその手紙さえ途絶えている。
 めぐみにも父について知りたいという欲求はある。だが、弱々しい笑顔を見せながら父のことを隠しつづけようとする母を傷つけてまで、自分の欲求を押し通したいとは思えなかった。

 狩野めぐみ、15才。この春、高校をスキップして大学へ進んだ。父の母校であるという自宅から近い大学だ。たった一度の雪の記憶が、めぐみに科学の道を進ませようとしていた。


 大学という場所は雑多で面白い。めぐみと同様スキップして入学した幼い人間から、資格を取ることが趣味で幾つもの大学を卒業してきた人間、一度は就職して自力で学費を作って大学に来た人間まで年齢も経歴も様々だ。当然20代前半で助手として教壇に立つ人間の話を、60にさしかかろうかという立派な紳士が小さな席に体を押し込めて聞くというような不思議な光景も多く見られる。
 めぐみはというと、適度な幼さが同級生の庇護欲をかきたてるらしく、何かといろいろなことを教えてもらい、可愛がってもらっていた。

「狩野、お待ちかねの写真集だ」
 大きな体が隣の席に滑り込んだ。妹分として可愛がってくれる野島修司はめぐみより10も年上だ。10年前ボランティアで海外を飛び回るうちに遣り甲斐を感じてしまい、8年ほど国の援助を受けながらボランティアをやり続けたのだという。人生の先輩としてアドバイスはくれるが、学問に関してはまったくの同級として扱ってくれる、そのスタンスが楽で、めぐみは彼の傍にいるのが好きだった。
「ありがと。お礼は母特製のサンドイッチだよ。野島、好きだろ」
 食べた後は捨てられるようにと、使い捨ての入れ物に入れられたサンドイッチは幾分可愛らしくラッピングしてあったが、野島の体格を考えてボリュームはかなりあった。
「感謝! お前のおふくろさんの料理は美味いからなぁ……」
 野島は大多数の大学生がそうであるように一人暮らしだ。いつも不味いと評判の学食でばかり食べるので、一度めぐみの弁当のおかずを分けてやったら、涙を流さんばかりに感激していた。それ以降、たまにこうして母にお願いして野島のために作ってもらっている。
 めぐみはサンドイッチをぱくついている野島を尻目に、受け取った写真集を袋から引っ張り出し、そっとページをめくった。

 白い大地。厚く降り積もった雪は、重なり合った雪肌の間に透明な藍を含んでいるように見える。
 思わず溜息が出た。野島はそんなめぐみを見て、小さく笑みを浮かべる。
「狩野、お前、雪が本当に好きだな……。実物を見たことはないんだろう?」
 めぐみはちらりと野島の顔を見上げると、首を傾げた。
「そのはずなんだけどね。地殻変動のあった年に生まれたから……」
 ――けれども、私にはなぜか雪の記憶があるのだ。

 灰色の壁。無機質な金属の匂い。冷たい床。黒い服の男。白い雪。曖昧な視界。――そして、声。
 ――『ユキ』って言うんだよ。

 それが何時の記憶であるのか、めぐみにはわからない。

「野島は見たことがあるんだろう?」
 野島はにやりと唇を歪めて見せた。
「もちろん。根雪――万年雪って奴かな、それも見たことあるぜ。雪を水代わりに料理を作ったこともあるしな……」
 へぇ、と感心したような声を漏らしてめぐみが野島を見上げると、得意げに見下ろしている視線に出会った。
 男の顔だなと思う。高校で一緒だった多くの少年とは違う、広い世界を知っている人間の顔。テキストで教えられた気候を数値的に知っている顔ではなくて、それを体感してきた人間の顔。
 ――目覚めた人間の顔、とでも言えばいいのだろうか。自分で転び傷ついて世界の形を知っている顔。
 めぐみは溜息をついた。
 野島を目覚めた人間だとするならば、めぐみの魂はまだまどろんでいる。目覚め、世界を知りたいと思う。だが、微かな不安と母の微笑がめぐみの邪魔をする。

 ――けれども、私は知りたい。知らなければならないと、私の中の何かが言うのだ。

「あぁ、そうだ。野島、旧型オーブンの換気用フィンは外して掃除しても構わないんだよね?」
 頭の中に浮かんだ曖昧な感情を振り払うように、めぐみは野島に尋ねた。ケーキを焼くのに一番手に慣れているからと、未だに騙し騙し使っている旧型のオーブンが最近調子が悪くなっている。温度が上がりすぎるので、換気用のフィンを見てみようと考えた。
「あぁ、普通に外して掃除できるはずだけど。故障したのか?」
 旧型とはいえ、未だ他の国では普通に使われているような品物だ。もしかしたら野島は知っているかもしれないと思ったのだが、予想は当たったらしい。
「温度が上がりすぎるんだ。フィンが回ってなかったみたいに見えたから」
「手伝ってやろうか? 旧式の奴なら何度か自分で修理したことあるから、分かるかもしれないぞ。狩野のおふくろさんにはいつも美味しいものを食べさせてもらっているし……」
 めぐみは不意に、機会があったら野島を夕食にもてなしたいと言っていた母の顔を思い出した。
「いいの? もし、都合がいいなら夕食も一緒にどうだい?」
 夕食、と聞いた途端に野島の顔が輝いた。
「都合はもちろんいいけど、いいのか? 迷惑じゃない?」
 口では一応遠慮してみせる、そういう常識人なところも、嫌味がなくていい。
 約束を取り付けて、めぐみは小さく笑った。学校ではなかなか他の国の話を根掘り葉掘り聞けない。いい機会なので、思いきりその当時の話を聞きたいと、そう思っていた。


 野島は一生懸命肩を丸めていた。そっと手元を覗いてみると、細い隙間に指を入れて螺子を確かめているところだった。
「あぁ、やっぱり、ここがとまってるから開かないんだな……」
 独り言を言うと、器用に螺子回しを差し入れ瞬く間に螺子を取り外した。
「よし、これで開くぞ、と……」
 すっぽりと抜けた換気用の羽根は長年の汚れで煤けている。回転する際に中央の軸と触れ合う部分が特に汚れていた。
「すいません、流しを借ります」
 短く断ると、野島は手早くその汚れを落とし始めた。手付きが慣れていると、不思議なことでめぐみは感動した。
 母はというと、そんなめぐみ達の様子をどこか楽しそうに見つめている。
「本当にごめんなさいね。腕を振るうから、ぜひ夕食を食べて帰られてね……」
 野島は恐縮したように頭を下げて、ただ黙々とオーブンを修理していた。

 修理を終え、部屋に案内するなり、野島は大きく溜息をついた。
「緊張した。お前のお母さんって若いのな……」
 そしてめぐみをしげしげと眺めると、頭を掻いた。
「当たり前か、お前、まだ15なんだもんな……」
 野島に椅子を勧め、おもむろにたまっていた質問を切り出そうとした時、野島の方が先に質問を口に出した。
「親父さんは仕事か?」
 一瞬、めぐみの動きが止まる。どう答えるべきか迷ってしまったのが、そのまま顔に出てしまった。
「――すまん。聞いちゃ、いけないことだったのか?」
 めぐみは小さく笑うと、首を振って見せた。
「いいや。そういうわけじゃない。実は、私、父の顔を知らないんだ……」
 野島は絶句した。
「生きてはいるらしいんだ。私が小さい頃はまだここにいたらしいんだけど、外国で研究をしなきゃならなくて、子供は連れて行けないから、母は私とここに残ったんだ」
 手紙でしか父の記憶はないと答えると、野島は微妙な顔をした。
「すまん。変なことを聞いたな……」
 めぐみは笑った。笑って見せた。そんなことで傷つくような子供ではないのだと、とうにそんなことなど乗り越えてでもいるかのように。
「私はあまり父の記憶がないから、逆に楽なんじゃないかな。母は寂しいと思う。スキップで大学に入学したんだから、母も我慢せずに会いに行けばいいのにって言うんだけど、なかなかね、腰が重くて……」
 痛ましいものを見るように野島はめぐみを見つめていた。野島には分っていた。めぐみの言葉の全てが自分自身を納得させるために紡ぎ出されているものだということを。
「あぁ、でも、声は覚えてるな。――と言っても、それが本当に父のものだという確信はないけど」

 ――『ユキ』って言うんだよ。

 何度も思い出す声の輪郭は曖昧だ。それでも、めぐみはその声を父の声なのだと信じていた。
「雪のことを教えてくれたんだ。――変だと思うだろうけど、私、雪の記憶があるんだ。父がね、降ってくる雪を示して、こう言うんだ。――『ユキ』って言うんだよ、って……」
 野島はじっとめぐみを見つめていた。視線に応えるように見つめ返してめぐみは笑った。
「現実なのか、夢なのかも分からないけどね」
 夢だと考えた方が自然なのだ。
 灰色の壁。無機質な金属の匂い。冷たい床。黒い服の男。白い雪。曖昧な視界。――そして、声。
 生まれた年にもう、雪は降らなくなっていたのだから。
「だから、雪の写真ばかり、見るのか……?」
 躊躇うように野島は訊いた。めぐみはただ笑っていた。扉の隙間から漂ってくる、夕食の匂いが切なかった。
「馬鹿。泣くなよ……」
 初めて、めぐみは自分が泣いていることに気がついた。気が付くと、もう、涙は止めることが出来なかった。そっと、伺うように野島に手が頭に置かれ、躊躇うように触れた後、髪を梳かれた。大きな掌だった。
 ――『ユキ』って言うんだよ。
 記憶の中の声が交錯した。
「ごめんな……」
 何に対してなのか、野島はただ、何度も謝りつづけた。

 食事をしながらの会話はもっぱら野島の海外での生活のことだった。めぐみが質問し、野島が答える。時々、めぐみの母もずいぶん昔、まだ学生の頃に見聞きした外国の話をし、声を立てて笑った。野島は気をつけて父の話に触れないように努めているようで、会話は不自然にも感じられるほど明るく、和やかだった。
『アフリカ南部酸素生成プラント周囲で、大きな山火事が発生した模様です。プラント周囲には大都市はなく、被害は比較的少ないと思われますが、プラントへの影響が懸念されています。現地からの報告によりますと、火事は――』
 つけっぱなしだったニュースから緊迫した声が流れた。野島は不意に黙りこんで、一瞬会話に空白が出来た。
「物騒だな……。まぁ、酸素生成プラントの周囲ならあまり大きな都市はないだろうから、それだけが救いかなぁ……」
 めぐみは独り言のように言った。ぎこちなく母が怖いわねぇと一言だけ言って、チャンネルを替えた。
「お茶にしましょうか。めぐみの煎れる紅茶は美味しいのよ」
 食事もあらかた済み、テーブルを片付けてお茶を入れる準備をはじめていた。そのとき、不意にドアベルが誰かの来訪を告げた。
「誰かしら。こんな時間に……」
 お茶を入れておいてねと母に頼まれて、めぐみは応対に出て行く母の背中を見送った。
「はい……。どなた?」
 小さく声が聞こえる。お湯を沸かすめぐみの隣で、野島はテーブルの上に乗っているカップをしげしげと眺めていた。
「これ、いいカップなんだろう? 俺、よく分からないけどさ……」
 カップ集めはめぐみの母の趣味だ。めぐみの母は手書きのジノリやマイセンの青を好んだ。特に今日は一番のお気に入りのカップばかりを出している。
「母の趣味だよ。父との出会いもカップを選んでいたときらしいから」
「へえ……」
 繊細でそのくせ強い白さを見せるカップは、いつも母の手で綺麗に洗われ、磨かれている。めぐみはポットに母のお気に入りの紅茶を入れ、ゆっくりとお湯を注いだ。美味しい茶を入れることは唯一、めぐみが誇れる技術だった。
「え? どういうことです? いったい、何を……!」
 突然、荒々しくなった母の声に、めぐみは思わず玄関の方を振り向いた。異常を感じた野島が、飛びつくように玄関への扉を開けた。だが、その背中はすぐに驚いたようにその場に立ちすくんだ。

 母を取り囲むような黒服。一様に無表情な彼らからは独特の威圧感が漂うばかりで、際立った特長が見られない。
「ダメ! めぐみ、逃げて! 逃げてっ」
 キラリと男の手で黒いものが光ったような気がした。母は狂ったように両手を広げて男達にすがりついた。
「娘にはあの人の名前すら教えてないのよっ。娘にはもうけして手を出さない、それが約束だったはずでしょう!」
 めぐみは優しく弱い母だと思っていた。いつも、悲しげに笑って、小さく歌を歌っている、それが母の全てだと思っていた。
 だが、そこに居る女は長い髪を振り乱し、鬼のような形相をし、屈強な男達に掴みかかっていた。
「お願い、めぐみを……!」
 母の瞳は野島を捕らえた。母の唇が逃げろと叫んだ。野島は突然身を翻してめぐみを抱きすくめ、乱暴に引きずるようにして裏口を目指し始めた。
「いやだ! 離せ野島。母さん! 母さん……!」
 その腕から逃れようとがむしゃらに暴れた拍子に、ガツンと肘が野島の顔に当たった。
「離せよ!」
「黙れ!」
 初めて聴く低い唸るような声に、思わずめぐみの体は硬直した。
「あの黒服、連合の奴らだぞ! あいつらとかつて取引があったのなら、お前のおふくろさんの判断の方が正しい!」
 硬直しためぐみを乱暴に抱えあげ、野島は恐ろしい速さで走り始めた。背後で、狂ったような母の叫び声が聞こえ、何かの割れる音が響いた。
「逃げてぇ! めぐみ! めぐ……」
 突然、母の声は途絶えた。そして、ドサリという何かが倒れる音がした。
「母さんっ」
 野島の太い腕にすがりつきながら、めぐみはかすれたような声で母を呼んだ。こめかみで鼓動が鳴り響き、揺れる視界の中で家の明かりが不規則な光の筋を残してめぐみの瞳に焼きついた。
「かあさ……」
 めぐみの視界の中で何度も母の狂ったような顔が繰り返された。黒服の男たちは無表情にめぐみを見返し、めぐみの中で闇が踊った。
「くそ……、追いつかれる……」
 小さく舌打ちするような野島の声が耳元で聞こえ、めぐみは抱きかかえられたまま野島を見上げた。額には汗が噴出し、忙しなく辺りを見回しながらも、野島はめぐみを離そうとしなかった。
「野島、私と居ると、野島まで……」
「うるさい!」
 低い声で一喝すると、野島は細い横道に入り込んだ。
「くそ、どこか横道があれば……」
「こっち!」
 不意に横合いから出てきた腕が野島を引っ張る。
「ここから地下に入れる。早く!」
 その声の主が誰なのかもわからず、野島は階段を転がり落ちるように下りた。ガタンと大きな音を立てて扉が閉まると、一瞬周囲が闇にのまれる。直後、ジッっと小さな音を立ててライターが灯された。
「横の壁に抜け道がある。ついてきて……」
 炎に照らされた顔は思いのほか幼かった。日に当たったことのないような青白い肌をライターで照らされた人影は、壁を器用にあけ、二人を押し込むと自分も中に入り込み、ゆっくりと注意深く壁を元通りに閉めた。そして、ロックに使うらしいスイッチを押し、天井にたくし上げてあった黒幕を下ろす。
「少し行ったところに小さな部屋があるんだ。とりあえずそこに移動しよう」
 ようやく床に下ろされためぐみの手を取ったその人影は、薄闇の中で優しく笑ったような気がした。掌は冷たく、だが、柔らかかった。

 小部屋は無機質で、人が住んでいるという気配はあまりない。唯一置かれた長椅子に小さな柔らかな色合いのクッションが置いてあって、そこだけ暖かい印象がした。
「明かりを、点けるね」
 不安を煽らないためだろう、人影は小さくそう告げるとカチリと何かのボタンを押した。薄闇に慣れていた目には痛いほどの光が天井から降り注いだ。
「自己紹介からした方がいいのかな?」
 光の中で、その人影は微笑んでいた。だが、その顔を見つめて二人は声を無くした。
「あなた、誰……?」
 その人影の顔は、あまりにもめぐみに似すぎていた。頼りなげな印象のする細い顎も、切れ長の一重の瞼も、少し色素の薄い薄茶の瞳も、すべて――。

第一章『k-2011』(1)

 赤く不透明な液体の中で、それは微かに蠢いているようにも見えた。実際には、その蠢きが肉眼でわかるはずはない。液体の中に浮遊し、蠢いている物体の大きさは0.02μ――顕微鏡を使うことで、ようやく識別できる程度の大きさなのだから。
 だが、その赤く不透明な液体は、確かに蠢いている。その見えざる蠢きは、僅か30分という短い間に、チューブに充填された紅い液体を、かすかに濁った褐色へと変えてしまったのだ。

 美都《みやこ》は、その赤い液体を密閉した試験管チューブを映し出し続けているモニターの画面を恐ろしげに眺めた。数時間前、その試験チューブにウイルス培養用の細胞浮遊液を詰めたのは、美都自身だった。宇宙服のような防護服に身を包み、マスクヘルメットの背後に伸びる酸素の配管に気を配りながら、実験動物から採取した検体をその試験チューブに注ぎ入れたその時は、まだ恐ろしくはなかった。増殖の早いウイルスだということは分かっていたが、その増殖能力がここまで凄まじいものだとは、知らなかったからだ。
 美都は小さくため息をついて、画面から視線をはずした。だが、数秒もたたないうちに、何かに引き寄せられるようにまた画面を見つめてしまう。
 怖いのだ。
 目を離した数分の間に、試験チューブが激変してしまうかもしれない。そんな事実を突きつけられたら、どうしたらよいのか、分からない。
 美都は、思い余ったように画面に手を伸ばし、そっと試験チューブの輪郭をたどった。実際にその試験チューブそのものに触れるためには、いったん実験棟の内部専用通路に出て、専用入口から入りなおさなければならない。

 公的には、この研究室はバイオセーフテイレベル4研究室として登録されている。だが、今、美都が座っているこの場所は、事実上はそのはるか上を行く、バイオセーフテイレベル5とでも評さねばならないような場所だった。
 巨大なドーム状の研究所内には、さらに小ドームが点在している。中央のメインドームは事務局のような役割をしていて、所長室や食堂もそこにあった。そのメインドームから放射状に伸びた通路の先に、研究施設の小ドームが並んでいる。各研究ドームからメインドームに行くためには、通路上に配された数箇所のエアシャワールーム――入るたびに5分間両扉がロックされ、嵐のような風の中でただ扉が開くのを待つしかないという、強制的なエアシャワーを経由して行かなければならない。
 エアシャワーだけでなく、研究室全体の巨大送風システムによって常にメインドームから各研究ドームへと風が流れる仕組みになっており、各研究ドームの終末換気扇は、それぞれのドームに備え付けられた巨大排気パイプへと通じ、排気された空気は数種類の細菌フィルターへの吸着と化学処理が行われ、地中深く埋められた排気専用のパイプから海へ――国際的に廃棄領域と定められている領海へと流される仕組みになっていた。
 例えば、研究ドームに異常が起きたような場合、メインドームへの通路は自動的に厚さ2メートルの壁によって閉鎖され、研究ドームの内壁と外壁の間に設けられている閉鎖用の空間へセメントが流し込まれる事になっている。一応、地下には研究員のための非常用脱出路が整備されていたが、場合によってはそれすら破壊されかねない。――もちろん、『閉鎖の際の事故で脱出路が破壊されてしまった』ということになり、故意に行ったことではないとされるのだろうが。
 研究員の命よりも、その研究ドームから様々なウイルスが漏れ出ないようにする事の方が最優先される、国立ウイルス研究所――そんな平凡な名前を持つこの研究所を、しかし周囲はこう呼んだ――Easten Viral Infection Lab. 通称『EVIL』――。

 国家として、あるいは世界的に重要な研究をしているがゆえに、いったんEVILの住人になると、どんな状況であっても離脱は許されない。最高の科学水準と研究施設を誇る研究所は、多くの科学者の憧れでありながら、同時に巨大な牢獄だった。
 だが、そんなEVILにも、ただ一人、離脱し地下に潜った男が居た。結城琢己――美都の同期生であり、かつてのパートナーだった男だ。美都はいま、小ドームの中でただ一人、その琢己を――かつて自分を捨てた男を、待っているのだ。
 何故、彼に限ってEVILの追っ手がかからなかったのか、美都は初めは不思議でならなかった。だが、彼が身を落ち着けた先がレジスタンスだったことを知り、追っ手がかからなかったのではなく、追えなかったのだということを知った。
 EVILとレジスタンスの間には、過去からの深い確執がある。EVILは常にレジスタンスの標的の一つであったが、同時にEVILが生物兵器を開発し、レジスタンスがそれを実際に使用する――事実上の地上実験を行う――という関係も否定できなかった。レジスタンスと国家の両者に生物兵器を与えるのはEVILで、その兵器のワクチンを開発するのもEVILだった。肥大化した頭脳を持て余した胎児――レジスタンスはEVILをそう揶揄し、EVILはレジスタンスを、頭脳なき獣だと評した。
 美都は何度目かのため息をついた。彼女の美しい顔は、この数日の苦悩で曇り、こうしてただ待ちつづけている間にも、微妙に色合いを変化させていく試験管チューブを、沈痛な面持ちのまま、黙って見つめていた。

「培養細胞は腎臓?」
 目の前に提示されたモニターの中の試験管チューブを、その横に表示されている内部温度や湿度の情報とともに興味深げに眺めていた琢己は、そう短く尋ねた。そして無邪気に、触りてぇなと小さく呟く。
「ダメよ。まだ感染経路がはっきりしていないんだから!」
 子供をしかるような美都の口調に小さく首を竦めてみせると、琢己は、厳重に保管陳列され、固く蓋をされた赤い試験管チューブをしげしげと眺めた。
「そんなに威力があるの?」
 そんな無邪気な琢己の様子をまるで子供のようだと思いながら、美都は黙ってテーブルに散乱していた紙の束を手に取り、プロジェクターのスイッチを押した。
 壁に試験管チューブが二本映し出される。
「右側が今あなたが見ている試験管チューブ。今日の午後2時の撮影だから――ちょうど今から一時間くらい前の状態ね。左の写真がその試験管チューブのさらに二時間前――正午の姿……」
 その二つの写真では、試験管チューブに充填された培養細胞液の色が明らかに違った。その違いは、そこに植え付けられたウイルスの増殖能力の高さを思わせる。
 琢己は小さく口笛を吹くと、長い足をテーブルの下で組みかえる。手近にあった紙を引き寄せると、それが不要な紙であることを確認してから胸ポケットからペンを出した。これからの説明で気になった部分をメモしようというのだろう。
「今の写真は常温で保管したものなんだけれど、保温槽に入れて観察したものが、これよ。37度で保存した時の様子。そして、20度での培養、5度、そして、0度。10時に植えつけて、正午と午後二時に撮影したわ」
 美都は矢継ぎ早にスライドを進めた。最後の一枚だけ、培養細胞液の色が植付けから変化がみられない。
「凄いな、5度なんていう低温でも37度の時と同じ増殖能力を持つのか。じゃぁ、研究室は冷凍庫状態にしなきゃ……」
 琢己は軽い冗談のつもりだった。だが、美都は笑いもせず、ただ頷いた。
「そうなるわね…」
 当てが外れたように肩を竦めた琢己を視線の端に捉えて、美都は一瞬苦笑すると、再び手元の資料に視線を落とし、ゆっくりとスライドを進めた。
「このウイルス感染症は、最初、南アフリカ酸素生成プラントの巡回監視員に発症したわ。当初はエボラ出血熱が疑われて、すぐに血清療法が行われたけれど、効かなかったの。エボラの変異株かとも思われたんだけれど、少し、症状に矛盾があって……。実は南アフリカ酸素生成プラントの近くには、以前うちが使用していたウイルスの研究所があって――南アフリカで炎上したウイルス研究所の話は、あなたも知っているでしょ?」
「博士の鳥篭だろ?」
 EVILによって、国外で秘密裏に運営されていた研究所だ。
「そう。そこからウイルスが漏れた可能性は否定できないの。だから、報道的にはエボラの変異株という事にして、事実関係をこっちで研究することになったのよ」
 壁に映し出された監視員の眼球は充血し、皮膚から幾筋も血が流れ出していた。それは激烈なウイルスの感染症状を示しているといっていい。致死率はおそらく100%に近いのだろうと推測し、琢己は眉をひそめた。
「感染の広がりは?」
「現地の住民が何人か感染したそうよ。でも、すぐに隔離してあるから拡大はしてないわ。オリジナルの感染元を探るための調査ユニットは、既に現地に派遣してあるの。私がここでやるべきは、このウイルスの正体を解明することなのよ」
 美都はスライドを進めた。不意にサルが映し出された。
「既に、サルを使った実験は現地でも始めているわ。でも、今までに解明できたことは、ほんの少しなの。ウイルスの形は正20面体型で、エンベロープ(被膜)はなし。核酸タイプは一本鎖のRNA。――形からいくとポリオウイルスに似ているわね……。もちろん、ポリオはこんなに増殖能は高くないし、こんなに危険でもないけど」
 スライドに映し出された不鮮明な写真の中で、サルはぐったりと体を弛緩させていた。既にその命がこの世には繋ぎとめられていないことは明らかだ。
「潜伏期は不定。不明ではなく、不定なの。――通常ウイルスは感染するとすぐに自己増殖をはじめるけれど、このウイルスは違うわ。それがこのウイルスの最大の特徴と言ってもいいかもしれない。このウイルスが自己増殖をはじめるには、きっかけが必要なのよ。しかも、そのきっかけを得るまで、じっと体内で息を潜め続けるの」
 カシャリと小さな音を立ててスライドが切り替わると、こんどはサルの眼球が映し出された。器具で瞼を大きく開かれ、その赤黒く充血した白膜は至る所で血管が綻び、小さな出血を生じている。
「このウイルスはまず、網膜と視神経に感染する。そして、紫色の光――プリズムで生成されたような、可視光線の中で一番波長の短い光を一定以上浴びると、突然増殖をはじめる。培養液では腎臓の細胞を使ったけれど、およそ体内のありとあらゆる細胞で増殖できるといってもいいわ。増殖能力だけをとって考えると、エボラ以上かもしれない」
 琢己は不意に寒気を感じた。写真で大写しにされたサルの眼球にはメスが入れられ、そこから褐色の汚濁が流れ出ていた。
「症状は、きっかけとなる紫色光線が与えられない限り出てこない。けれど、きっかけが与えられると、ウイルスは眼動脈から血流に乗って全身に散らばり、ありとあらゆる細胞を融解させる。血液凝固の為の体内因子は、約30分で消費し尽くされ、それ以降は出血しつづけるわ。この、サルを使って実験していた研究員は不幸にも感染してしまって、全身から血を流し、最終的には心筋が壊死して、感染から10時間で死んだわ。皮膚は――おそらく血流量の問題だと思うのだけど――あまり損傷を受けないの。けれど、皮下組織はドロドロに融けるから、力を入れるとズルリと剥けるわ。これがその解剖記録よ」
 開腹された研究員の内臓は、そのほとんどが姿を留めていない。褐色の半ば液化した腹部の中で、唯一大動脈だろうと思われるチューブ状のものが、ある程度の形を残していた。開かれた肋骨の下に心臓は一部だけ残っていたが、心臓から伸びる静脈には虫食いのような穴が幾つも見られ、最後は破れたように途絶えていた。解剖の時に無理な力がかかったのだろう、ベロリと剥けた皮膚の下から褐色に変色した筋肉が見えた。
 スライドには解剖を担当した医師も映っていた。その顔にヘッドマスクがないのを見て、琢己は眉をひそめた。
「このドクター、マスクは?」
「一応、検体を採取した後、消毒も兼ねてホルマリンで固定してから解剖したの。解剖当初はヘッドマスクをしていたのだけれど、途中で事情があってヘッドマスクを変更しなくてはならなくなって、そうしたら、あうサイズがなくて――解剖ももうほとんど終わりだったから、ドクターはマスクをしなかったらしいのよ。短慮よね。――このドクターは感染して、研究員と同じように死んだわ。発症初期の記録では、指や腕に直接の感染経路を示唆するような傷はなかったそうよ。おそらく、解剖の際に何らかの形で検体の体液の飛沫を浴びたんでしょうね」
「口からの飛沫感染ならいいけどね……」
 琢己はうんざりしたようにスライドから目を離し、ガラスの箱の中でいまなお増殖を続けている見えざる侵略者に目を向けた。
 ――眼球粘膜からの感染も考えられるわけだ。最初の感染は眼部に限定されているわけだし。
 口には出さずにいたが、美都には考えている事が分ったようだった。
「そうね、全員が宇宙服みたいな格好をして街を歩き回りたくはないしね」
 琢己はゆっくりと美都の顔に視線を戻した。目の前にある白い顔を情熱を持って見つめ、愛撫した日々もあった。だが、どんなに情交を深めても、美都という女は変わらなかった。徹底的な合理主義で貫かれた信念の中に、『愛』という文字はなかった。そんな彼女を周囲は『鋼鉄の女』だと揶揄した。
「それで、俺にどうしろって?」
 美都はまっすぐに琢己を見つめた。人生の中で唯一体と心を許した男は、今や自分とは敵対する立場にいる。しかし、このウイルスの危険度を考えると、全幅の信頼をおいてともに研究できる人物は彼以外には考えられなかった。
「プロジェクトに入って欲しいの。所長の了解はとってあるわ。あなたが研究所と連合との繋がりをよく思っていないのは知っている。でも、分かってもらえたと思うけれど、緊急事態なのよ。このウイルスは感染力が高い上に致死率も高い。幸運なのは潜伏期間が短いから比較的感染が広がり難いということだけれど、血清が出来ない限り安心なんて出来ない」
 美都はゆっくりと資料の束を琢己の前に突き出した。
「あなたの連合への感情は知っているつもり。だから、あなたが研究所を辞めたときも、私、泣いたりすがったりはしなかったわ。でも、もう私には、貴方しか頼れる人間がいないのよ。おねがい……」
「細菌兵器の尻拭いか……!」
 琢己はもう一度スライドに目を移した。そして乱暴に資料の束をひったくると、視線を落とした。
「博士も罪なことをしてくれたもんだ」
 吐き捨てるようにそれだけ言うと、琢己はすべてを意識から追い出すように資料に集中し始める。
 資料の一行目には美都の几帳面な字でこのウイルスの研究コード名と通称が書かれていた。

 ――k-2011 5-10 type RNA pass=snow プロジェクトコード:snow――「『k-2011』変異増殖株」

December 8, 2004

第二章『星の道標』(7)

 マティスは襟元の紐を丹念に結ぶと、深くマントのフードを被る。陰になった目元は暗く、輝くような紫の瞳は翳りを帯び、暗い藍のように沈んだ。
 ――あんたはたぶん、周囲を容赦なく自分の運命に巻き込んでいく。おいらも、こうして関わっている時点でたぶんあんたの運命に巻き込まれてる。
 タオと名乗った少年の言葉は、深くマティスの胸を射た。

 五年前、炎の中で死を感じた時、マティスは運命を呪った。二年前、その多くの神官達の命を奪ったその死の刃が自分を追い続けているのだと知ったとき、さらにマティスは深く運命を呪った。逃げて逃げて、ただ逃げ続けて、呪うばかりで見定めようともしなかった運命と初めて向き合おうとしている今、マティスの中にはまだ躊躇いがある。この運命に立ち向かって命を落とすのが自分だけなら、それでもいい。だが、マティスの護衛を引き受けると言ったフォルマティオは、 いま別れたばかりのタオは、宿の女将は、そして床についているマイアは、彼らの命はどうなってしまうのか。
「あんまりだ……」
 もしかして五年前に炎の中で息絶えていたならばよかったのだろうか。
「どうした。奴は何処に行ったんだ?」
 不意に横から掛けられた言葉に振り返ると、左右に馬とラクとを引いたフォルマティオが立っていた。
「行ったよ」
 マティスが短くそう応えると、フォルマティオは忙しない奴だと小さく笑って呟き、ラクの嘴につけた短い紐をマティスに渡した。
「乗るときには外してやれ。ラクはもともとこういう紐を着けられるのが好きじゃない」
 想像していたよりも逞しいラクの嘴に、マティスは恐る恐る手を伸ばした。頭一つ高いラクの顔を見上げると、意を察したようにラクが頭を下げ、マティスの顔を覗きこむ。丸く濡れた硝子玉のような瞳は黒く、嘴の下に手を入れて柔らかな羽毛を撫でてやると、甘えたようにキュルリと鳴いた。
「ラクはもともと野生でも人懐こい動物だ。こうして旅に使われているラクは、特にな」
 首を傾げながらマティスの顔を覗き込んでくる様子は、まるで無邪気な子供のようだ。嘴の奥から熱く乾いた舌が覗いて、撫でるマティスの手の甲をぺろりと舐める。自然にほころんだマティスの顔を眺めると、フォルマティオは僅かに目を細めた。
 ――寛いで和んだ顔を、初めて見る……。
 そうして微笑んでいると、年より随分と幼く見える。
「行くぞ」
 弾かれたようにマティスはフォルマティオを見上げた。 まだうっすらと笑みを残した頬が強張り、小さく頷くのを眺めて、フォルマティオは微かに罪悪感を覚えた。
「門を抜けたら、いったん西側の細道に入る。西側には一本だけ、普段ほとんど使われない西の森を掠める道があるが、その道の脇から西の森の中の砂漠の道標に行ける。そこからはもう、道標を辿りながら行くしかない」
「森の中の砂漠の道標?」
 砂漠は広がっているのだと、マティスはそう教えられた。森の中に砂漠の道標があるのはどうしてだろう。
「砂漠は広がっている。だが、西の森もまた広がっているのさ。風が西から吹くから、砂が流されて森が広がる。東に流れた砂は、畑を埋めて広がっていく」
 マティスは風に追い立てられるように東へと伸びていく黄色い砂漠を想像した。そして 、砂漠に追い立てられて東へ、海へとじろじりと後退していく街を思った。海の端まで追われたら、エクリアの民は何処へ行けばいいのだろう。
「行くぞ」
 再度、フォルマティオはマティスを促した。キュルリと鳴きながら、まだマティスの顔を覗き込んでいたラクの長い首をそっと撫で、先を促すと、ラクはフォルマティスの意を汲み取って、大人しく一歩目を踏み出した。
マティスは雲のない砂漠の空を見上げた。遠く、吸い込まれるような空の彼方で、一羽の鳥がクルリと小さな輪を描いて飛んでいた。


「これがあんたの妹か?」
「おっと、触らないでくれ」
 イオスはそう問いかけて少女の頬に触れようとした男の指を乱暴に掴んだ。深く毛布を被せられた少女の顔は蒼く、やつれた頬に長い黒髪がほつれて筋を落としている。
「すまねぇ。だが、あんたの妹だと証明してもらわなくちゃ、俺も役目を果たせねぇ。毛布を少しはいで、顔を確認させてくれ」
 イオスは顔をしかめながら、そっと少女の体にかかる毛布を剥いだ。乾いてひび割れた唇から、浅い呼吸が漏れ、その呼吸に合わせて仄かにふくらみを帯びた胸が僅かに上下する。男はしげしげとそれを観察すると、小さく肩をすくめた。
「すまなかったな、旦那。確かにこいつは女の子だ」
「あぁ、俺の大切な妹だからな。――そのまま動くんじゃねぇ、首が飛ぶぞ」
 押し殺したようなイオスの声に、男は何事かと顔を上げた。鼻先に突きつけられた短剣の切っ先がきらめく。
「な……」
 反射的に剣の柄に伸びそうになった手を掴まれ、男は動きを止めた。
「まずは、その紋章の指輪をいただこうか。あぁ、指輪だけじゃダメだな。指も一緒じゃねぇと」
「どういう、意味だ」
 男の額にはじっとりと汗が滲み始めている。
「なんだ、知らねぇでその指輪つけてんのか? 指輪が権力の証なのは、帝国のど真ん中でも砂漠の辺境でも同じだがな、砂漠の街じゃ指輪をつけた指が権力の証なのさ。自分の指も守れねぇようなヤツは、指輪を持つ資格なんてねぇんだよ」
 ――だから、砂漠の罪人は指を切られるんだ。一目で分かるだろ、罪人だってな。
 弾かれたように、男の腕が上がった。短剣を突きつけていた腕を跳ね除け、掴まれていた腕をよじって解こうとした男の胸をイオスの足が蹴り上げる。その足を掠めて、男の剣が抜かれた。
「てめぇ、謀りやがったな。女将とグルか」
 短剣をゆっくりと振りかぶって、イオスはニヤリと笑った。
「気付くのがおせーんだよ、まぁ、女将の迫真の演技もなかなかのものだったがなぁ」
 ひゅと音を立てて投げられた短剣を剣で払い落とし、丸腰になったかに見えるイオスに向かって剣を振り上げた瞬間、男は動きを止めた。
 いつの間に抜いたのか、イオスの左腕に握られた長い鞭が蛇のようにうなり、男の首に巻きついていた。ゆっくりと振り上げられた男の剣が床に落ちた。
「痛かったぜぇ、あのビンタはなぁ」
 くいと鞭を引くと、さらに首が絞まり、男の体がひくりと痙攣する。にやりとイオスは笑った。
「それはすまなかったね。つい力がはいってねぇ」
 戸口にアザラが立っていた。数人の男の影が背後に見える。
「は、ちっともすまなそうじゃねぇや。じゃ、こいつの処分は任せた」
 イオスは鞭を振った。男の首から離れた鞭が、ピシリと床を一度叩いて、するりとイオスの手に戻る。支えを失った男の体が遅れて床に沈んだ。
「他の仲間はどうするんだい? もう街中に散った頃だよ」
「その辺は、連れが上手くやってるだろうさ。約束どおり、砂漠側の門には人をやってあるかい?」
 アザラは倒れた男を忌々しげに眺めると、そっとマイアに毛布をかけなおしているイオスを眺めた。
「あぁ、傭兵あがりの男たちが行っているはずだ。ヴァイア側の門はいいのかい?」
 イオスは弾かれて床に転がった短剣を拾うと、腿につけた鞘に挿す。
「ヴァイア側には俺が行く。連れがうまくやっていれば、連中の大半は砂漠側に行くだろう。そこは街の奴らに任せて、俺はヴァイア側で連れと合流して、旦那の後を追う」
「なんで、そこまでティオにこだわるんだい? 知り合いじゃないんだろう?」
 アザラの顔に心配そうな色が浮かんでいるのを認めて、イオスは小さく笑った。
「旦那は覚えちゃいねぇよ。だから、知り合いって関係じゃねぇ。でも、俺はあの旦那を知ってる。俺がまだヴァイアで船乗りをやっていた時、隊商の護衛中の旦那と会った。――助けてくれたんだよ、旦那が。濡れ衣おっ被せられて殺されそうになってたところをさぁ」
 ――まぁ、そんなことがあって、船も嫌になって、ふらふらと陸に上がって旅三昧の日々になっちまったんだけどなぁ。
 独り言のように呟くと、イオスは頭を掻いた。
 アザラはため息をつくと、ぽんとイオスの肩を叩いた。
「追いかけてどうするんだい?」
「さぁ、分からんな」
 イオスは明るく笑った。
「とりあえず、ルナリアにくっ付いて行くさ。ルナリアってのは、星見の郷なんだろ? そこで運命でも見てもらって、また旅三昧の日々に戻るさ」
「気楽だねぇ」
「あぁ、気楽だよ」
 自嘲気味に唇を歪めて、イオスは歌うように応えた。
「まぁ、またこの辺を通るときは寄っておいきよ。アンタはこのタロンの義士の要請に応えた。タロンの民と同じだよ」
 アザラの微笑みは優しかった。
「旦那に会ったら伝えておくれ、薬師が来るまでこの娘はこのアザラが面倒を見る。ちょうど旅の薬師がタロンに滞在してるから、しばらくは時間も稼げるだろうさ」
「分かった、伝える」
 イオスはマントを取った。壁に立てかけておいた長剣を取ると、腰に下げる。
「気をつけて行っておいで」
 アザラに笑いかけて、イオスは背を向けた。
「あぁ、行ってくるよ、タロンのおっかさん」
「アンタみたいなろくでなしの子供を持った覚えはないよ」
 背後から聞こえた呆れたようなアザラの声を聞いて、イオスは笑った。

第二章『星の道標』(6)

「あんた達、いったいこの宿に何の用だい」
 不意に扉を蹴り開けた男達の前に、アザラは立ちはだかった。まだ食事時ではないこの時間帯には、いつもはたむろしている男達も居ない。ただ一人、アザラは開け放たれた扉の前に立ち、男達を睨みつけた。男は3人。誰もが顔を歪め、そんなアザラの様子をにやりと人の悪い笑みを浮かべて見返している。

「どきな、姐さん。あんたに用はねぇ」
「この宿の主は私だよ。私の許しなくこの宿には入れるもんかね」
 にやりと笑って一人の男が、頓着せずに宿の中に足を踏み入れる。
「勝手に入るんじゃないよ。このタロンは宿で成り立つ町、宿への家捜しにはそれなりの理由と許可が必要だ。そうやってこの町は昔も今も栄えているんだ。あんた達の雇い主だって、それくらいのことは知っているんだろう?」
「固いこと言うなよ、姐さん」
 傍らの男がにやつきながら床に何かを投げた。小クリアス金貨だ。
「そんなものでこの私が動くと思うか。ここはカナリの家。このアザラが先代から引き継いだ、タロンの義士の家だよッ。見くびるんじゃないよ」
 アザラは一歩も引かない。男はチッと舌打ちすると、忌々しげにアザラを睨みつける。
「義士の家を汚すものは、旅券を割られて焼印をされる――これは昔からの不文律さ。あんたも傭兵の端くれなら、義士の家を汚した奴の末路くらいは知っているだろう。汚した瞬間から、あんたはもうただのゴロツキだ。何処に行ったってまともに相手にしてもらえるもんか」
「兄貴ッ」
 背後で連れの男が焦ったような声を上げる。無人だったはずの宿の周囲にいつの間にか町の男達が集まっていたからだ。その中に居る数人は、明らかに体格からして周りの男達とは違う。傭兵上がりの男だ。
 タロンのような宿場の町には必ず『義士の家』がある。事あれば町に居る傭兵たちはこの宿に集う。 元は傭兵の妻達が、仕事に向かった夫を待ちながら始めた宿のことだったが、次第に宿を束ねる顔役のような役目も持ちはじめ、今では『義士の家』と言えば宿場の町の自治の要にもなっている。町を災害が襲ったときに、まず傭兵上がりの男達が集まって救援作業の基地になるのも義士の家だったし、宿場の店を束ねる商家の代表との話し合いがもたれるのも義士の家だった。帝国領になった以上、当然、町貴族の支配化にはあるのだが、宿場で生きている人間の心は、金と地位で帝国と繋がる貴族達よりも、毎日の生活の要となる義士の家にあるといっていい。
「さぁ、家捜しをするつもりなら、割り印のついた許可証をお見せよ。このアザラが確認して、家捜しも尤もだと許しの半印を押さない限り、一歩もこの中には入れないよ」
「兄貴ッ」
 男達の輪が、僅かに狭まる。一人の男がゆっくりと腰に回した指先に、短いが使い込まれた剣の柄があるのが見え、背後の男は焦って強く己の剣の柄を握り締めた。
「そんなものはねぇ」
 頭らしい男が言い放った言葉に、アザラは目を剥いた。怒気がその小柄な体に満ちて、険しく寄せられた細い眉が怒りを孕んで天を向く。
「申し出は受けないよッ。出ておいき!」
「だが、これがある。許可書なんか必要ねぇんだよ」
 男は拳を突き出して見せた。無骨な刀傷の見える拳の指先に、鉛で出来た意匠のついた太い指輪が見えた。そこに町貴族の紋章を見つけて、アザラの眉はさらに険しくなる。貴族の紋章の指輪は、その代理人の証となる。つまりは、その申し出は許可書などより絶対だ。
「入らせてもらうぜ」
 アザラの小柄な体を突き飛ばすと、男は宿の中に一歩足を踏み入れた。だが、その男の前にふらりと黒い影が立ちはだかった。
「乱暴だなぁ。――家捜しするのは勝手だが、お探しの二人連れはもうここには居ないぜ」
 間延びした声でそう告げた男は、海に生きるものらしい焼けた顔に笑みさえ浮かべて、突き飛ばされて床に倒れたアザラの体を抱き起こした。
「さっき、俺の旅券を買ってもらったから、もうとっくに街の外だろうな」
「イオス、あんた、ティオを売るつもりかい?」
 アザラはイオスを睨みすえる。イオスはひょいと肩をすくめると、宥めるようにアザラの肩を叩いた。
「分からない人だなぁアンタも。紋章まで出されたら、もう、片意地張ったって無理だろう? 俺は家捜しされて病気の妹に障りがあるのが嫌なんだ。分かってくれよ」
 唇を噛み締めたアザラは、助け起こされた腕を振り解くと、イオスの頬を平手で思いきり叩いた。激しい音がして、何事かと動きを止めた男たちの息が一瞬止まる。
「見損なったよ!」
「ってぇなぁ。確かにあの旦那には世話になったさ。でも、俺は妹の方が大事なんだ。宿の家捜しなんかでただでさえ死線を彷徨っている妹の身に何かあってみろ。アンタでもただじゃおかねぇ」
 優男に見えたイオスの焼けた顔に怒気が浮かぶ。だが、アザラも怒気を孕ませたままでイオスの目を睨みすえる。
「おいおい、どういうことだよ」
 蚊帳の外に置かれた男が、ニヤつきながら二人の間に入った。
「兄さん、詳しく聞かせてくれよ。あんた旅券を売ったって言ったなぁ。相手は頬に傷のある男か?」
「あぁ、そうさ、頬にでっかい傷のある腕っこきの傭兵さんだ。あっちは早急に旅券が必要で、俺は金が必要だった。だから売った。2刻ほど前だったかな」
 ニヤリと笑うと、男はイオスの肩を軽く叩いた。
「ありがとよ。ただ、本当かどうか確かめなきゃならねぇ。家捜しにこの宿に入るのは俺だけだし、アンタが傍で立ち会ってくれてもいい。他の手下は宿には入れねぇ。病弱だというアンタの妹に手も触れねぇ。それで手を打ってくれるかい?」
 イオスは微かに首を傾げて考える素振りをしてみせ、そのあと小さく頷いた。
「うるさく音を立てたりしないでくれ。妹は寝たきりで意識が戻らないんだ」
「もちろんさ」
 男はまだ扉の外で剣の柄を握り締めたままの男に顔を向けると、通りに向かって顎をしゃくって見せた。
「てめぇらは他の奴に連絡して二手に分かれて街を捜しながら門に向かえ。見かけた奴がいたら、その足取りを追うんだ。門まで行っても居なかったら、門番を脅してでも奴らの行き先を吐かせて来い」
 そして男はアザラに向き直ると、仰々しく礼をとって見せた。
「姐さん、それじゃ、入らせてもらうぜ」
 アザラは忌々しげにそれを睨むと、ぷいと顔を背けた。


 マティスと別れたタオは、軽い足取りで大通りを分かれた場所とは正反対の方向に歩いていた。歩きながらマティスが着ていたマントを体にしっかりと巻き、懐から小さな容器を取り出すと、右目だけにポツリと何かを落とし入れる。
「くぅ。沁みるなぁ」
 眩しそうにパチパチと目を瞬いて、タオは一瞬だけ足を止めた。そして、ちょうど通りかかった店の軒先の水瓶を覗き込む。澄んだ砂漠の空のようだった青い瞳が、ほんの少し淡い紫に変色している。
「んまぁ、こんなもんか。あんな綺麗な紫にはならねぇもんなぁ」
 そのまま再び足を進めると、残った青い左目の上にそっと白い皮の眼帯をつける。フードの端から覗く太陽のような濃い金色の髪を丁寧に隠して、腰の小さな入れ物からありったけの銀の腕輪や指輪を出して気楽な様子で付けていく。
「なぁに、銀の戒めを本当に見たことがある奴なんて滅多に居ないんだ。このおいらだってさっき初めてみたんだから。こんなもんでも騙されるだろうな」
 小さく独り言を言うと、ひょいと脇道を覗き込む。アザラの宿の裏道だ。その窓に小さな黄色い布が掛けられているのを見ると、小さく頷く。
「よし。時間は大丈夫、と。さぁて、このタオさまの博打の時間だ。まぁ、見ててくれってよ」
 タオは駆け出す。反対側の帝国側の門の傍で、追っ手の目を一時引きつけなくてはならない。追っ手の人数がさほど多くないことは分かっている。だとすれば、うまくいけば殆どの追っ手を一時ひきつけておく事だって可能だろう。本気で大変な事態に陥ったら、眼帯とマントを外して見せればいくら追っ手が馬鹿でも目的の人物じゃないことなんて一目瞭然だ。
「宿の方はイオスの旦那に任せて、と――いまいち心配だけど、まぁ博打にかけちゃおいらとどっこいの筋金入りだからな、何があっても適当に言い逃れすんだろ」
 独り言を言ってくつくつと笑うと、タオはマントの裾から日に焼けない白い腕を伸ばした。キラキラと銀の腕輪が小さな音を立てながら手首から肘へと落ちていく。そして、大きく開いた店に飛び込むと、あっけにとられた様な店の主人にすがり付いた。
「助けて。どうか、助けてください」
 もう、その無邪気な顔から人を喰ったような笑みは消えている。かわりに幼さが残るような白い顔に浮かんでいるのは、恐怖と怯えだ。
「どうしたんだ? 誰かに追われてるのか?」
 店の中の客までもが、突然飛び込んできたタオを驚いたような顔で見ている。
「助けて……」
 掠れた声で呟くと、タオは初めて気がついたように、マントからむき出しになっていた細い腕をマントの中に押し隠した。銀のきらめきが微かに視界に残ったのを見て、店主がはっとしたようにタオの顔を覗きこむ。
「紫の隻眼……?」
「どうか、助けて」
 タオは店主から顔を背けて、なおも掠れた声で繰り返した。広場での騒ぎは街中に知れ渡っているはずだ。もちろん、その後、人相の悪い連中が『銀と紫玉でできたような少年』を捜していることも、捜させているのが悪名高い貴族だということも知れ渡っている。町の人間は、総じてその貴族には反発しているはずだが、表立って対立することも出来ない。こうして飛び込んできても裏口から逃がしてくれるのが関の山だろう。
 だが、それがタオが望んでいることだ。ようは『銀と紫玉でできた少年』が、立ち寄った軌跡を残して行けばいいのだから。
「追われているんだな?」
 タオはこくりと頷いた。そして、通りを怯えたような瞳で眺める。今にも追っ手がそこから現れてくるのではないかというように。
「よし、こっちだ。裏口からお逃げ」
 店主は慌ててタオの体を店の奥に押し込めると、裏口の扉を開く。そこにはやはり細い小道があって、その先の横道を曲がると、一本外の通りに出ることができるのだ。
「さぁ、早く」
 タオは小さく礼を言うと、通りを駆け出す。また次の通りに出たら、なるべく客の多い店を選んで飛び込んでは裏口から抜け出す。そうして行く目的の場所は帝国側の門――。
 蜘蛛が張る網のように、少年が立ち寄った軌跡が残っている。追っ手がその網にかかれば、ある程度の時間は稼げる。二人のために用意した馬とラクは足が速い。騙されたと気がついて追っても、追いつくまでには時間がかかるはずだ。
「おもしれぇ」
 タオは小さく笑うと、再び横道を曲がって出た通りで、走りながら飛び込む店を物色し始めた。

第二章『星の道標』(5)

 タロンは砂漠に近い。そのため、晴れた日でも風に撒かれた小さな砂塵のせいで、遠い空の青みは霞み、どこか白けた色合いをしている。たが年に数回だけ、おそろしく晴れ渡り、青空が広がることがあった。
「マイアの見合い日――だな」
 青い空を見上げて小さくマティスが呟く。

 エクリアでは、空の神スタルナが妹マイアの行く末を案じて空から見守る日は、どんな粉塵も舞いをやめ、澄み切った空が広がるのだと、そう信じられている。 東部に海を臨むエクリアでも、砂漠に近い地域の者は海を知らない。だからこそ、滅多にない晴天の日は、海の神マイアは憧れとともに語られるのかもしれない。
 この天気だと、遠い地平までまっすぐに見渡せるだろう。いつもなら旅の吉兆だと思われる天気が、追われる立場となるとそうとも感じられない。
 ――砂漠を駆ける二筋の砂埃は、きっと遠くからでもよく見えるはずだ。
「マティス、砂漠を渡ったことはあるか?」
「――いや。僕はジルスから……砂漠側から入ったけれど、ずっと砂漠のふちを迂回して来たから」
「そうか」
 小さくフォルマティオはため息をつく。
 ヴァイア側の門から伸びる道は最初は1本だが、途中で幾筋かに分かれる。その多くは小さな村々を経てヴァイアへの公道に至る網の目のような道だ。北に向かい、砂漠に至る道筋はただ一本しかない。
 もともと、砂漠の町はオアシスを拠点としているため、そう複雑な道取りは必要ないのだ。目印になる石塔に町の方角と距離が刻まれ、示すとおりに石塔を目印にしながら進んでいけばいい。ある意味、『道』ですらないかもしれない。あるのは目印と星だけで、延々と広がる砂の海を渡る。 旅というよりは航海に似ている。
 フォルマティオは考え込んだ。
 一度ヴァイア側に足を向けて追っ手の目を欺くか、それとも最初から砂漠を目指すか。あるいは、ラクに乗せたマティスを砂漠に走らせ、自分がこの地に残り追っ手の足止めをするか。分かれて行動するならば、せめてマティスに砂漠を渡るための幾つかの知識だけでも与えておかなくてはならない。
「星は分かる。僕は星見を習った」
 察したのだろう、マティスは小さく笑った。
「たぶん、フォルマティオは僕をまっすぐにルナリアに向かわせるつもりだろうけれど。忘れないでね。フォルマティオは僕の仕事を請けると言った。それは僕を守るってことだからね」
 言外に一緒に行けと言っている言葉に、フォルマティオは苦笑した。
「分かっている」
 聡い――と思う。打てば響くような聡さではないが、相手の言葉の端々から考えを窺う聡さを持っている。時折見せる危ういほどの幼さと、年齢不相応の知識と、その聡さ とは、アンバランスにマティスの中に混在している。
「とりあえず、こいつはお前に預けるぞ。まだ完全に体力が戻っていないらしい。寝てばかりだから、ラクの首にでも提げておけ」
 荒い布の袋の端から、小さな尻尾が覗く。力なくぐったりと垂れたそれを撫でると、ピクリと僅かに震え、嫌がるように触れた指先を叩いた。
「マティス、聞いてもいいか。そいつは確かに炎をまとっていた、熱も感じた――だが、部屋には焦げた跡さえなかった。それは何故だ」
「本当の炎じゃないからさ」
 マティスは浅く呼吸を繰り返す小さな塊をそっと胸に抱いた。
「フォルマティオは魔道師と魔道士の違いを知ってる?」
「神殿に仕えるか否か、という違いだろう?」
 思ったとおりの答えを聞いて、マティスは苦笑した。
「そう言われているよね。確かにそういう一面もある。――でも、本当の違いはそんな表面的なことじゃない。神殿に仕える魔道師は精霊の力を借りて魔法を操る。例えば何かを燃やしたいときは、呪言を唱えて本当の炎を召喚する。神殿に仕えていない魔道士は精霊の力を使えない。彼らが使うのは魔法じゃない、魔道だ。魔道はたいてい、誰かを攻撃するために使われるよね。殺したり、自由を奪ったり、人に対して行われることが多い」
 フォルマティオは小さく首を傾げた。確かに魔道士は良くて商家などの警護にあたる用心棒か薬師、悪くすれば呪殺者だ。人を殺める技術を持つ者として蔑まれることも多い。扱う魔道の不気味さからか、同じく人を殺めることの多い傭兵よりも、職業として低く見られることすらある。
「魔道の多くはまやかしなんだよ。薬や光、音や匂いをつかって、相手に幻を見せる。燃えていると信じ込んでしまうと、人の体は本当に燃えてしまうんだ。溺れていると信じ込ませることが出来れば、砂漠の真ん中でだって人は溺れる。――強く信じてしまった心は体の全てを支配するんだ」
 マティスは自嘲気味に小さく笑った。
「僕の歌もそう。――僕の歌は魔道と魔法の中間にある。相手を殺したりは出来ないけれど、魅惑して動けなくすることくらいなら出来る。長い時間は無理だし、強い意志や使命持っている人には無理だけれど、ほんの数刻なら思い通りに人を動かすことが出来るし、刷り込み次第では操り人形のように使役することもできる。――音だから、音を感じない物には効き目がないし、効き目が現れるまでに時間がかかるけどね」
 フォルマティオは、広場で陶然となってマティスを見つめていた群衆を思い出した。うっとりと全身をマティスの音と動きに委ねて、我先にとマティスに金を差し出した群衆。――あの時、自分の意志とは関係なく弛緩してしまいそうな己を律するために、確かに自分は目を閉じ、マティスの声を意識の中から取り除こうとやっきになったのではなかったか。
「あのレナの炎は魔道か」
「炎だけじゃない。本体はいつも小さな猫のままだ。ただ、人の目には炎をまとった魔獣にも、炎の大蛇にも、美しい炎の精霊にも見える。魔道士の使う魔道なんかよりずっと強力で、相手が意識を失っていてもその魔道で支配してしまえる。そして、あの額の銀の瞳が知覚できる範囲にいる者すべてを、魔道の支配下に置く」
「相手がレナの存在に気がついていなくても?」
「フォルマティオはレナの姿を見る前に、その熱を感じたでしょう?」
 たしかに、あの時、レナの体を見る前に熱風を感じ、壁や扉を越えて炎の揺らめく影を見た。 そこに炎があるとしか思えないほどに、それは明確に炎の姿と熱を持っていた。――これは、フォルマティオ自身の実感だ。
「そうだな」
 繋ぐ言葉を見つけられず、フォルマティオは小さくため息をついた。宿から門へと、細い横道を縫うように歩きながら、フォルマティオは未だ迷っていた。この晴れ渡った空の下、砂塵を舞い上げながら砂漠を駆ける、その無謀を冒すべきなのかどうか。
「あ、来た来た」
 不意に横道から明るい声がかかり、するりとフォルマティオの前に人影が滑り出る。反射的に剣の柄にかかったフォルマティオの腕を見ながら、その小柄な影はぶるぶるとわざとらしく震えてみせる。
「おっかねぇなぁ。おいら、タオってんだ。イオスの旦那から聞いてねぇか?」
 敵意がないことを示すように両手を挙げ、明るい声そのままの無邪気な笑顔で少年が言葉を繋ぐ。たぶん、マティスよりほんの少し幼いくらいの少年だ。黄金の髪が風に揺れ、澄んだ海のように蒼い瞳がにやりと笑うと、無邪気な中にどこか生意気な色が浮かぶ。
「名前までは聞いていないが、ヴァイアの傭兵の連れとは、お前か?」
 イオスの野郎が無精しやがったな――と、拗ねたように唇を尖らせると、タオと名乗った少年はするりと着ていたマントを脱ぐ。
「そこの小屋の前にラクと馬が繋いである。馬に鞍を着けてはあるが、イオスの旦那の丈に合わせて調節してあるから、旦那にはちっと窮屈かも」
「フォルマティオだ。――分かった。先にこいつを門まで連れて行っていてくれ。馬とラクを連れて俺もすぐに行く」
 生意気そうだが、信頼はできると一目見て分かった。先に出会ったイオスもそうだが、迷いのない腹の据わった目をして他人を眺める。
「あんたはこいつを着ていった方がいい。そんな徒歩用のマントでラクに乗ってたら、見つけてくださいって言ってるようなもんだ。そんで、頭にはこいつを巻く」
 小屋の方に足を向けたフォルマティオをちらりと眺めると、タオは脱いだマントをマティスへと放った。マティスが着ていたマントを脱ぐと、零れ落ちた銀の髪を見て、ひゅうと小さく唇を鳴らした。
「いや、評判は聞いてたけどさぁ、ほんとにすげぇ銀の髪だな」
 マティスはその軽い口調に微かにむっとした顔をしてみせたが、そんなことには頓着せずに、タオは無邪気に手を伸ばす。
「すげぇ。なぁ、ちっとだけ触らせて。な、ちっとだけ」
 手が髪に掛かった瞬間、マティスは不快を顕わにしてその手を払いのけた。そして、許可もなく触れようとした無邪気な侵略者を睨みつける。
「まだ、触っていいなんて言ってない」
「ちぇ、けち。減るもんじゃないんだから、ちっとくらいいいじゃんか」
 つんと唇を尖らせて拗ねてみせて、タオは「いーッ」と歯を剥いてみせた。そして、そのあまりの様子にあっけにとられたようなマティスを眺めてにやりと人を喰った笑顔を見せた。
「あんた、そんだけ美人なんだからさ、ちっとはお愛想も覚えなよ。だいたいが、あんたみたいな美人はすましてると嫌味なヤツだと思われるんだ。にっこり笑って見せればさぁ、たいがいの人間があんたを助けてやろうと思うと思うぜ?」
「……余計なお世話」
 ぷいとそっぽを向きながらそう応えると、マティスは渡されたマントを羽織り、銀の髪を隠すようにターバンを巻き始めた。
「素直じゃないねぇ」
 ため息混じりのタオの声が聞こえて、不器用に巻かれていくターバンの端を押さえ、こぼれ出た銀の髪を押し込み始める。要らない世話だと文句を言おうとして見上げた先に、驚くほど真面目な表情を浮かべたタオの顔を見つけて、マティスは口を噤んだ。
「あんたはたぶん、すげぇ才能を持ってるんだろう。その銀の守り飾りを見ればそれは分かるし、吸い込まれそうな目を見るだけでも分かる。あんたが連れてるあの旦那――フォルマティオってんだっけ? あの旦那もすげぇ人で、あんたにはあの旦那を動かすだけのものが具わってるんだろう、だから、やっぱりあんたもすげぇんだろうって分かるよ」
 ターバンの端を巻かれた布の間に押し込んで、手に持っていた留め金でパチリと留めて、タオはふうとため息をつく。
「でも、あんたが本当にそれを分かってるのか、おいらには分からないな。あんたはたぶん、周囲を容赦なく自分の運命に巻き込んでいく。おいらも、こうして関わっている時点でたぶんあんたの運命に巻き込まれてる。でも、あんたはそれを自覚してない」
 マティスの左目を覆う銀の飾りの上にそっと薄い布を巻きながら、タオは残った片方の紫の瞳を覗き込んだ。
「おいらは信用できない? それとも、そんな簡単な判断まで、どっぷりあの旦那におんぶに抱っこで行くことにしたの?」
 見たこともないほど、澄んだ蒼い瞳を、マティスは無言で見つめた。相手が信じられるかどうか――そんな基本的な判断すらする必要がないほど、タオを見た瞬間から信用していた自分に気がついて驚く。
「触られるのは、慣れてないんだ……」
 ぽつりと拗ねたようにマティスが呟くと、とたんにタオが破顔した。
「なんだ、そうか。ごめんな?」
 呆れるほど無邪気な笑顔でそう言うと、タオは小さな袋をマティスの懐にねじ込んだ。
「門番には口裏を合わせるように言ってある。こいつは駄目押しの金だ。その別嬪な顔でにっこり笑って、出て行くときに門番の手の平に押し付けて行きな」
 おいらはタオだ――そう改めて名乗って差し出した手をマティスがおずおずと握ると、にやりと生意気に笑って、残った片手で大きく風の印を結ぶ。船乗りが旅の安全を祈る印だ。
「旅の無事を祈って――後はまかせろ」
 にやりと笑みを残して、マティスの物だったマントを頭から被ると、タオは裾を翻しながら細道を駆け去った。

December 7, 2004

第二章『星の道標』(4)

「何を見ている?」
 不意に背後からかけられた声に、マティスは驚いたように振り返った。あまり眠れていないのか、目の下に黒々と染み付いたようなクマが痛々しい。
「大丈夫か?」
 思わず口をついて出たフォルマティオの言葉に、マティスは小さく笑った。

「星を見ていただけ。フォルマティオこそ、目の調子は?」
 言葉を聞いてはじめて思い出したように、フォルマティオは急ごしらえの眼帯に触れた。
「痛みはない――と思う。ただ、グルの親父には、薬師にでも診てもらえと言われている」
「そう……」
 マティスは疲れたように顔を伏せ、傍らに死んだように眠っている少女を見つめた。
「まだ、意識は戻らないのか?」
 規則的に上下している胸以外、少女が生きていると示すものはない。丸3日眠りつづけている体は、既に僅かだが衰弱した色を見せはじめ、蒼ざめた頬に落ちる長い睫毛の陰が、黒々としている。マティスの返事を待たずとも、彼女が快方に向かっていないことは分かった。
「薬師は、薬を飲めない以上、回復は難しいと言うんだ。意識を戻す作用があるジギスの実を焚いてはいるけど、気休めみたいなものだね」
 フォルマティオは少女の蒼ざめた顔を眺め、小さくため息をついた。
「女将が人に頼んで彼女の弟を呼びに行ってもらったんだが、見つからないらしい」
 エクリアの医療は、おおよそ薬草に頼っている。東の伝説の国、ハランには薬草から抽出した効力の高い薬などもあるという話だが、僅かに流通するそれらの薬も、庶民の手の届く代物ではなかった。唯一、エクリアで高い医療技術を誇るのはルナリアだけだが、ルナリアは意識のない少女を連れて行けるほどたやすい道のりではなかった。
「――ルナリアに行く。行って、薬師を連れてくる」
 マティスは小さく絞り出すように呟いた。この数日、頑としてマイアの傍らを離れようとしなかったが、残された手段が一つしかないことを知ると、その決断は早かった。タロンから南へ下りヴァイア連邦へ入ろうとしていたマティスの旅の予定とは正反対の道筋になるが、目の前に倒れている少女を見捨てて行くことは、マティスには出来なかったのだ。マイアのただ一人の家族だという弟に彼女を託したら 、すぐこの街を出てルナリアへ急ぐつもりだった。だが、肝心の弟が見つからない。
 ルナリアまでフォルマティオについてきてくれとは言わないと、思いつめたように言葉を続けるのを、フォルマティオは小さく笑って止めた。
「馬鹿を言うな、依頼は受けたと言ったはずだ。それに、ルナリアに用事がないわけでもない」
 怪訝そうなマティスの前で、フォルマティオはそっと眼帯を外した。
「見てくれ」
 大きな傷のある頬――その上の瞳は潰れ、引きつった傷が瞼を覆っていたはずだった。黒い血を流した後、僅かに開くようになった瞼は、多少の引き攣れはあるものの今ではほとんど正常に開くことが出来ている。その瞼の奥から覗いたのは――黄色い、砂漠狼のような瞳だった。
「色が……!」
 両の目を開くと良く分かる。砂漠特有の琥珀の左眼よりも色が薄く、僅かな光を反射する獣のような右瞳。フォルマティオは眩しそうに眼を眇め、そっと瞼を閉じた。
「見えるの?」
 短い問いに、フォルマティオは軽く頭を振った。
「見える――とは、少し違う。例えばお前が目の前に指を出しても、それが何本かは分からない。だが、そこにお前が居るということは分かる。お前という『色』が見える」
「呪眼――」
「呪眼?」
 マティスが思わず漏らした呟きを、フォルマティオは聞き逃さなかった。
「この瞳を知っているのか?」
 しまったというようにマティスは一瞬瞳をそらした。だが、逃れられないことを悟ったのか、躊躇いがちに小さく頷いてみせる。
「神殿の書物に、かつてハランの森林地帯に住んでいた種族に見られる黄色の眼のことが書いてあった。マホビットと呼ばれたその種族には『呪族』を中心として集落を作っていて、『呪族』の長は、危険を回避するための『呪眼』を持っていた――と。『呪眼』では、物を見ることは出来ないが、森羅万象を色として識別し、形ではないものを見ることが出来たと言われていた」
 マティスはいったん言葉を切った。その先の言葉を言うか言うまいか、悩んでいるようにも思えた。
「呪眼はどうして出来るんだ? 生まれつきか?」
 フォルマティオの問いに散々迷った挙句、諦めたようにマティスは口を開いた。
「『菌』だ。マホビットの呪族は、半身を菌に犯されていた。眼から耳、口、鼻、指先――半身が全て菌糸で繋がっていて、普通の人間よりも小さな音を聞き、微かな匂いでも感じた。『呪族』が死ぬと、その指を食んで、次の呪族が生まれた……」
「人を食うのか」
 マティスは頷いた。
「ハランでは、今でも人を食べる。尊いものを食べると力を得ることが出来る――それがハランの教えだから」
 人を食う――そんな気味の悪いことを、マティスは平気な顔をして口に出している。それがフォルマティオには信じられなかった。エクリアの教えでは、人を食べることは禁忌だ。それは獣の所業で、人が為すことではない。
「その傷は、どこで出来たの?」
「俺は人なんて食ってないぞ」
 フォルマティオは憮然として応えた。忌々しげに閉じた瞼を擦ると、ドカリと手直にあった椅子に身を預ける。
「食べたなんて言ってない。もしも、マホビットの呪眼とその眼が同じものなら、傷から菌が入ったのかもしれないじゃない。エクリアでの呪眼の話なんて、今まで聞いたこともない。――これでも、そういう話が一番最初に入ってくる神殿の内部に居たんだ。エクリヴィアラの神殿は神殿の教えの中心、皇帝がエクリアという国の中心なら、エクリヴィアラの神殿はエクリアの心の中心。神殿は異端を許さない。だから、神殿はハランの船をエクリアに着けさせない」
 マティスの口調は激しかった。
「エクリアは見えない壁に覆われている。エクリアの民は世界を知らない。ハランの持つ、さまざまな技術を知らない。馬を駆け、小船を駆ることができる場所だけが、世界だと思っている」
「お前は知っているとでも言うのか?」
「――知らない。僕は、もっと知らない……」
 マティスは唇を振るわせた。
「フォルマティオ――。僕は、神殿を出るまで、餓えて死ぬ人が居ることなど知らなかったし、食べ物を得るためには金が必要なことも知らなかったよ。何かを貰うには、こちらも何かを払わなくてはならないのだということさえ知らなかったし、違う言葉を話す人が居ることも知らなかった」
 マティスは視線から逃げるように、フォルマティオに背を向けた。
「本当に、僕は何にも知らないんだ。親も、生まれた日も、与えられたはずの本当の名前も。どうすれば、マイアを助けてやることが出来るのかだって」
 細いマティスの肩が揺れていた。
「僕は世界を知らなければならないのだと思う」
 泣いているかと思ったフォルマティオの予想に反して、振り返ったマティスの顔はどこか決然としていた。
「なぜ僕が『器』なのかとか、どうしてこんな体なのかとか、そんな、考えてみてもしょうがないことに思い悩むのではなくて、いま僕に出来ることは何なのかとか、これからのために何を身につけ、知らなければならないのかとか――。今までのように逃げるのではなくて、求めるために進まなくてはならないし、進むために求めなければならないんじゃないかと思う」
 フォルマティオは銀で彩られたマティスの顔を眺めた。昂揚し紅潮した頬に合わせ、紫玉の瞳は鮮やかにその色を増し、少女めいた顔立ちの中に強い意志が見え始めている。この三日間考え続けていたのだろう、決然とした意志に揺らぎはなかった。
「ルナリアで薬師を求めたら、そのまま砂漠に下りて『砂漠の星』を探す。人かもしれない、物かもしれない、場所かもしれないし、真実、それは星かもしれない。そんなことすら分からないけれど」
 マティスは言葉を切り、気遣わしげにマイアの顔を眺めた。
「弟が見つからないのなら、女将にお願いする。金なら、どれだけでも都合する」
「そんなものは要らないよ」
 小さく扉が開いて、温かなスープを盆に乗せた女将がそっと部屋に滑り込んだ。
「ごめんね、話が聞こえてしまってね」
 アザラは盆の上のスープをテーブルに置くと、小さくため息をついた。
「マイアは良く働いてくれた。とうとういい男にめぐり合えずに子供を生む機会を失った私にとっては、実の子供のように思えるときだってある。本当は客だってとらせたくなかった。でも、この子はさせてくれないなら、この町を出るとまで言ったんだよ。そんなことで自分は変わらない――ってね」
 強い子なんだと、アザラは続けた。
「私を見くびってもらっては困るね。金なんか要らない。ただ、一つだけ約束して欲しいことがある」
 アザラは真っ直ぐにマティスを見た。
「すぐにこの町を出なさい。さっき隣小路の宿から連絡があって、マティス、人相の悪い剣士があんたを探しているらしいよ。宿をしらみつぶしに探しているようで、きっともうじきここにもやってくる。出て行った後は私が何とかする」
「大丈夫なのか? 女将」
 フォルマティオの声にアザラは笑った。
「私はこのカナリの家の女主人だよ。フォルマティオは忘れたの? 初めてあなたがこの町に来たとき、私は敵討ちに敗れた剣士を匿っていた。追手はここにも押し寄せたけれど、私は彼を守り通した。この家に居る限り、私はけして何にも負けない。――けれど、今回は相手が悪い。いかに悪人でも相手が貴族じゃ、ここにマティスが居たら、私ではきっと匿いきれない。――それに、ルナリアから薬師を呼ぶのなら、早い方がいい」
 フォルマティオはゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋の片隅に置いていた袋を開いた。中からいくつかの装備を取り出してマティスの方に投げた。
「体には合うはずだ。この数日で用意しておいた」
 なめした皮で出来た手甲を眺めて、マティスは困ったような顔をした。――つけたことがないのだ。
「女将、馬と――ラクを。あと食料と水も頼む」
 フォルマティオはマティスを立たせると、皮の手甲を手首に巻いてやり、左手にだけその上に数本の細身の手剣を巻き込みながら包帯を巻いた。足首にも同じように皮を巻くと、短い胴衣の上から、太いベルトを斜めに締めさせ、短いレイピアを下げさせた。
「剣は使えるか?」
「少しなら」
「ラクには乗れるか?」
「ラク?」
「砂漠トリ馬のことだ。砂漠の砂を駆けるには、ラクに乗るのが一番いい。体がでかいと無理だから、俺は普通の馬に乗るがな。馬とはスピードも違うし、なにより水をあまり必要としない」
 マティスは少し考え込み、たぶんと応えた。
「 ラクには普通、鞍を付けない。体重を前にかけてやれば走り出し、両の羽の付け根を強く持って後ろに体重をかければ止まる。誰かが襲いかかってきても、お前は迷わずただ走れ。水の在り処はラクが知っている」
 ただひたすら砂漠の果てに見える山を目指せば、そこがルナリアだと、フォルマティオは続けた。
「フォルマティオはどうするの?」
 マティスの問いかけにフォルマティオは笑った。
「もう、十年以上離れてはいるが、砂漠の真ん中で育った俺にとって、砂漠は庭だ。隠れるための穴も、水場も全て知っているさ」
 階下から聞こえるアザラの声に応えて、フォルマティオは慌しく装備を片付けようとした。
「それは、俺が何とかするよ、旦那」
 いつから居たのか、長身の傭兵らしい男が扉の前に立っていた。
「アザラさんには一飯の恩があってね。俺、旦那の替え玉」
 ヴァイア特有の黒い瞳が愉快そうに揺れた。だが、髪は焦げたような暗い土色だ。
「俺ならその子の兄だと言っても誰も疑わないし、旦那と背格好も似てる。――まぁ、横はちっと細いがね」
 男はフォルマティオの袋を引き寄せると、わざと机の上に中身を引き出した。
「男達が入ってくる。旦那と背格好は似ているが明らかに違う男が、病の妹のために装備を売ろうかと逡巡している――奴らは焦っている。俺に聞くかもしれない『奴は何処だ』と。俺は応える。そいつら、俺がヴァイアへの通行証を売った奴らかもしれない――」
 男はフォルマティオにヴァイアへの通行証を渡した。
「ヴァイア側の門の近くの小屋に、俺の連れがいる。ハランの船乗りでいかさまが得意だ。馬とラクは奴が用意している。その通行証を見せれば、あとは奴がうまくやってくれるだろうさ」
 行きなと、男が顎をしゃくった。
「すまない。恩にきる――」
「イオスだ。ヴァイアのイオス」
 人を食ったような笑顔でイオスは笑って見せた。

第二章『星の道標』(3)

 目の前に横たわる白い物体が、自分が今まで尊敬し敬愛してきたクラウスの姿なのだと、トーマにはどうしても思う事が出来なかった。その白い布の中には自分の切り取られた両腕も入っているはずなのだが、それすら信じられず、逆に今となっては自分の両腕がかつてあったのかどうかさえ、曖昧な記憶のように思われた。

「グラカイエのエグノアさまがみえました」
 先触れの声に先導されて、儀式の間に男が一人入ってきた。背の高い影は一瞬チラリと白い布の上に視線を走らせたが、何事もなかったかのように先触れに導かれた場所に立った。
 砂漠のほぼ中央に位置するグラカイエは砂漠で最大の都市だ。数百年前、砂漠の流浪の民が街を開拓した。エグノアはその時のリーダー的な存在で、それ以降直系の子供がグラカイエを治めている。長の名は常にエグノア、次男はグラディスと名付けられる。
 ――グラディス・デ・シャトリ・アルドラ。
 トーマは心の中で呟いた。
 次男に偉大なる星見グラディスと同じ名前を付けるのは、もともと開拓の祖エグノアと偉大なる星見グラディスは兄弟だったからだという。現在でもグラカイエとこのルナリアは 、同胞として多くの行事を共有していた。
 ルナリアの民は星の奴隷だ。星見の能力のために多くを犠牲にする。グラカイエから毎月多量に運び込まれる物資がなければ、ルナリアは機能しない。ルナリアはエクリア帝国に支配されながら、実質的にはグラカイエに依存して生きている。ルナリアそのものが砂漠から帝国へ差し出しされた生贄そのものなのだ。
 数百年前に存在し、現在のエクリア帝国の礎の一人ともなったグラディスという星見は、ルナリアで生まれたといわれている。美しい少年で、既に10の時に星見の才能を開花させ、エクリアに渡ったのは12の時、その後はエクリアの最大の神殿、エクリヴィアラを祭る神殿に使え、影ながら国王に助言し、エクリアの帝政を今の形に発展させたと言われる。
 ――その者は白き鍵なり。碧玉の王の足元に臥し乾き逝く大地に恵みを運ぶ白き鍵なり。あるいは、碧玉を紅玉と換えこの大地に戦火を走らせる白き鍵なり。
 目の前の水をなみなみと湛えた占盆の底に刻まれたこの文章は、白子であったグラディスに捧げられた星見の言葉だという。幼い頃にこの言葉を聞いたとき、前半の言葉の意味は、彼がルナリアからエクリアに赴く最中に、5日間もの長い間、雨が降り続き、その雨が恵みになってグラカイエの街が成立したことを謳っているのだと教えられた。だが、後半の言葉の意味については何も教えてはもらえなかった。
 グラディスの魂は生きているのだと言う。エクリアの神殿のどこかで、何人もの人の体を入れ物にして、鍵となるその日まで、グラディスは死なないのだと。
 トーマは占盆の底を見つめて小さく震えた。
 ――人の体を入れ物にして生きるなんて……。
 ふわりと顔の前にかかった、色素のなくなった自分の髪を見て、トーマは一瞬唇を歪めた。トーマの髪は日の光に輝く褐色の髪だった。――そう、ほんの数日前までは。
 周囲の少年たちよりほんの少しだけ色は薄かったものの、砂漠の民らしい美しい砂色の髪だった。だが、腕を切り取られ、ゲダの幻から解放されたトーマの目に入ったものは、すっかり色素が抜け、老人のようになった己の白髪だった。人は恐ろしい体験をすると、一夜にして白髪になるという。だが、己の身に起こってさえ、それが信じられない。
 ――白い鍵……。
 白髪になった自分の姿を見て、思わず周囲の老人たちが漏らした呟きを、トーマは愕然として聞いていた。
 白い鍵――。エクリアで白髪が――年老いて逝った者達でさえ、幾分か金の含まれた髪をしており、白髪となるものは稀だったのだ――生まれたのは、遠く伝説にさえなってしまったグラディス以来だった。では、自分 はグラディスの器なのか。器となるためにクラウスに選ばれ、腕をもがれ、髪の色さえ奪われたのか。
 密やかな、誰に打ち明ける事も出来ない恐怖が、トーマを包んでいた。クラウスのためにあてがわれた部屋は質素で素朴でありながら、聖民に相応しい家具が備えられており、柔らかな夜具や呼べばすぐに身の回りの世話をしてくれる数人の人手もあったが、悲しみを打ち明ける友もおらず、背中を支えてくれる父もいなかった。全ては変わってしまったのだと、トーマはただ必死に自分に言い聞かせた。

「クラウスさま、もう、お休みでございましょうか」
 不意に扉の外からかけられた声に、トーマは心臓を掴まれた心地がした。まだ『クラウス』という名には慣れておらず、また、そのような丁寧な言葉にも慣れてはいなかった。
「起きています。何でしょう」
 ようやくそうとだけ答えて、トーマは慌てて泣きそうになっていた鼻をすすった。星見用の水盆に顔を映して、どうやら泣いていたとは分からないだろうと確認すると、ようやく安心してそっと扉の方へ歩み寄った。
「グラカイエのエグノアさまが、ご挨拶に見えておられます」
 一瞬、トーマは迷った。迷ったところで、自分に拒絶できようはずがないことは分かりきっていたが、それでも心に生じた逡巡は、おそらく恐怖に近いものが含まれていただろう。だが、それは ほんの一瞬のことだった。
「お通しして」
 トーマの言葉を待って開かれた扉の先に、儀式の時に遠くから見つめた背の高い男が立っていた。儀式の時には月の光の中でのこと、その容貌を窺い知ることは出来なかったが、今、蝋燭の明かりに照らされているその顔は、確かに北方のゼアダの血を感じさせる彫りの深い顔立ちだった。
「夜分遅くに申し訳ない。到着が遅れ、正式なご挨拶をせぬまま儀式に参加する事になっただけでも申し訳ないのに、私もグラカイエの長、明日の夕刻にはルナリアを後にせねばならないのです」
 エグノアの声は優しい。彼は部屋に足を踏み入れる前に深く、砂漠の正式の礼をした。
「お止めください。このような若輩の私に頭を下げられるなど。どうぞ、お入りになって……」
 多少突っかかりながらもトーマは何とか口上を述べた。儀式の段取りを覚えこまされる合間に、ようやく教えてもらった敬語だった。本来、このような言葉は成人の儀式を終えてからおいおい教えてもらえるもので、必死に覚えた僅かな言葉さえ、トーマは満足に発音できているとは言い難 い。エグノアがこの言葉を不快に思っていはしないかと、トーマは上目遣いでエグノアを見上げた。予想に反して、そっと室内に足を踏み込んだエグノアの顔に浮かんでいたのは、優しげな――彼のような屈強な男が見せるとは到底思えないほどの優しげな、笑顔だった。
「無理をするな。お前の言葉で話せばいい」
 不意にくだけた優しい言葉と共に、その大きな手が頬に当てられると、トーマはその指先の熱さに激しく悲しみが込上げた。
「う……」
 両の目から転がり落ちた大粒の涙に必死で顔を歪ませ、それでも扉の先で控えているだろう村の者に聞こえないように、トーマは声を押し殺した。エグノアはトーマの声が漏れぬように、そっと自分の体の傍に抱き寄せた。この数日の出来事によって激しく消耗した少年の体は細く、しゃくりあげるたびに痙攣するように震える白髪が、糸のようにエグノアの指に絡んだ。
「砂漠の男は泣いてはいけない……」
 ひとしきり泣いて、ようやくトーマが落ち着きを取り戻してくると、エグノアは抱きしめていた両手を緩めて、そっと少年の体を椅子に座らせた。自分はそのまま中腰になり、ひざまずくようにしてトーマと目線を合わせた。
「まだ、成人の儀式を済ませていないお前が影贄となったために、リダヤ(足をもがれた者)にお前の星親になってくれるように頼まれたのだ。聖民となったお前は既に肉親との縁が切られている。だが、成人の儀式では親がお前に星の恵みである宝玉を贈らなければならないからな。聖民は人の親となることは出来ないからと、リダヤは悩まれていた。グラカイエはルナリアの兄だから、お前の星親には俺がなろう」
 トーマは自分の目線の先にある、琥珀色の瞳を見つめた。
「とは言え、お前は明日から成人と同じように星見に加わらなければならない身だ。運良く、俺は今、このルナリアに所縁のある宝玉を身につけている。旅立つ前にそれをお前に渡そう。耳飾にはなっていないから、あとで、細工職にでも作り変えてもらえばいい」
 エグノアはそっと自分の首から二本の鎖を外した。その先には、紅い宝玉を抱いた銀の蛇と碧い宝玉を抱いた銀の蠍が光っている。
「これは、グラディスが持っていたといわれている鎖だ。縁あって、先代から受け継がれたものだが、グラカイエの民よりお前にこそ相応しいだろう」
 エグノアは二本のうち赤い蛇の宝玉をトーマの首にかけた。
「強くなれ」
 またうっすらと涙が浮かび始めたトーマを見つめると、エグノアは短くそう呟いて、その頬を撫でた。
 ――紅い、瞳だ。
 エグノアは、リダヤから聞いていたその事実を前にして、微かに胸の痛みを覚えた。
 クラウスに選ばれたトーマの色素が、おそらくはその幼い体には耐え切れぬほどの傷とゲダの効果によって、一夜にして奪われてしまったのだと、リダヤは声を震わせた。もともとトーマは色素の薄い子ではあった。北方ゼアダの血が濃いのか、トーマの家系には時に碧眼が生まれることもあったという。トーマ自身、砂漠の琥珀にはわずかに薄い、黄金のような瞳だった。しかし、いまのトーマの瞳は、その薄い色の虹彩の下、明らかな血の色が微かに斑になったかのように浮き出ている。
 ――色素の薄いものは、神の器と呼ばれます。かつての偉大なる星見グラディスも、星見にして神の器でございました。器のものは、神殿で守られねばなりません。しかし、かの者はクラウス、このルナリアの地で神に捧げられた者。私どもはどうしたらよいのでしょうか。
 どうしたらもなにも――。エグノアは苦々しく唇をかみ締めた。
 一番大事なのは、未来と腕と色素を奪われなければならなかったこの少年の苦痛を、誰かが拭い去ってやることではないのか。
 表情を硬くしたエグノアの顔を、トーマが不安そうに見つめた。
「大丈夫だ」
 エグノアは自らの胸の思いがト-マを苦しめぬよう、その視線を削ぐように、微かに震えている細い体を抱きしめた。

第二章『星の道標』(2)

 ここ、ルナリアはかつては星見の聖地だった。砂漠の北の端にあり、高い岩山に囲まれた痩せた土地では作物が育たず、生活物資のほとんどを麓のクラヤから運ばれてくるもので賄っていた。まだ現在のエクリア帝国が東方の小国で、盛んに周囲の国を併合していっていた時代に、エクリアの王は星見に政の多くを担わせていた。初めて侵略していく土地についてその気候や特性を占わせ、侵略した土地にはすぐに神殿と星見宿を建設した。その時期にはルナリアから毎年のように多くの星見がエクリアの神殿に売られていった。

 ――だが、それも過去の話となった。各地に建設された星見宿で後継の星見が育てられるようになると、ルナリアは実質的な星見の供給地としてよりも、『聖なる場所』という意味合いを強調されるようになる。その最たるものが『影贄』と呼ばれる神への生贄だった。
 エクリア帝国民の多くが信じるエクリア教では、太陽が崇められ、その光が形作る影の中には邪なるものが潜んでいると信じられていた。『影』とは『穢れ』でもあったのだ。帝王は太陽の化身になるために自らの影を消滅させなければならない。そのために、王の影をその身に受け止めるために『影贄』は神殿に祭られた。
 王の瞳に邪なものが映らぬように一人は瞳を潰され、王に魔の手が伸びないように一人は手をもがれ、王が魔に取り込まれないように一人は足をもがれ、王に呪いがかけられぬように一人は喉を潰され、邪な考えを吹き込まれぬように一人は耳を潰された。
 ルナリアは今や、生贄の村なのだった。

 影贄の一人が死ぬとその夜に星見が行われ後継者が選ばれる。次の夜、後継者は失われるべき部位をその父の手で切り取られ、翌日の葬儀の際にその部位は一緒に埋葬された。人は死ぬと星の御許に行くのだとルナリアでは信じられていた。神の山と名付けられた埋葬の場には人が横たわれるほどの巨大な岩があり、白い衣に全身を包まれて横たえられた体は、肉と共に魂も鳥に啄ばまれて星の御許へ帰っていくのだ。星の御許に帰るためには全ての体の部位が必要だった。不運にも事故で体を欠いた者のために、時には練り粉に獣の血を練り込んで、欠損した部位を形作って一緒に埋葬した。
 エクリアの神殿に多くの星見を輩出しながらもルナリアでこの星を崇める教えを失わなかったのは、ルナリアの民がもともと砂漠の民だったからなのだろう。砂漠の民にとって夜の星は命の道標といってもいい。砂漠と高原、住む場所を長く分たれ、既に骨格や肌の色さえも異なってきている砂漠とルナリアの民は、自らを星の民(シャトラン)と呼び続ける限りやはり血の繋がった同胞なのだ。そしてこの影贄の葬儀は、その同胞が集う数少ない機会の一つでもあった。

 シャトアの一番星が天空に輝く頃、クラウスの死去の知らせを受けたグラカイエの長はルナリアからの使いと共に砂漠をひた駆け、ようやく麓のクラヤに辿り着いていた。ルナリアは砂漠と違い強い日差しで命を削られる事がないので比較的長命ではあったが、影贄となった民の命はそう長くはない。その中ではクラウスは長く生きた方だった。――いや、もう先代のクラウスと呼ぶべきなのだろう、きっとルナリアでは新たなクラウスが選ばれ、その両腕を切り落とされているであろうから。馬を休ませるためにクラヤで足を止めてエグノアはぼんやりとそんなことを考えながら空を見上げた。
 エグノアは屈強な男だった。グラカイエを拓いた砂漠の民の直系である彼は、砂漠の民にしては珍しいほどの長身を誇る。もともと北方のゼアダの血を引いているらしく、どんなに砂漠の民との混血が進んでも、その長身と彫りの深い顔立ちは色濃く受け継がれていた。
「一応、儀式の前までには間に合いそうだな……」
 呟くように傍らの使いに語りかけると、使いの若い男は空を見上げた。南の空にはシャトアの一番星。東の空に姿を見せ始めた月がちょうど天空の中央に掛かるとき、葬儀ははじめられると決まっていた。クラヤから馬をとばせば3刻ほどでルナリアに至る。ちょうど儀式が始る頃にルナリアに付く事になるだろう。
「今度のクラウスはどんな者なのだろうな……」
 エグノアはため息をついた。影贄の制度をエグノア自身は快く思ってはいない。星の民にとって体の一部を欠くということは、神の愛を受けられないことと等しい。確かにエクリアの宗教とこの砂漠の信仰は違うものだということは理解できるのだが、影贄という制度を未だに行っているエクリアという国は、様々な技術が進んでいるわりに精神的にはまだまだ未開の国なのではないかとさえ考えたりした。
「年老いたものならいいのですが……」
 独り言のように使いの者が呟くと、エグノアはため息を吐きながら小さく首を振った。
「確かに、3年前のエラン(瞳を潰されたもの)の継承のときは酷かったな。まだ成人して間もない少年だったろう?」
「15でした。――特にルナリアではあまり見られない蒼眼の瞳の美しい少年だったので、村中が怒りに似た悲しみに包まれました……」
「そうだったのか……」
 3年前にエグノアが辿り着いた時には既に少年の瞳は抉られ、はっとするほどに白い包帯が瞳の部分を覆っていた。少年は気丈なほど落ち着いていたが、音がすると反射的に見えぬ顔をそちらに向けるのが痛々しかった。
「彼は元気か?」
 使いの者は不思議そうにエグノアを見上げた。
「はい。聖民となったエランは、毎日努めを果たされ、特に先代のクラウスの病床では、毎日、手厚い看護を続けておられました」
 砂漠の民の瞳は砂に煙る砂漠と同じ色をしている。ルナリアに時として蒼眼が生まれるのは、北方に面しているため比較的ゼアダの民との混血が進んでいるためだった。砂漠の熱波が届かないルナリアでは、色素が薄くても永らえる事ができる。ルナリアでは混血が進んでいるのでそう多くはないが、血の凝縮が起こりつつある砂漠では近年白子が多くなった。砂漠で過ごす白子の命は長くはなかった。
「さて、先を急ぐか……」
 エグノアは馬に飛び乗ると、ゆっくりと空に上っていく月を見上げた。
「ハイヤ!」
 馬を追う声をあげると、二つの人馬の影は山へと続く大きく蛇行した道を駆け上り始めた。

 ルナリアに入ると、すぐに神殿へと向かった。神殿は禁足地の隣にあり、星を見るための天文テラスと水を湛えた大きな占盆が設置されている。この占盆に月が映った時、それが葬儀の始まりの合図だった。
「グラカイエのエグノアさまがみえました」
 先触れの声に先導されるようにしてエグノアが神殿の門をくぐると、外で儀式を待つ村人がいっせいにエグノアを見た。どこか重苦しいその雰囲気は、どこか不穏なものを感じる。エグノアは使いの手で開けられた扉をくぐり、占盆の前に進み出た。
 占盆の周りには影贄の4人とルナリアの村長が座り、エグノアの正面に死んだ先代クラウスの体、更にその先に新たなクラウスが椅子に座っていた。
「長い道をよくおいでくださった同胞よ……」
 エグノアは自分のために用意された椅子に座ると、未だ薄暗い室内のせいでよく見えないクラウスの姿に目を凝らした。
「月が魂を安らぎへと導いてくれるでしょう。クラウスよ最後の別れを……」
「はい……」
 暗がりから聞こえた声は痛々しいほどに細く幼かった。ゆっくりとその影は立ち上がり、占盆の前に進み出た。占盆に射す月の光がぼんやりとその姿を照らし出し、エグノアは思わず漏れそうになった声を飲み込んだ。
 ことさら華奢に見える体は肩から先がないからなのだろう。すっぽりと全身を覆う白い衣は、実際よりもずっと少年を幼く見せた。少女だといっても通るような幼い顔に鮮やかに琥珀の瞳。星見の能力を得るために長く伸ばした髪は、白髪だ。
「星の御許に旅立たれる、偉大なわが先達よ。その姿に我がどんなに励まされ、その言葉にどんなに勇気づけられたことでしょうか……」
 異様なほど静かな声にエグノアは怒りに似た悲しみを覚えた。少年の瞳はこれ以上ないほど落ち着いている。それは運命を甘受したというにはあまりに痛々しい。少年の両耳に成人の証の玉飾りが見えないのを見て、少年の言葉を追うように唱和しながら、エグノアは目を閉じた。
 ――まだ、成人すらしていない子供が、影贄だとは……。
 占盆に浮かぶ月に、少年の震えるような声が響いていた。エグノアはその月をただ睨み据えていた。

第二章『星の道標』(1)

 紫煙の漂う中、微かに呻き声が響いた。くぐもったそれは、長く苦しげに響き、一瞬の後、ゴトリと何かが床に落ちる音が響いた。
「トーマ……。許せ……」
 涙声の小さな囁きが闇に落ちると、一瞬、星の光にキラリとナイフの切っ先が光った。

「何故お前が選ばれたのか……。何故、お前がクラウスに選ばれてしまったのか……」
 幾度もそんな問いかけを繰り返しながら、代われるものなら代わりたいと、その声は続けた。
「まだ、12だぞ。成人の儀式も済ませてはいないのに……。恋も夢も、まだ知りはしないのに……」
 ガサリと木々を揺らして風が吹き、ゆっくりと月を覆う雲を散らした。冴え冴えと輝く月の光の中に、少年が1人死んだように横たわっており、その隣には少年の肩から染み出している紅い血溜りと、まっすぐに整えられた、いま切り落とされたばかりの少年の両腕が置かれていた。
 男はそっと血の気のなくなった少年の腕を握り締めるとゆっくりとそれを油紙に包んだ。
「トーマ、父を憎め……。どうか、父を憎んでくれ……」
 少年は死んだように眠りつづけていた。紫煙の中に紛れたゲダの妙香が、少年の意識を遥か夢の彼方に奪い去っているが、目覚めた瞬間に、少年は現実を知る。
 少年は贄に選ばれたのだ。神に捧げられる聖なる影贄の1人に選ばれたのだ。
 男は逃げるように包みを抱えたままその場を去った。
 月の光の中で、少年は死んだように眠りつづけていた。その横顔には微笑みさえ浮かんでいた。
 天高く輝く星はただ、無機質に少年を照らす。止血された傷口からそれでもゆっくりと染み出してくる血は、鮮やかに紅かった。

「終わったか……」
 人目を忍ぶようにして部屋に入ってきた男の、手にしっかりと握り締められている包みを目にして、年老いた人影がゆっくりと尋ねた。老人は椅子に体を預けていたが、その太腿から下には足がない。
「はい……。ゲダで良く眠って……」
 男の声は掠れた。
「トーマは一人息子……。辛い役目を良く果たしてくれました……」
 囁くような声が男の耳を打つ。優しげな風貌の線の細い男の瞳は真横に走る大きな傷によって潰され、おそらく真昼の太陽の中でさえ、深い闇の中に居ることは容易に想像することができる。
 ゆらゆらと揺れる炎に照らされて、数人の人影が、少年の切り落とされたばかりの両腕を悲しげな瞳で見つめた。
「トーマの傍に居てやりなさい。明日からはもう、トーマはクラウスとなり、貴方の息子ではなくなってしまうのだから……」
 男は首を振った。
「ダメです。私には両手のない息子を正視できません。この両手を切り落とす時、私はあの子の父であることを既に諦めたのです……。どうか、許してください……」
 男の言葉は、最後には悲痛な叫びに変わった。それ以上、誰も言葉を発することはなく、ただ、男のすすり泣く声だけが響いた。月だけが冴え冴えと大地を照らしていた。


 痺れるような痛みが指先に走ったように思った。少年はゆっくりと瞳を開き、微かに鼻をくすぐる生臭い匂いと、緩やかに溶解していく視界に眉をひそめた。暗い色の天井は横から射してくる朝の光に鮮やかな光と影のコントラストを作っている。一瞬どこに居るのか分らなくなった少年は、その天井に見慣れない護符が掛けてあるのを見て、初めてそこが儀式の間であることを思い出した。
 ――確か、父さんに儀式の間で待つように言われていて……。そのまま、眠ってしまった……?
 少年は微かに頭を振った。昨夜の記憶さえおぼつかないほど、少年は疲弊し、微かに寒気さえ覚えていた。
 ――指が痛い……。
 少年はゆっくりと両手を顔の前に持ってこようとした。微かに肩に走る痛みとなんとも言えない違和感が少年の不安を煽った。
 ――僕の、両手……?
 急に何かに気がついたように少年は自らの肩を見つめた。血の滲んだその先に少年の腕はなかった。
 ――クラウス!
 少年の顔はみるみる蒼褪め、小さく唇が震えた。何度も瞬きを繰り返し、丹念にすっぱりと腕を切り落とされた肩を見つめる。だが、何度祈っても少年の両腕は戻っては来なかった。ゆっくりと少年の眦に涙が浮かんだ。悲鳴さえあげることなく、少年は静かに涙を流した。
 ――父を憎め……。
 夢だと思っていたあの父の言葉は、現で漏れ聞いたものだったのだろう。村の神殿に傅かれる影贄を少年は尊敬と畏怖の念をもって見つめていたが、一度たりともその運命が自分に降りかかってくるなどと思ったことはなかったのだ。
 少年は影贄となった。星見で定められる影贄の宿命をこの村のものは誰も変えることが出来ない。神に捧げられた影贄は5人。一人は瞳を潰され、一人は喉を潰され、一人は耳を潰され、一人は足をもがれ、そして一人は腕をもがれる。体の一部を神に捧げることで、全ての災厄から村と神殿と、そして皇帝を守る人柱となるのだ。影贄は神殿で一生を過ごし、死を迎えると次の夜には星見が開かれ、代わりの新たな影贄が選ばれる。
 昨日の朝、年老いたクラウス(腕をもがれたもの)が病で息を引き取ると、夕刻には星見が開かれた。まだ、成人ではない少年は星見に加わることは許されず、神殿で父も見上げているだろう空を見上げて漠然とした不安に心を曇らせていた。翌日、自らの身にこんな運命が待っていようとも知らずに。
 ――トーマ……。
 名を呼ばれたような気がして、少年は天井を見上げた。そして、諦めたように目を閉じた。
 もう、今までの名で呼ばれるはずがないのだ。
 チリチリと焼けるように指先が痛む気がした。切り落とされ、既にそこに指はないのに、確かに少年の指は焼けるように少年の心を痛めた。
 少年は目を閉じ、自分の腕を思い出そうとした。しかし、昨日まで当たり前に目の前にあったそれを明確に思い出すことは出来なかった。ただ、閉じた瞼の裏に天井に差し込む明るい日差しの作った斑紋だけが、不可思議な紋様となって少年の視界を彩っていた。

「……トーマ」
 トーマは瞼を開いた。ゆっくりと頭を動かすと、逆光になった扉の向こうに呆然と立ち尽くした友の姿を見る。表情は伺えないが、立ち尽くしたまま声も出せずにいるその様子で、どんな顔をしているのか位は想像がついた。
「イザイ……?」
 問いかけるように呟くと、不意にイザイは走りより、床に横たわったままのトーマの隣に崩れるように座り込んだ。
「酷いよ……。どうして、こんな……」
 イザイの顔は怒りと悲しみで歪んでいた。イザイの少年らしい悲しみと悔しさの浮かんだ顔を見ていると、不意にトーマの心は凪の湖のように冷めた。もう、自分にはこんな風に誰かを哀れむことなど許されないのだと悟ったからだ。悲しみや苦しみより先に、諦めがトーマの心を支配した。
「どうして……」
 なおも悔しさを吐露するイザイに、トーマは優しく語りかけた。
「星見の結果なんだろう? 僕は、選ばれてしまったんだね……」
 一瞬呆然としたイザイは、不意に顔をゆがめて大粒の涙をこぼした。
「だって、だってトーマ。成人の儀式をどちらが先に行うか、競争しようと言ったのは君なのに……」
 目覚めて半刻しか過ぎてはいないのに、既に全ては遠い過去の話ででもあるかのように思った。すすり泣くイザイの声を聞きながら、トーマは光が移っていく天井を見上げた。ただ、腕がないという事だけで、こんなにも世界が一変するなどとは思わなかった。
 3年前、先代のエラン(瞳を潰されたもの)が永眠した後に現在のエランが選ばれたとき、一夜にして豹変した村人の態度と鮮やかなほど白い包帯で瞳の部分を覆われた細い容貌がトーマには信じられなかった。彼の優しい湖のような青い瞳はもうそこにはないのだと教えられても、実際に傷口が露わにされるまでは、それが本当に自分を良く可愛がってくれた優しい従兄だとは思えなかったのだ。彼も同じ苦しみを味わったのだろうか。この、恐ろしいほどの喪失感。既に聖なる者と崇められることだけが自分を支えることになるだろうと確信さえしていた。他に、何も自分を支えるものなどないのだ。
「もう、泣くなよイザイ……。早く自分の家に帰らないと、見つかると叱られるよ。ここはいつもは入っちゃいけない場所だから」
 そうだ。入ってはならないはずの場所に呼び出されたときに、きっと心のどこかではこれからのことを理解していたのだ。いつも以上に優しい父の掌を感じたときに、たぶん、これからの自分のことも。
 トーマは微かに笑うと、瞳を閉じた。ジリジリと焼くような痛みが体を襲った。視界の歪みが消えるにつれ痛みは増していく。きっと薬が切れようとしているのだろう。
 閉じた瞼に、イザイの指がそっと置かれ、ゆっくりと汗ばんだ額をイザイが袖口で拭いた。両手がトーマの頭を抱き、トーマは嫌というほどその10本の指の優しい感触を感じとった。
「さよなら……」
 囁くような声にトーマは応えなかった。ただ、不自然なほど凪いだ心のなかで、何かが軋んだ音を立てて崩れていった。もう二度と、誰かを抱くこともない。神に差し出された両手は、二度と人を抱くことなどありえないのだ。
 走り去っていく足音を聞きながら、トーマはゆっくりと暗い闇の中に落ちていった。ゲダの余韻が瞼の裏に美しい緋色の夕焼けを映し出していた。

December 6, 2004

第一章『真実の扉』 (8)

 とにかく小壜は預けると言い残して、グルは店に帰った。せっかくだから女将の料理でも食べていけばいいと言ったのだが、妙な胸騒ぎがしてならないからと言い、グルは足早に背を向けた。いつものようににやりと唇の片端を持ち上げて、この勘だけが自分を助けてきたんだとグルは笑って見せたが、その瞳はけして笑ってはいなかった。
 倒れ臥したマイアはマティスの部屋に運び込み、レナはフォルマティオが預かった。

 浅く呼吸を繰り返しているレナの小さな柔らかな腹に手を当てると、ふわふわの滑るような感触の毛がその体温の温かさを伝えた。どこから見てもちいさな子猫だ。先刻、この目ではっきりとその本来の姿を見ていながらも、それを信じることが出来ない。
 フォルマティオはそっとレナの額を弄る。確かに縦に一筋、瞳の痕らしきものはある。だが、それはしっかりと塞がれていて、開くことは出来ない。
 炎の鬣を振り乱し、額の銀色の瞳に澄んだ英知の光さえ湛えて、頭に直接語りかける声で話した――魔獣。不意にレナが来て以来、レナを人扱いして子供のようだと感じていたマティスの態度に思い至り、フォルマティオは身震いした。マティスは最初にこの子猫を見た瞬間からその性質を見抜き、おそらくは自らの言霊の使い手としたのだろう。ゾクリと悪寒が走った。マティスの持つ言霊の力、そしてレナの持つ魔力――その巨大さは既に人という範疇から外れている。
 フォルマティオはレナに触れていた手をゆっくりと上げ、まだかすかに違和感の残る右眼に触れた。流れた血は真っ黒だった。痛みはもうないが、ふとしたときに灼熱感が起こる。その傷の痛みよりも、未だに完全には癒えていなかったのかと、その驚きの方が大きかった。
 ――場合によっては再び切り開かなくてはならないかもしれないな。
 傭兵として生きていく中で、なかなか癒えない傷が腐り、それが元で死んでいった仲間も見た。傷を焼いてくれと頼まれて、傷に松明の火を押し当てたこともあった。宮仕えをしない傭兵という職業は、所詮孤独な職業だ。だが、背中併せで闘ううちに、次第に信頼を得ていく。だからだろうか、傭兵の仲間意識は強い。たとえ、敵味方として闘うことになっても、そこには仲間意識がある。
 フォルマティオは苦い顔をして小瓶を見つめた。
 小瓶を追って姿を消した傭兵達。おそらくもう生きてはいないだろう。ゲダの葉を吸うことを好み中毒になるものは確かに居る。だが、普通の傭兵はゲダを吸うくらいなら酒を飲み、女を買う。日頃からゲダを吸っている人間はいざ大きな怪我をしたときにゲダの葉が効きにくい。傭兵にとってゲダの葉は大事な薬の一種だ。がから、けしてその効力におぼれることはない。
 ――くそ。
 肌にピリピリと嫌な緊張ばかりが走る。フォルマティオは小瓶から目を背けた。


 あくまでも平静を装いながら、グルは油断無く周囲を見渡していた。
 穏やかな人の流れとざわめき、そこには日常の平和な町の風が流れる。昨日の広場への襲撃事件でさえ、もう過去のこととして忘れ去られようとしている町。確かに、傭兵の出入りの激しいこの町にはあの程度の事件など日常茶飯事だと言ってもいいのだが、そのあまりの関心の無さにかすかに寒気さえする。
 グルは足早に通りを横切り、自らの根城――一番安心できる場所へと足を進めた。グルの店を失えば情報の流通は途絶える。そこに集まる情報はグルの命を守る術でもあった。
 ――くそ、嫌な雰囲気だ。息子が死んだ夜のように……。
 グルは舌打ちしてようやく見え始めた根城に目を向け、そこに人影があるのを見て一瞬足を止めた。丹念に観察し、歩くときにかすかに右足を引きずる癖を見つけ、いつも店でチビチビと酒を煽る常連の一人だと気付いたグルは、ようやく安心したように足を進める。
「何をしとる。今日は店は開けんと言っといたろう」
 男は一瞬驚いたように動きを止め、その後ようやく苦笑いを浮かべた。
「あぁ、そうだったっけか、おやっさん……」
 そのときグルは見た。男は小さく目配せし、笑いながら頭を掻いて見せたが、その瞳は笑いを浮かべてはいない。緊張したように忙しなく唇を舐める男を見て、グルの勘は緊急事態だと告げる。なるべく早く正確に情報を集めなければ、何か取り返しのつかないことが起きるかもしれない――そんな予感だ。
「まったく、酒なくしては一日も過ごせんのか……。まぁ、いいわい、ここで会ってしまったからには店を開けるしかないな。くそ、悪運の強い男が……」
 グルは悪態をついて見せながら店の扉を開ける。周囲に視線を走らせるが、別に怪しい人影は無い。
「へへへ……」
 男は笑いながらことさらゆっくりと店の扉をくぐった。足早に店の中に進むと、いつもの場所に座る。グルはいつも男が飲む酒をグラスに注ぐと男に渡しながらさりげなく隣に座った。

「どうした……」
 グラスを受け取り、男は小さく呟く。
「妙な男がいる。見るからに堅気じゃない男だ。昔は傭兵をやっていたのかもしれないが、少なくとも今は人に胸を張れるような職業じゃないだろうな……。手下も連れているが、そいつらはたぶん夜盗あがりだ」
「昨日、一昨日からそいつらの話は聞いている。今のところ妙な動きはしていないと聞いていたがの……」
 グルはチラリと周囲に視線を走らせる。どこかで見られているような嫌な気配がしたのだ。
「あぁ、そいつがしばらく前に盛んにこの辺りをうろついていた。この店が閉まっているのを見て『休みか』と聞かれた奴もいる。そして、奴らガドルの屋敷に入っていたらしい……」
「ガドル……」
 苦々しくグルは呟いた。ガドル卿といえば、名家としてはこの町で5本の指に入るのだが、町のものはみなその名を呼ぶことすら嫌う。有り余る金と権力を盾にまだ年端もいかない少女を無理やり屋敷へ連れ込んだり、既に夫のある女性を手に入れるためにその夫を殺したりしたこともある男だ。ここしばらくはエクリアの王家の行事などのために町を離れていて、その姿を見ることも無かったのだが……。
「ガドルに夜盗か……、嫌な組み合わせだな。分かった、ガドルの屋敷を探らせよう……」
グルの言葉を聞いて男は小さな溜息をつき、一瞬躊躇った後、うかがうように言葉を発した。
「おやっさん、あの頬に傷のある男はおやっさんの大事な知り合いなんだろう?」
「頬の傷――フォルマティオのことか?」
 男は頷く。
「奴はまぁ、息子みたいなものさ。昔からの知り合いでな」
 フォルマティオがどうかしたのかと問うグルに男は答えた。
「奴に狙われているかもしれない。『頬に傷のある男と美しい銀の少年』を見なかったかと聞かれた奴がいるらしい――こいつは人伝に聞いたもんだから、断言は出来ないが……」
 グルは溜息をついた。嫌な予感は当たりそうだ。
「分かった、気をつけるように言っておく……」
 男の隣からゆっくりと立ち上がると、グルはゆっくり飲んでいけと呟き、店の片隅に置いた愛用の椅子に腰掛けた。懐からキセルを取り出しゆっくりと咥えると、目を眇めて閉まったままの扉を眺めた。ゆっくりと天井を目指し登っていく紫煙が扉からのかすかな隙間風に揺れた。

「まだ目が覚めないのかい?」
 幾度目だろう、扉がかすかに開き女将の顔が覗いた。マティスは顔を曇らせたまま頷くと、熱で温まった額の布を取り、手桶の水で再び湿らせる。時々うなされるように小さくうめきながら、マイアは未だ夢の中に居る。
「マティス、無理をするんじゃないよ? 何かあったらすぐ私を呼んで、店には手伝いの女の子だって居るんだからね」
 女将は頑としてマイアの傍から離れようとしないマティスを見て小さく溜息をついた。マイアが倒れたのは自分のせいだからと頑固に主張して、マティスは彼女の傍から片時も離れようとはしない。

 閉まる扉から視線を戻しながら、マティスは先刻のマイアの様子を思い出した。あれは明らかに『何か』にとり憑かれていた。だが、マイアに『器』の要素は感じない。
 『器』となるものは例外なくいくつかの条件を満たす。一つは髪――色素の薄い銀の髪であること、そして体のどこにも刻印のないこと。シミの一つ、黒子の一つの存在してはならない。だから、マティスはわざわざ閉じた瞼の上に三日月型の刺青を入れられているのだ。
 もちろん、『器』の資質がなくても占い師や呪い師となるものも居る。前者は星読みとも言われ、星の配列を読み解き未来を見る、神殿にも何人かの占い師が仕えていた。後者は薬師を兼ねるか、そうでなければ呪術使いとなって闇の世界で生きる。どちらも多少なら『器』の資質に似たものを持つが、少なくとも先刻のマイアのように明確な自我を持った何かを体に取り込むことは出来ない。自我を持ったものを体に取り込むことができるのは、マティスのように『器』としての素質のあるものだけなのだ。
 そして、『器』の資質を持ったものは大抵、幼いときに奇妙な行動を起こしたりしてその資質が分り、神殿に保護される。幼いときは自我が脆弱なために力のない精霊のような類にもとり憑かれやすいのだ。自我が確立した後はその器の大きさによって身の処し方も変わる。器が大きいものはより力あるものを――たとえそれが『神』と呼ばれるものでも――取り込むことができる。器の小さなものには力の大きなものは呼び込めない。発狂するか、悪くすればその先にあるものは死だ。

 マティスは目を閉じた。
 おそらくあれは、マイアの体に無理やり降臨したのだ。
 ――器のもの……、扉を開け……。神託を思い出せ。魂に刻まれた名前を思い出せ。その時がお前の……
 確かにその先にはもっと言葉が続いたはずなのだ。だが、フォルマティオを見つめて動揺したその唇からは別の詞が紡ぎ出された。
 ――お前は……。お前はいつでもクラヴィアに愛される。お前はあの子を愛したね……、だからあの子は死ねたのだ……。
 フォルマティオに語った言葉はまるで、昔からフォルマティオを知ってでもいたかのようだ。フォルマティオが愛した『あの子』……。

 マティスは不意に思いついたように体を強張らせた。
 真実の(フォルマ)扉(ティオ)。
 何故今まで思いつかなかったのか分らないほど、単純な一つの印。
 フォルマティオの故郷、砂漠の民はともすればエクリアの民よりも迷信深い。かつて星見の里と言われたルナリアは砂漠の北、エクリアの民などよりずっと昔から星見の言葉に運命を託してきたのが砂漠の民だ。
 ルナリアの民と砂漠の民はもともと同じ一族だったとも言われる。砂漠の民の中で星見に長けた者たちが、より星の観察に適した山奥にその棲家を移しただけなのだ。
 砂漠の民は生まれた子供に名をつけるときも、子供が成人となる儀式の日も全て星見によって決めるといわれる。では、フォルマティオの名もまた、そのようにしてつけられたものに違いない。
 ――真実の……扉……。
 マティスは自分の名に思いを馳せた。
 この名は一部が欠けている。鍵を意味するティスという響きの前には、なにか単語が刻まれていたに違いないのだ。唯一、完全な名を知っているのは、神殿に保護されたその日に居た名付け親の光の魔女だけだと、幼い日にそう教えられた。成人し、この瞳の封印と銀の戒めを解き放つ日に、その名は再びマティス自身に与えられるはずだったのだ。
 ――結局、何も分らないままか……。自分自身の名前さえも……。
 マティスは小さく溜息をつき、燃えるように熱いマイアの手をとった。じっとりと汗ばんだ掌は、力なく投げ出されている。
 この2年、追われるように転々と街を流離ってきた。与えられた鍵は『砂漠の星』という言葉しかなくて、ただ、苦し紛れに砂漠を迂回しながら旅を続けた。逃げ惑っていたと言ってもいいのかもしれない。神殿から逃がされたあの夜から、何が好転したわけでもないのだ。
 ――砂漠の星……。真実の……扉……。
 マティスは目を閉じた。ゆっくりと閉ざされた左の瞼に指を当てると、微かに分る刺青の痕にたまらず爪を立てた。

第一章『真実の扉』 (7)

「嫌な噂が広がっている……。これはジルスの情報屋がわざわざ人を使ってまでわしに送って寄越した情報だ……」
 グルは苦しげな息を吐いた。そして、傍らから一枚の包みを取り出した。茶色の油紙で包まれたものは小さな濡れたような音を立ててテーブルに置かれた。

「フォルマティオ、これがなんだか分かるか?」
 包みを開かなくてもツンと来る特有の刺激臭がした。
「ゲダの葉……?いや、ゲダの葉はこんな小量ではここまで強く香りはしないな……」
 フォルマティオは注意深く包みを解くと、中身が思ったよりずっと小さな小瓶であったことに驚いたような表情を見せた。小さな茶色の小瓶には半分ほどドロリとした液体が入っている。
「ゲタの葉?」
 マティスは小さく首を傾げた。もともと薬草の知識は少ないので、名を言われてもまったく分からない。
「知らなくても無理はないわい。ゲダの葉は一般にはあまり使われないからの。幻覚剤と言えばいいか。ゲダの葉を干して細かくし、火にくべると意識が薄れて、痛みを感じなくなる。量を加減すると仮死状態にすることもできる。痛みを感じなくなるから、昔はよく戦いで負傷した兵士に使われた……。ゲダの葉を焚きながら腐食した足を切り落としたり、皮膚を縫い合わせたりしたんじゃ。だが、量を多くしすぎると目覚めたときに人が変わってしまうことが分かって、すぐに使われなくなった。わしの若い頃までだな、使われていたのは……」
「使われなくなったものが、どうして……?」
 マティスはそっと小瓶に顔を近づけた。強い刺激に思わず顔をしかめると、グルが笑った。
「アルメイダ邪教じゃよ。聴いた事はないか?性愛と欲望の邪教の話を」

 欲望の女神と呼ばれるアルメイダは、性愛の女神として蔑まれる一方で子宝を授ける女神として祭られる。子供に恵まれない夫婦は10日の潔斎のあいだ毎日アルメイダの神殿で聖水を頂くと子供を授かることができるという。他の神殿とは違い、アルメイダの神殿だけは子を産んだ女性だけが神女として神殿を守ることになっている。
「邪教……?」
 一般的にエクリアの民はエクリア教を信じる。額に十文字を描いたエクリヴィアラの像を奉じ、太陽が一番輝きを増す祭りの日には皆一様に白い服を着、髪に若い木の枝を差し、日々の糧に感謝し、一日の潔斎を行うのだ。だが、表向きではそのエクリア教を奉じていながら、退廃した権力者たちの間で執り行われているのが欲望の女神アルメイダを奉じる邪教だ。邪教といわれる所以は、神託を受けるための乙女を金の力や暴力で略奪し、宗教とは名ばかりの行為が行われることが多いからでもある。特に純潔を重んじるヴィアラ教の乙女が狙われることが多く、辱めを受けた少女が自害した話は少なくない。
 フォルマティオは眉根を寄せた。ふと視線を走らせ、まだよくわからないように首を傾げているマティスを認めると小さく溜息をつく。そして、神殿の奥深くにしまわれていた、マティスがそんなことを知ってるはずもないのも無理はないと思い直す。
「退廃した新興宗教だ。信じているのは権力者が多い。性行為中に神託が降りてくるという宗教なんだが、その際の儀式にゲダの葉が使われているんだ」
 一瞬、マティスはよく内容がのみこめないというような顔をした。人に触れられることすらなかったマティスにとって、そういう話は頭で理解はできるが実感は伴わない。
「害のあるものにもかかわらずゲダの葉が厳しく禁止されなかったのは、権力者がその宗教を守っているからに他ならない。まぁ、エクリヴィアラの神殿の奥深くに居たんでは知らなくてもしょうがない話だがな」
 フォルマティオの言葉を聞くなり、グルはしげしげとマティスの顔を覗き込んだ。そしてその身を這う銀の飾りを眺めて小さく感嘆の声を漏らした。
「エクリヴィアラの神殿に居たのか。その体の銀の守りも伊達じゃないわけだな……」
 マティスは居心地が悪そうに小さく体を揺らすと、自分に注がれた視線を避けるようにそっぽを向いた。そして早口で質問をはじめる。
「そのゲダの葉が何の問題があるんだい?」
 グルは小さく体を乗り出すと声を弱め、ようやく本題に入り始めた。

「その小瓶の中の液体はどうやらゲダの葉を煎じて煮詰めたものらしい。ほんの一滴で一握りのゲダの葉を焚くのと同じ効果がある。わしだって、それくらいでは驚かん。だが、ジルスの情報屋の話ではこの液体の話が出るようになってから行方知れずになったものが続出しているというんだ。しかも、その行方知れずになっている面子がどうもおかしい。叩けば埃が出るようなどう転んだって堅気には戻れない奴らや鍛えられた傭兵がいなくなっていると言うんだ」
 グルはキセルを口から外すとぺろりと唇を舐めた。
「ジルスの街には傭兵から足を洗った奴らが何人かいる。奴らはもちろん、その不可解な事件を追った。傭兵家業をしていた奴らの仲間意識は強いからな。そして、その小瓶だけを残して奴らも消えた。どうやらこのタロンに向かったらしいということだけ、商売女が耳にしたらしいがの」
 マティスはじっとテーブルの上の小瓶を見つめた。飾りのない無骨ともいえる茶色の小瓶がいったどんな事件の鍵を握っているというのか。
「フォルマティオ、変だと思わないか?この小瓶はジルスから来た。『西の花』もジルスから来た……」
 フォルマティオは不意に気付いたようにマティスの顔を覗き込んだ。その意図することを悟ったマティスは小さく唇を噛み締めた。
「僕もジルスから来た……。首都エクリアから砂漠を迂回して……」
 なんとも言えない表情をグルは浮かべた。重い沈黙が落ち、苦し紛れにマティスが口を開こうとしたそのとき、大きな物音が隣から聞こえた。

「きゃあぁぁ!」
 小さく悲鳴が聞こえる。はっとしたように顔を上げると、マティスは飛び出した。
「マイア!」
 開け放たれた扉の向こうからは恐ろしいほどの熱気が噴出している。その扉の横にマイアが崩れ落ちていた。
「な、いったい……」
 扉の奥にフォルマティオは見た。炎の鬣を煌かせ、爛々と輝く紅い瞳を燃やして立つ野獣。大きく開け放たれた口からは紅く鋭い牙と炎が覗き、豹のような頭の中央、ちょうど額のところには不可思議な青い光を湛えた第三の目。グルグルと小さな咆哮を漏らしながら、その野獣は燃える瞳でマイアを見ていた。
「レナ、止めるんだ。彼女は敵じゃない!」
 マティスが叫ぶと、野獣はちらりとマティスの顔に視線を走らせた。そして、小さく鬣を振る。
「戻れ、レナ。彼女を傷つけることは許さない……」
(ソノ女、近付ケナイホウガイイ。まいあノ宿命ヲ持ッテル)
「黙れ! お前の第三の瞳に映っているのは誰だ」
 そのマティスの言葉に、鞭打たれたように野獣は体を震わせた。そして悲しげな咆哮を上げると、鬣を振った。熱気は急速に失われ、一瞬、苦しげに青い瞳が細められると、ゆっくりと閉じられていく。
 言葉を発することすら出来ないフォルマティオの目の前で、野獣は姿を変え、後には立ち尽くす三人を濡れたように紅い瞳で見上げる小さな子猫が残った。
「レ……ナ?」
 震える声でフォルマティオがその名を呼ぶと、猫は小さ鳴いて力尽きたように横たわった。
「魔獣とはな……。長い間生きてきたが、見るのは初めてだ……。フォルマティオ、お前の雇い主、いったい何者だ?」
 唸るように言うグルの言葉にフォルマティオは答えなかった。否、答えられなかった。

「マイア!マイア!」
 マティスは狂ったようにマイアの体を揺すった。震える手でそっと口元に手をかざすと、微かに呼吸をしていることが分かる。ほっとしたようにマティスはマイアの頬を撫でた。
 あれほどの熱気に当てられたというのに、マイアの体は氷のように冷え切っている。色をなくした唇が、小さく痙攣した。
 そして、ゆっくりとマイアの瞳が開かれた。焦点の合わない瞳は宙をさまよい、マティスの顔を捉えるとゆっくりと口元に笑みが浮かんだ。
「マイア……」
 小さくマイアは笑い、唇を舐めた。そして唇の両の端を吊り上げると、しわがれた吐息を漏らした。
「マイアじゃ、ない……!」
 それは明らかにマイアの声ではなかった。
「器のもの……、扉を開け……。神託を思い出せ。魂に刻まれた名前を思い出せ。その時がお前の……」
 彷徨う視線がフォルマティオを捉えた途端、不意にマイアは言葉を止め、食い入るようにフォルマティオを見つめた。
「お前は……」
 フォルマティオを見つめたマイアの瞳がゆっくりと潤み、色をなくした頬に涙の筋が流れた。
「お前はいつでもクラヴィアに愛される。お前はあの子を愛したね……、だからあの子は死ねたのだ……」
 マイアの首が垂れた。力の抜けた体は青ざめ、小さく痙攣した。
「マイア!」
 マイアの体から黒い影が飛び出すと、それはフォルマティオの前で塊となった。その暗い闇の渦の中に小さな二色の目が光っていた。

(お前はお前の宿命に気がつかなければならない)

 それは一瞬だった。闇は激しく渦を巻いたかと思うと、フォルマティオに襲い掛かった。
「うわっ」
 使い慣れた剣は下げていない。フォルマティオはいつもベルトに挟み込んでいる小さなダガーで闇を割いた。湿った濡れたような感触が確かにした。
「消えた……」
 グルの驚いたような声が小さく響いて、不意にあたりの空気が一瞬凪いだ。
「……っ、何……?」
 右の頬に焼けるような痛みを感じて、フォルマティオは思わず顔を覆った。古い傷で縫い合わされた、潰れた右眼から、涙のようにゆっくりと黒い血が流れ落ちた。

(真実の扉の名前を冠するものよ、お前はお前の宿命を知らなければならない。あの子の最後の微笑みの意味を知らなければならないのだ……)

 不気味な静寂の中に、そのしわがれた声だけが響いた。三人は言葉を発することさえ出来ずに消えた闇を見つめていた。

第一章『真実の扉』 (6)

 その紅い瞳に気がついたのは、グルの店を出てすぐのことだった。確かにフォルマティオの容貌は目立つが、傭兵の行き来も多いこの町では目を引くといっても一時のことで、何度か姿を見ればすぐに、この町の人間はその存在に慣れてしまう。だが、その視線はグルの店を出てからずっと、フォルマティオの背中を見続けている。殺気は感じない。どちらかというと、非常な興味の視線と言ったらいいだろうか。

 人ごみを過ぎ、十分に周りに余裕ができたところで、フォルマティオは思い切って振り返った。瞬間的に剣の柄に手をやる事も忘れない。
「にゃ~ん」
 まるでそれを待っていたかのように、その紅い瞳はフォルマティオを見つめて鳴いた。黄金の毛並みに紅玉のアーモンドの瞳をのせ、小さな口元からは短いが鋭い牙が覗いている。そのまま、猫はフォルマティオの足元に擦り寄るとごしごしと額を摩り付け始めた。
「懐かれても困るんだが……」
 フォルマティオは苦笑してその猫を片手で掬い上げた。吊り上ったアーモンド型の瞳を見ると、思い出の中の、かつてこの身を賭けるほどに愛した人物の面影がまぶたに浮かんで消えない。小さくため息をつくと、フォルマティオは猫をおろし、その喉元を指先で掻いた。
「おまえを飼ってやれるようなゆとりは俺にはないぞ……」
 そのまま再び宿に歩き始めると、どうやら背後でじっと自分を見つめているらしく、小さく鳴き声がした。

 思い出の中の愛しい影、レイアは、吊り上った猫のような瞳を持っていた。その瞳の右は紅玉、左が黄玉、細い白鳥のような首筋には所有者の証の黄金の首輪が付けられて、柔らかな白い肌には一面に呪詛が刺青されていた。遠い昔に滅びたといわれる半人半獣の異形は、その全身を魔都の呪いに飾られながら、それでも穢れのない瞳でフォルマティオを見つめた。魔都の支配者ジンの愛玩物として生きながら、彼女はなぜ、穢れることなく生きていたのだろう。フォルマティオは未だその瞳を忘れることはできない。
「レイア……」
 思わずフォルマティオはその忘れられない名前を呟いた。足元に暖かなものが擦り寄った。
「にゃ~ん……」
 背後に置き去ったはずの猫はその足元にじゃれつき、一瞬全身に力をこめると、一気にフォルマティオの肩に飛び乗った。きらきらと紅玉が太陽に煌き、柔らかな毛並みがフォルマティオの頬を滑る。
 しょうがないというようにため息をつくと、フォルマティオは猫を肩に乗せたまま宿への道を歩き始めた。女将に飼い手を探してもらえばいい。夜ともなれば旅人だけでなく地元の男たちもが食事を摂りにやってくる。誰か一人くらいは猫の飼い手も見つかるだろう。
 すれ違う人のほほえましげな視線が多少むず痒くはあったが、騒ぐでもなく肩の上でじっとしてる猫をいまさら手にとるのも面倒で、フォルマティオは口元にかすかに苦笑を浮かべたまま足を速めた。

 用心のために回り道をし、尾行がない事を確認してから、フォルマティオは少し傾き始めた太陽を背に宿の扉を開けた。夕食の準備の始まった宿の一階では女将の作る甘いスープの香りが漂っている。声をかけようかとも思ったが、少し時間にゆとりのある頃でいいだろうと思い直し、猫を肩に乗せたままフォルマティオはマティスの待つ部屋へと向かった。
 軽くノックをした後、扉を開けると、マティスはベッドに手足を伸ばしたまま横になり、ぼんやりと天井を見上げていた。
「マティス、具合はどうだ?」
 声をかけられて初めて気がついたのか、慌てたように起き上がると、肩の上の塊を見つけて、不意に大声をあげて笑った。
「フォルマティオ、なんだいその猫……」
「なんだか、懐かれて……」
 マティスの声を聞くなり、猫はピンと耳を張り、紅い瞳を大きく見開いてマティスを見つめた。
「紅い目か、珍しいな……」
 猫はぱっとフォルマティオの肩を飛び降り、ベッドに飛び乗ると、興味を惹かれたようにマティスの顔を覗きこんだ。何気なくマティスの指が猫の背に触れた。

ドクン。

 触れた指先が脈打ったような不思議な感覚。猫は窓から差す日の光を瞳に受けて鳴くように口を開けた。二本の小さな牙がきらりと紅く光り、金の毛並みが脈打った。
「これは……」
 マティスの口元に微妙な笑みがこぼれた。猫の額を用心深く弄ると、柔らかな毛並みに隠れて第三の閉じられた目があることが分かった。

 やはり、これは猫ではない。マティスは小さく微笑んだ。

「我が名はマティス。汝の魂にこの名を刻み込むか?」
 マティスの声に応えるように、ゆっくりと額の瞳は開かれた。色素のない、恐ろしく透明な銀の瞳。その瞳には今、マティスの姿が映っている。

 額に第三の目を持つ獣、それは魔獣の証。その姿は地上の多くの獣の形に似て、閉じられた第三の目に映したものを自らの主人と定めるという。非常に高度な魔道士と言霊使いにしか使役することはできないともいわれるが、実際には使役されることを望む魔獣は少ない。今、ここに居る魔獣がマティスが居ることを知り、そのために自ら望んで訪れたのかどうかは定かではないが、確かにこの獣はマティスを主とすることを望んだのだ。

「おまえの名は?」
(私ハれな。オ前ノ言ノ葉ヲ炎ノ剣ニ変エルモノ)
 ゆっくりと、額の銀の目は閉じられていく。
「レナ……」
 マティスはその小さな体をそっと抱き掬うと、金の毛並みに指を絡めた。フォルマティオは不思議そうにそんなマティスを見つめている。マティスはレナを抱いたままゆっくりとベッドから滑り降りると、テーブルの上に置き忘れてあった銀の飾り輪を取り、そっとレナの首にかけた。紅い宝玉のついた飾り輪はレナの瞳の色とよく合った。
「マティス?」
 フォルマティオは何が起こっているのか分からないと言いだけな表情で問い掛ける。マティスはただ笑って見せた。
「フォルマティオは何も知らずに連れてきたんだね?」
「勝手についてきたんだ、この猫が」
 レナはマティスの手から身を捩って逃れると、フォルマティオの足元に体を摺り付けた。甘えた声を出し、抱き上げてもらうと嬉しそうにその頬に額をこすりつけた。マティスはそんな様子に肩をすくめる。
「なんだ、主は僕でも、懐くのはフォルマティオの方ってわけ?ゲンキンだなぁ……」
(妬イテルノ?)
「誰に向かって言ってるんだ?」
 問い掛けるフォルマティオに向かってマティスはくすりと悪戯っぽく笑い、優雅に白い指先をレナのほうに向けた。
「この『猫』さ……」
 マティスの答えに、まったく理解不能だと言いたげに首をかしげて、フォルマティオはレナをしげしげと眺める。レナはというと、ただ可愛らしく応えるように首を傾げて、小さく甘えた声で鳴いて見せた。
「フォルマティオも今に分かるよ。この『猫』がどんなものであるか……。今に、ね……」
 悪戯な笑顔を崩さず、マティスはそっとそんなレナの背に指を伸ばした。柔らかい毛並みの下の筋肉が一瞬ぴくりと応えて、逃れるようにスルリと床に降り立つと、レナは敏捷にテーブルに飛び乗り、ゆっくりと大きく尻尾を振った。
(『猫』ダナンテ失礼ダワ……)
 マティスにしか聞こえない声で反論するレナに思わず爆笑したマティスを、フォルマティオはどうにも理解できないというように肩をすくめ、問い掛けることも諦めてマントを脱ぎ始めた。


 グルが人目をはばかるようにしながらカナリの宿の扉をくぐったのは、少し夜が更けてから――夕食目当ての客が少し少なくなってからのことだった。前もってフォルマティオにそう告げられていたアザラは、他愛もない世間話を交わした後、グルをフォルマティオの部屋へと案内した。客の少なくなった店内には怪しげな者の姿はない。宿に泊まっているものといつもの常連客、そして店の商売を手伝う数人の少女の姿があるばかりだ。
「フォルマティオ……」
 小さく扉をノックして名を呼ぶと、フォルマティオはすぐに扉を開けた。後ろにグルの姿があることを認めると、無言のまま部屋に入れ、ちょっと待っていてくれと言い残して隣の扉を開けた。
「マティス、ちょっと来てくれ」
 ベッドの上で性懲りもなくレナと戯れていたマティスはその声を聞いて敏捷に起きると、レナをベッドの上に置いた。
「怪しい奴が来たら知らせるんだ、いいね、レナ……」
 大人しくベッドの上に座ると、レナは承知したというように大きく尻尾を振った。フォルマティオはそんなマティスの様子を見て、再び肩をすくめた。本来、年相応なのかもしれないが、レナ相手に真剣に言葉をかけている様は幼くすら見える。
 マティスはまだ乱暴には扱えない左足を用心しながら、フォルマティオの元へ進み、そのままグルの待つ部屋へと消えた。
「紹介する、タロンの情報屋、グルの親父だ。俺が傭兵を始める前からここで情報屋をやっている。これは俺の雇い主、マティスだ」
 グルは目の前に現れたマティスの美貌に目を丸くし、その後、不意に思い出したように呟いた。
「昨日、広場に現れた銀の神ってな、お前さんかい? 絶世の美女、銀のシャトアだのすごい言われようだったが、なるほど、実物見りゃその話も頷けるな……」
 それはどうも、と優雅にお辞儀をして見せてマティスは椅子にドカリと座った。左足を不自然に持ち上げたままでは非常に疲れるのだ。
「あぁ、これは頼まれてた傷薬さ。携帯に便利なように皮袋に小分けにしてある」
 グルは腰に下げていた袋からいくつかの皮袋を取り出すと、テーブルに置いた。代価を出そうとするフォルマティオの手を遮り、しみじみと下からその顔を覗きこむ。
「代価なんて要らん。変な話だが、わしはお前を実の息子のようだと思っとる。息子が死んだ翌年に、息子が死んだ森からお前はやって来た。全身に傷を作り、生きているのが不思議なくらいだったが、お前は生き延びた。息子の代わりだとわしはそう思っとるんだよ。もちろん、本当の息子はお前のようにいい男でも剣の使い手でもなかったがね……」
 体にさえ気を付けてくれればそれでいいんだ、と言って、グルは笑った。そして照れを隠すように懐からキセルを取り出すと火種をつけた。
「マティス、足を出せ……」
 グルの好意に素直に礼を言うと、フォルマティオはマティスの足元に跪き、傷にその傷薬を塗りこめた。油薬を塗りこめると、かすかにピリピリとする小さな痛みが走って、傷口が熱くなった。だが、昨日の薬草のように体力を消耗するほどの痛みではない。
 グルはそんなフォルマティオの様子をじっと見つめると、小さく溜息をついた。それに気付いて顔を上げたマティスは、グルの顔が思いのほか険しいことを知り、微かに眉根を寄せる。
 年輪の刻まれた頬に微かに苦しげな色さえ浮かべて、グルはフォルマティオを見つめていた。

第一章『真実の扉』 (5)

 フォルマティオが軋む扉を開くと、店の奥の暗がりに小さな椅子を置いてキセルの端を咥えていた小男が背を丸めたまま軋んだ扉の方に顔を向けた。
「久しぶりだな、グルの親父、まだ煙草は手放せないのかい?」

 グルと呼ばれた男は眩しそうに眼を瞬かせてしげしげと入ってきた男の顔を眺めると、不意にキセルをポンとテーブルに打ち付けて、不機嫌そうな顔を崩した。
「フォルマティオ!……3年ぶりか?北の方に仕事をしに行っていたんじゃなかったのか?」
 北からヴァイアに入る隊商の護衛をしてきたんだと笑って答えると、勧められた小さな木の椅子にフォルマティオは笑ったまま腰掛けた。
「西回りでか?物騒だったろう?」
 そういえばちょっと夜盗の噂が以前より多く感じたなと笑っておいて、フォルマティオはちらりと視線をあたりに走らせた。目敏くそれを見つけたグルはわかったと言うように頷くと、何事もなかったかのようにキセルを咥えなおした。
「そうそう、お前さんが昔から気に入っていた西の花のことだがね、最近目立ってここいらにも出てくるようになったよ。昨日もほら、広場で売られていて、ちょっとした騒ぎさ」

 西の花という暗号はフォルマティオが初めてこの町を訪れた9年前からグルとの情報交換の際の魔都カノーリアに関する話の時に使う言葉だ。魔都自体が西の未開の森の中にあり、カノーリアという名もまた、古の言葉で『人喰い花』を意味する単語であることから、グルの親父が最初に名付けた。
 フォルマティオは小さく溜息をついた。やはり昨日のあの騒ぎは魔都の手のものが関係していたのだ。
「ここいらに出るようになったのはいつ頃からかい?」
 用心のためにちらりと周りの客に視線を走らせると、入ってきたフォルマティオの姿を見て一瞬、興味をそそられた者達も、どうやら数年ぶりに尋ねてきた親父の顔見知りらしいと分かって、既に自分の酒に興味を戻している。
「5日前にジルスの町に出たと話に聞いたかな。この町に出たのは昨日が始めてさ。何でも花売りは逞しい男らしいよ、爺かと思っていたのに」
 伝える内容を巧みに言葉の端々に上手く入れ込みながら、グルはキセルでテーブルを3回叩いた。手のものは3人、剣士ばかりで魔道士はいないらしい。少し気が楽になる。
「分かった、捜してみるよ。また何かあったら教えてくれ、いつものように『カナリの家』にしばらくいるから」
 グルはキセルをプカリとふかして、フォルマティオに目配せした。
「アザラの作る料理は絶品だからなぁ、あの宿には可愛い娘がいると言うんで最近とくに人気なんだよ。わしも今晩あたり久しぶりに行ってみるかなぁ……」
 他にもここでは話せない話があるということだろう。フォルマティオは小さく笑った。
「なんだ、その年でまだそっちの欲もあるのかい?可愛い子といえば、俺もその宿で飛び切りのヴァイア娘と出会ってね。今晩来るなら紹介してやるよ。女将に言っておくから俺の部屋で一緒に美味い酒でも飲もう。親父さんも北の話が聞きたいだろう?」
 フォルマティオは笑いながら席を立った。
「わしの若い頃はなぁ、まだ北のゼアダとの戦が続いていた頃で、わしは歩兵の一員として北を目指したんだ……。綺麗だったぞ、北の大地の短い夏の日の草は青く柔らかでなぁ……」
 ことさら感慨深げに溜息をついたグルの言葉を耳にして、不意に常連らしい客の一人が笑った。
「お若いの、この年寄りの話に付き合ってやるのかい? いい冥土の土産をもらったなおやっさん、ん?」
 からかうように話に加わってきた常連客に、今晩は店は閉めるからな、居ても追い出すぞと大声で言いながら、グルはフォルマティオに向かって小さく頷いて見せた。フォルマティオは頷き返して、ゆっくりとグルに向かって手を振ると、扉へと向かいながら不意に思いついたように言葉を発した。
「そうだ。ついでに親父さん特性の傷薬も分けてくれよ。前にももらったろう?あれ、護衛の時に重宝したんだよ」
「あぁ、いいともさ。あれは歩兵に行ったときに教わった特別調合でな。教えてくれた北の娘というのがまた、いい女でなぁ……」
 また始まったよ、という常連の苦笑混じりの声と、それに対して半ば喧嘩腰の冗談の言い合いを始めたグルのしゃがれた声に小さく首をすくめると、フォルマティオはゆっくりと扉を閉めた。


「あの……」
 小さな呼びかけに不意に身を起こすと、マイアが扉を細く開けて心配そうに中を覗いていた。
「食事、女将さんに頼まれて運んできたんだけど……」
 はっとしてマティスが小さな小窓から空を見上げると、既に日は高く上り、日差しも強い。しばらくうつらうつらしていたようだ。
「ありがとう……」
 マイアはゆっくりと扉を開けて滑るように部屋に入り、テーブルにそっと盆を置く。改めてゆっくりとその姿を眺めてみて、マティスは実は彼女が思っていたよりもずっと若いということに気がついた。自分と同じくらいか、もしかしたら自分より幼いかもしれない。
 マティスは用心深く傷口を床につけないようにしながらテーブルまで歩くと、そっと椅子に腰掛けた。
 鼻腔をくすぐる甘いスープの香りに不意に空腹感を覚える。小さく空腹を訴え始めた腹を思わず両手で押さえると、その様子にマイアが笑った。
「お腹、減るようになったのね。良かった。昨日はすごい熱だったから心配したの……」
 僅かに赤面して、マティスはちらりと笑うマイアの顔を盗み見た。少し疲れたような顔色に、不意に昨夜彼女が寝ずに看病してくれていたことを思い出した。
「昨日は、ごめん。君も休んだ方がいいよ……」
 ミルク瓶からグラスにミルクを注いでやりながら、マイアはそんなマティスの言葉に微笑んだ。
「ありがとう。でも、今日は女将さんにお休みをもらったから、ゆっくりできるの……。あなたのお食事が終わったら私も家に帰ることにするわ……」
「君はここで働いているの?」
 はっとしたように顔を上げ、マティスを見上げたマイアは、少し悲しそうに笑うと、俯きながら小さく答えた。
「私、ここのお店で夜、働かせてもらっているの…。お客さんのお酌をして、相手をして……」
 言葉を濁してしまったマイアの伏せた長い睫毛が震えていた。マティスは理解した。マイアは自分自身の体を切り売りしているのだ。
「3年前に父を亡くしてこの町に出てきたの。母は、弟を産んですぐなくなったから、私にはもう、身寄りがなくて。路銀も使い果たしてどうしようもない時に拾ってくれたのが、ここの女将さんなの」
 胸の前で固く握り締められ、小さく震えているマイアの手にマティスはそっと触れた。驚いたように顔を上げたマイアの瞳は艶やかに黒く、微かに潤んでいる。マティスはそっと自分の足首に右手を伸ばしてそこに絡み付いていた銀の足輪を外した。
「これで幾晩きみを買える?」
「え……?」
「お金なんて、いくらでも作れる。どれだけあったら、君を買える?」
「何を言ってるの?」
 マティスの真意を測りかねて、マイアは思わず声を荒げた。
「僕では、迷惑?」
 意味がわからないというように首を振って、マイアは小さく溜息をついた。
「だって、あなたが私を買う理由がないわ。確かに、今、私がしている職業は胸を張って人に言えるようなものではないけれど、でも、生きるためだわ……」

「僕は……」
 マティスはなおも続けようとするマイアの言葉をさえぎるように口を挟んだ。
「僕は、親から捨てられた子だ。君は僕の体を見たろう?僕は、神殿の前に捨てられていた…。神官に両性体が多い理由を君は知っているかい?」
 マイアは小さく首を振った。もともとマイアの住んでいたヴァイアの田舎では両性体は極端に少なく、また、神殿も多くが海の女神マイアと太陽神ハロ、月の女神ルカのもので、首都エクリアのように主要神十神全部の神殿があるわけではなかった。
「もちろん、もともと神官になるべき要素を持ちやすいということもあるけれど、本当の理由はそうじゃない。両性体とは言うけれど、実際は子供を作れない、無性体と呼んだほうがいいくらいだ。だから、けして自分達の家の後継ぎには出来ない……。しょうがないから神殿に入れるんだ。神話の中では主要神十神のうち五人までもが両性体の神だから、皆、それにかこつけて両性体のことを『神に愛されたもの』なんて呼ぶこともあるけれどね……」
 マイアは自分が思わず口にした「買う理由がない」という言葉が思った以上にマティスを傷つけたことを悟った。マティスの体のことを意識して言った言葉ではなかったが、確かに最初から、マティスが自分をそういう対象として捉えてはいないと――けして捉えることは出来ないのだと――そう、思っていた。
「違うの。違うのよ……」
 力なく否定の言葉を繰り返して、マイアはうなだれた。
「神殿を出てから、僕はしばらくいろんな神殿を転々とした。でも、神官は僕のこの銀の戒めを見ると、皆、一定の距離を置く。この銀の戒めは魔に魅入られやすいものの証。どちらかといえば、穢れたものに施されるものだから。そして一歩神殿から外に出れば、みな一様に僕に興味を示し、必要以上に関わりたがり、時に金や力で僕を屈服させろうとする者までいた……」

 優しげな顔の裏に偏見に固まった興味があった。下卑た欲望と興味の視線の中でこの身を守り、けして弱みを見せまいと虚勢を張り、キリキリに張りつめながら旅をした。物心ついて以来、肌が触れるほど近く誰かが居たことは初めてだ。自分へと流れてくる感情が、何の見返りもない、ただ純粋に優しいものであることも。あの優しかった大神官でさえも物心ついた後のマティスの肌に触れたことはないのだ。
 重い沈黙が二人の間に落ちた。
 耐えかねたようにマイアが溜息をつくと、ゆっくりとマティスは立ち上がり、俯いたままのマイアの髪に触れた。小さく震えて、その瞳がマティスを見上げた。
「僕は、君がその体を売るということが、たぶん、嫌なんだ。『体を売る』という職業が嫌なんではなくて、『君が』体を売るということが、たぶん、耐えられないほど、嫌なんだ……」
 この体を見ても目を逸らすことなく、興味に促されて自分を見ない、ただそれだけのことがマティスにとってどんなに大きなことだろうか。
 そっと身をかがめて、マティスは自分を見上げたままのマイアの唇に自らの唇を近づけた。一瞬、羽根が触れ合うほどに微かに触れ合った唇は柔らかく、小さく震えていた。
「私……」
 尖ったガラスの破片に触れるように、そっとマティスの体を抱きしめながら、マイアは銀の髪に頬を埋めた。
「――不思議な人。私、熱にうなされるあなたを見て、私が守ってあげなければと、そう思ったの。でも、今、こうしていると、全てのものから思ってもらえそうな気さえする……」

 でも、この人は行ってしまうだろう。ただ、今、この一瞬だけを傍で過ごす、この人は旅人なのだ。
 こうして宿屋で働くようになってから、愚かな恋だけはしないと誓った。魂は切り売りできないのだと、そう悟ったから。
 それでも。流れはじめてしまった感情を止めることは出来ない。もう、止めることなど出来ないのだ。

「花の匂いがする……。君は柔らかい……」
 マイアはマティスを抱きしめたまま、その背後にある小窓から覗く青空を見上げた。澄み渡った空は青く、一片の雲も見えない。瞬間、その青を切るように白い鳥が飛び去るのが見えた。

 あなたの愛が終わりを告げても
 クラヴィアの紡ぐ運命の糸が切れても
 私が愛することを止めなければそこにあなたの入り江があるでしょう
 あなたの旅に影が射すなら
 死の神ガラの前に跪いてでも
 私があなたの船を守り、あなたの行く手を照らしましょう

 幼い頃聞いた『入り江の唄』が不意にマイアの耳に甦った。恋人が遠い漁に出ているとき、ヴァイアの女達は小さくこの歌を歌いながら淋しい夜を過ごすのだ。歌の意味を問う幼い自分に、姉のように慕っていた女性は言った。今はただ、この歌をただ覚えていればいいのよ、と。誰かを求めた瞬間にこの歌を思い出したら、その人はあなたが愛するに値する人なのだということなのだと。甘い南国の花の香りの中で、いつも歌は流れていた。幾つもの喜びと悲しみの中に、微笑と涙の中に、確かに彼女達の真実はあった。
 マイアはそっと体を離すと、小さく微笑んだ。
「私、帰らなければ……。弟が待っているの……」
「あ……」
 マイアはまるで壊れ物を扱うようにそっとマティスの髪に指を絡ませると、一瞬の躊躇いの後、そっと頬に唇を落とし、逃げるように扉へ向かった。
「マイア……」
「今夜、また、来るわ……」
 扉を閉めながらそう小さく囁いた瞬間、頼りなげにマイアを見つめていた紫玉が輝いたのが見えた。
 愛するだろうと確信した。自分の両手から飛び立っていくその背中が見えなくなっても、自分の命が続く限り愛するだろうと。

December 5, 2004

第一章『真実の扉』 (4)

 壁にもたれたまま、フォルマティオは自分の混乱した頭を整理しようと努めた。今思い返してみれば確かに、マティスが女性だったとするならば、あの体の細さも美しさも、抱きかかえた時のあの軽さも頷けるのだ。また、一人で旅をするには確かに、男性の身なりをし、男性のような言葉遣いをしていた方が安全ではあろう。

 すっかり騙された。まったくそんなことを考えもしなかったから。明日にでも女将に言って部屋をもう一つ借りなければ。フォルマティオは頭を抱えた。

 程なくして、小さく遠慮がちに扉が開いた。
「フォルマティオ、終わったわ。着替えもさせておいたわ……」
 マイアは奇妙な表情をしたままフォルマティオを見上げた。僅かに躊躇った後、彼女は問い掛けた。
「私、あの人を彼女と呼べばいいのか彼と呼べばいいのか分からないのだけど……」
 フォルマティオはマイアの言葉の真意を掴みかねて、首をかしげた。マイアは奇妙な表情をしたまま、言葉を繋いだ。
「あの人、両性体だわ。私、話には聞いたことがあったのだけれど、初めて出会ったから、ちょっとびっくりしてしまったの…。フォルマティオが『彼女』と言っていたから、最初はてっきり女性だと思っていて……」

 確かに、この世の中には男性と女性の体を同時に併せ持つ人々が居る。だが、それは稀だ。神話の中では主要な十神のなかの五神までが両性体なのだが、両性体が比較的多く生まれるという首都付近でも数年に一人、フォルマティオの生まれた砂漠の町にいたっては数十年に一人生まれるか生まれないかというくらい稀なことなのだ。また、両性体として生まれた子供は体が弱く、総じて高い精神感応性を持っていて、普通の生活は営むことが困難だ。その為、その多くが神官となる道を選ばされることが多かった。
 マティスが両性体であると分かってみれば、生まれてすぐエクリヴィアラの神殿の前に捨てられていたという事実も納得がいくように思える。
 稀な体に、稀な才能、そして稀な美貌……。何故、そんな希少な偶然を神は作り出したのだろう。いや、そのほとんど存在し得ない確率を引き当てたからこそ、マティスは『神の器』という運命を与えられてしまったのだろうか。

「まるで、美の女神シャトアのような人……。あんな人もこの世には居るのね…」
 マイアの瞳は夢みるように伏せられた。白い肢体はどこまでも美しかった。魔から身を守るために体中に巻かれた銀の鎖すら、その体を美しく飾るためにあるかのようだった。
「マイア……、このことは……」
 フォルマティオの口を小さな掌で塞ぐと、マイアは分かっているというように微笑んだ。
「内緒、なんでしょう?分かっているわ」
 信頼してくれてありがとう、と言ってマイアは笑った。
「マイア、多分、今晩中、熱はひかない。もう何度か体を拭いてやって欲しいんだ。もちろん、君の時間を使ってしまう分、代価を払う」
 マイアは頷いて、今まで応対していた客に断りを入れてくると言ってゆっくりと下の酒場に降りていった。フォルマティオは一瞬周囲を見回した後、ゆっくりと部屋に滑り込んだ。

 マティスはさっきよりいくらか楽になったような寝息を立てていた。マイアの手で今まで身に付けていた汗ばんだ衣服は部屋の片隅に畳まれ、湿らせた布がマティスの額に乗せられている。全てを露わにしてしまうのは気が咎めたのか、布は大きめに畳まれ、半ば瞼を覆うようにして置かれていた。
 フォルマティオは再び薬草を手に取ると、揉み解し、布団の裾を捲り上げて包帯を取った。カラカラに乾いた先ほどの薬草を取り除き、傷口の様子を確かめる。
 傷は深かったがもう血は止まっていた。新たに揉んだ葉を傷口に押し当てると、再び布で縛った。これで朝までは替えなくてもいいだろう。布団を元に戻して、今度は手首の脈を取った。比較的早いが、力強く、規則正しく響いていることを確認し、ようやくほっとする。

 さすがに疲れた。まだ、ようやく日が落ちて、月の女神ルカの支配する薄闇が訪れたくらいの時間だというのに、石のように体が重い。崩れるように椅子に腰をおろして、フォルマティオは天井を見上げた。
 眠りに吸い込まれる直前にマティスは確かに『カノーリアの将軍ジン』と言った。その名は忘れもしない、この右目から光を奪い、レイアの命を奪ったあの魔王のものだ。今マティスを狙っているのがそうなのだとしたら、9年前に滅びたとばかり思っていた魔都はまだ存在し、その支配者ジンもまた生きているのだ。運命とは皮肉なもので、再びその名を聞くことになるとは思わなかった。
 ――そう、初めてジンの名を聞いたあの時、フォルマティオも今のマティスと同じくらいの年だったのだ。

 控えめなノックの音が響いて、小さく扉が開いた。滑るようにして入ってきたマイアは疲れたように椅子に座り込んでいるフォルマティオを見ると笑った。
「女将に事情を話して部屋の都合をつけてもらってきたわ。右隣の部屋よ。この人は私が見ているから、どうかフォルマティオも休んで……。疲れているんでしょう?」
 マイアは小さな手桶に氷を入れていた。少し時間がかかったのは、わざわざ氷室までこれを取りに行ったからに違いなかった。
「すまない……」
 疲れた体を引きずるようにしてフォルマティオは立ち上がった。
「何かあったら、すぐ……」
「ええ、大丈夫よ。すぐ隣ですもの……」
 安心させるように笑って見せて、マイアはフォルマティオを扉の向うまで送った。その姿が隣の部屋に吸い込まれたことを確認して、マイアは音を立てないようにしながらそっとマティスの横に座った。
「本当に、綺麗な人。全てが……」
 そっと額に当てておいた布を取ると、氷を入れた水で温くなった布を冷やし、絞って再び額の上に置いた。その唇が乾いているのに気がつくと、そっと小さな氷の欠片を取ってそっとその隙間に滑らせた。

 ふわりと、焦点の合わないままマティスの瞳が開いた。今の氷の冷たさで目が覚めてしまったのだろう。
「お眠りなさい……。まだルカのソリが空を滑る時刻。太陽神ハロの愛馬はまだ遠くで飼葉を食べているわ……」
 そっとその髪を梳きながら、マイアは幼い日に母が子守唄のように聞かせていた言葉を繰り返していた。


 ぼんやりとした視界に何か優しいものが映ったような気がした。高い柔らかな声が優しく響いて、そっと髪を梳かれた。途切れ途切れに覚えている悪夢の感触を拭い去っていくような、そんな優しい響きだ。
「目が覚めたの?」
 それが夢の余韻ではなく、確実に自分の目の前にいて、そして優しげに自分の髪を撫でていると悟り、マティスは驚いたように飛び起きた。
 服が、変わっている。目の前にいる女性の横には、幾度か取り替えたらしい汗に濡れた衣服が畳まれて置いてある。
「君、誰?」
 大きな眼をさらに丸くしてそんなマティスの様子を見つめていたマイアは困ったような微笑を浮かべた。
「私の名前はマイア。フォルマティオからあなたの看病を頼まれたの…。――ごめんなさい。どうしても汗に濡れた服を着替えさせなければならなくて……、私……」
 俯くと美しい艶のある素直な黒髪が肩から落ちて揺れる。長い睫毛が伏せられて、瞼の下に濃い影を落とした。
「あ、ごめん。そういう意味じゃ、ないから……」
 チクリと小さな罪悪感がマティスの胸に湧いた。マイアは小さく笑うと、ごく自然な動作でマティスの額に自分の額を押し当てた。
「熱、下がったのね」
 焦点の合わないほど近くにあるマイアの黒い睫毛をただ呆然とマティスは見つめた。彼女のその行動が熱を測るためのものなのだと、その言葉を聞いて初めて分かる。
「フォルマティオを呼んで来るわ……。もう少し、横になっていて」
 出て行く後ろ姿を見送って、マティスはそっと自分の額に左手を押し当てた。間近に彼女の顔があった時、素直な黒髪が頬に触れて、甘い化粧粉の匂いと、花の匂いがした。白く自分を映す闇のような瞳は、不思議と暗いという感じを抱かせない。そして、髪を梳く指は細くて、どこまでも優しかった……。
 マイア……。海の女神の名前だ……。
 マティスはそのままゆっくりと掌を落とした。指先に一瞬、塞がれた瞼の上の戒めが触れ、マティスは瞳を閉じてその手を握り締めた。

「マティス、傷を見せてみろ……」
 扉を開けるなりフォルマティオは大股でベッドに近付き、マティスの布団を剥いだ。足に巻かれていた布を解くと、薬草はカラカラに乾いていたが、血は完全に止まりぱっくりと開いていた傷口は既にかさぶたでつながっていた。
「乱暴にさえ扱わないなら大丈夫そうだな……」
 手にしていた白い布を細く裂くと包帯代わりに器用に巻きつけ、指先に当たるところにだけ比較的薄い皮の当て布を中に巻き込んだ。
「今日一日はこのまま我慢していろ。俺はちょっと町に出てくる……」
 後のことは女将に任せてあるとだけ言って、フォルマティオは急ぎ足で出て行った。傭兵には傭兵独自の情報屋がいるという話を昔聞いたことがある。大抵、どこかの宿屋や店の主人がその町を訪れる傭兵から情報を仕入れ、それをまた別の傭兵に伝える。南の方の小さな諍いから国王の機嫌まで、集まる情報は種々多様で、その情報を元に傭兵は自らの次の進路を決めるのだ。きっとフォルマティオはその情報屋に昨日の刺客と関係することを確かめに行ったに違いない。
 結局、巻き込んでしまったなと、マティスは溜息をついた。不意に昨夜の悪夢が思い出されて、小さく身震いすると、マティスは膝を抱えた。
「――砂漠の星……っか……」
 自分の運命を握るその言葉を小さく唇に乗せて、マティスはまた、大きく溜息をついた。


 広場へと向かう細い道の片隅に、染みのように暗い影が立っていた。じっと広場を見つめて、そのまま背後を振り返る。男には連れがいた。暗い色合いのマントが風に靡き、その下に使い込んだ剣の柄がちらりと見えた。
「今日はさすがに来ないよな……」
 呟いた男の背後で、似たような背格好の男が溜息をついた。
「ま、昨日の今日でのこのこと広場に出てくるようなバカなら、とっくに捕まえてるさ。町の玄関口はガナに見張らせてる。まだこの町を出ていないならしらみつぶしに捜せばいいことだ……」
「そりゃ、そうだが、イルの兄貴。俺はどうも昨日一緒に逃げた奴が気になってしょうがねぇ……」
 不機嫌そうに口を結んだままのイルと呼ばれた男の顔を少し不安げな面持ちで見つめながら、男は言葉を続けた。
「ありゃ、絶対に傭兵だぜ。しかも、たぶん、それなりに使える奴だ…」
「なにを神経質になってんだ、デン。ふん、たかが傭兵一人増えたからって変わるかよ。俺たちがやることは町から追い立てて街道脇で魔道士を呼びつけることだ。後始末は奴らがやるだろう。餓鬼は生け捕りにしなきゃならないが、連れは関係ないんだろう?奴等は研究材料に飢えているから大喜びだろうぜ……」
 イルは小さく額に十字を切った。
「不信心者の俺でさえ、エクリヴィアラに祈りたくなるぜ。死人を切り刻んで研究の材料にするなんざ、魔道士が同じ人間なんて思えないね……」
 デンも慌てて額に十字を切った。
「でも、兄貴、この町が小さいとは言っても宿屋は30軒はある。しけこみ宿まで入れたらその倍だ。しかも同じ宿に居続けているとはかぎらねぇ」
 イルはゆっくりと立ち上がり、マントについた埃を払った。
「傭兵なら傭兵が集まる場所へ行ってみればいい。人手が必要なら、昨日傍にいた成金のデブを使えばいい。あのお綺麗な餓鬼にご執心のようだったから、ちょっとつつけば食いつくだろ……」
「傭兵の集まるところ?」
「お前は夜盗あがりだから知らなくてもしょうがないか。どの町にも一箇所は傭兵の溜まり場ってもんがあるのさ」
 にやりとイルは笑った。
「ガナを呼んでこい。もう、昼過ぎだ、これからの出発じゃ日のあるうちに次の宿までたどり着けない。今日は多分、町から出はしないだろ。あの成金デブを捜すぞ。そして連れの特徴を聞き出して、餓鬼捜しを焚きつける」
 弾かれたように飛び出していくデンの背中を見ながら、イルは小さく笑った。
「餓鬼一匹に大クリアス金貨500たぁ、ぼろい儲けだなぁ」
 口元に冷たく微笑を浮かべながらそのまま視線を広場に移し、そこで忙しく働く人の群を、どこか遠い景色でも眺めるかのように、イルはただ見つめていた。

第一章『真実の扉』 (3)

 宿屋の扉をくぐると、女将が驚いたように奥から飛び出してきた。
「ティオ、いったいどうしたの?」
 抱きかかえられている少年の足に血が滲んでいるのを見るや、女将は慌てて手当ての道具を取り出した。

「護衛の仕事を受けたんだが、なんだか人相の悪い男たちに追われているようだ。もしも誰かが尋ねてきても、知らぬ存ぜぬで通してくれ」
 その道具を受け取りながら部屋で手当てをするからと言うと、女将は承知したというように大きく頷いた。
「食事も部屋に運ばせるわね。すぐにお湯を持っていくから、傷口を洗うといいわ」
 そのまま両手が塞がっているフォルマティオのために部屋の扉を開けてやると、すぐに女将は手桶に入れたお湯と清潔な布を数枚持ってきた。
「血で汚れた布は処分するからあとでまとめて渡してちょうだい」
 比較的平和な街とはいえ、訪れる傭兵の数も多いこの街で長年宿屋を開いていれば、年に数回はこんな出来事にも遭遇する。ましてそれがフォルマティオの頼みとあれば、否やはない、自分の身を危険に曝してでも出きる限りの事はすると、そう言い残して女将は出て行った。

 フォルマティオはマティスをベッドに腰掛けさせると、足袋を脱がせ巻いておいた包帯を取った。思ったよりずっと傷は深いらしく、まだ血は止まっていない。湯に浸した布でこびり付いた泥を落としそっと傷を湯に入れると、傷口から滲み出た血でゆっくりと手桶の湯が赤く変わっていく。
「っ……、痛い……」
 十分に傷口を洗うとざっと回りの湯を拭き、傷口を布で押さえる。
「自分で押さえてろ……」
 マティスに傷口を押さえさせると、フォルマティオは女将から渡された手当ての道具を広げ、幾つかの薬草を両手で揉み始めた。
「それ、何?」
「リョウヅルランとシケイ、そしてヤマギの葉だ。しみるし、一晩ほど熱は出るが、傷は確実に早く治る」
 布を取ると幾分か血は止まったようだ。ぱっくりとあいてしまった傷の上に揉んだ葉をのせると、布できつく縛った。マティスの顔が苦痛に歪む。揉んだことで十分に絞り出されてきた薬草のエキスが直に傷口に付き、激しくしみるのだ。
「食事をもらってくる。薬が効き始めると熱が出てくるから、その前にできるだけ腹に入れておくんだ」
 フォルマティオは汚れた布と手桶を取り上げるとゆっくりと扉の向うに消えていった。その後姿を見ながら、マティスはそっと溜息をつく。

 フォルマティオには感謝すべきだろう。矢で襲われた時も、追っ手に見つかりそうだった時も、彼が居てくれたからこそ逃げ延びてこられたのだ。つい問われるままに自分の生い立ちの一部を話してしまったが、逃れられなくなると言っても、彼は顔色も変えなかった。全て話すべきなのだろうか。
 確かにフォルマティオは稀に見る剣士だ。右目を潰されていながら傭兵としてやっていけるだけでなく、優秀であるということは非常に稀なことだ。加えて人望もある。味方にするには心強い存在だ。だが、だからといってフォルマティオを巻き込んでよいものか。
 まさかこんなに追っ手が迫っていたなんて。次の町に行くまでの、ただそれだけの護衛を頼むつもりで居たのに。自分の、この血なまぐさい逃走劇に何も知らない彼を巻き込んでもいいのか。
「砂漠の、星……」
 マティスはゆっくりと自らの封印された左眼に両手を押し当てた。
 忌々しい太古の封印め。何故、自分が器として選ばれてしまったのだろう。

 その時、ゆっくりと軋む音を立てて扉が開いた。女将が両手に盆を持ち、そっと気遣わしげにマティスを覗き込む。
「痛むかい?消化のいいものばかりを選んできたけど、もし、夜中に何か欲しくなったら、遠慮せずにね。私は大抵、夜は起きているから」
 マティスは小さく頷いた。母が居るとすればちょうどこれくらいの年だろうか。ベッドの傍らに持ってきたものを置くと、女将は体を起こそうとしたマティスをそっと支えた。
「後で氷を持ってきてあげよう。シケイを使うと熱が出るから……」
 温かな肌だ。柔らかく、微かに甘い化粧粉の香りがする。
「すいません……」
 そっと銀の髪を幾度か梳いて、女将は立ち上がった。ゆっくりと扉の前まで進んだ後、不意に思いついたように女将は振り返った。
「まだ、名前を聞いていなかったね。私はアザラ。この『カナリの家』の女主」
「マティス。マティスと言います……」
 アザラはただ小さく笑って頷くと、ゆっくりと扉を出て行った。入れ替わるように入ってきたのはフォルマティオだ。フォルマティオはベッドに置かれた食事にマティスがまだ手をつけていないのを見て取ると、小さく溜息をついた。
「食えるだけ食っておけ。食ったらすぐ横になるんだ」
 そして、自分も持ってきた盆をテーブルに置くと、まだ湯気を立てているスープを啜り始めた。マティスもゆっくりと木の器を手にして甘い野菜の香りのするスープを口に含んだ。しばらくはお互いが食事を摂る音だけが響いた。

「何故狙われている?お前はいったい何者なんだ……?」
 不意に思い出したようにフォルマティオが呟いた。マティスは手を止めて、しばしフォルマティオの問い掛けるような顔を眺めた。そして、心を落ち着かせるようにひとつ、深く溜息をつくと、そっと、スープの器を盆の上に置いた。
「僕は、まだ臍の緒も付いたままで、エクリヴィアラの神殿の前に捨てられていた。包んでいた布は貧しいもので、最初は神殿が関係する孤児院に収容されるはずだったそうだ。ところが、当時、神殿には光の魔女と呼ばれるほどの偉大な魔道使いがいて、僕を見るなり彼女に神託が降りた。『この者は器となるだろう。その器に満たされるものを我々は選ばねばならない』彼女はそう言って、僕の左眼に口付けたという。僕はそのまま神殿の奥深くに隠された……」
 マティスは無意識のうちに、封印された左眼を確かめるようにその細い指で刺青をなぞった。
「幾人もの偉大な魔道使いが僕を占った。皆、口をそろえて僕の未来は白紙だと語った。僕は魅入られやすい者として、全身に銀の戒めを受けることになった」
 フォルマティオはベッドから投げ出されている細い足に、蛇のように巻きついている銀の鎖に思わず視線を走らせた。それに気がついたのか、マティスは微かに唇を歪めた。
「物心ついても、僕は神殿の奥から出ることを許されなかった。僕は単なる器で、もしもそこに闇の神カノープスや戦いの女神クラシアが宿ったならば大いなる災厄となるだろうと、神官たちがそう告げたためだった。12になって、ようやく少しずつ神殿以外の場所を教えられはじめたけれど、その矢先のことだったよ。彗星が空にたなびいて、そして神殿は燃えた。大神官は僕の左眼を封印し、僕を炎の中から逃がすために命を落とした。世界をよく知らされないまま、僕は放り出されたんだ…」
 マティスはそっとフォルマティオの顔色をうかがった。フォルマティオはじっと身動きもせずにマティスを見つめている。
「最初は、その炎が誰の仕業かなんて分からなかった。けれど、それ以来、僕は常に身の回りに邪な空気を感じるようになった。その邪な空気が魔都カノーリアからの刺客だと気付いたのは、2年前。僕は極力、力を使わないようにしながら、大神官が最後に言い残した『砂漠の星』を見つけるために旅している…」
 マティスは急に寒気を感じてブルリと震えた。ゾクゾクと背筋を這い登るような寒気が体を襲う。
「熱が出始めたか、横になれ」
 フォルマティオはマティスを横たわらせ、首まですっぽりと布団をかぶせた。
「カノーリアの将軍ジンは魔王と呼ばれる男だ。追っ手がもうここまで来ている。今日は助けてもらって助かった。だから、どうか、明日にはこの町から離れて……」
 マティスは重い頭痛を感じながらなおも言葉を繋げようとした。フォルマティオはそんなマティスを落ち着けるように軽く布団を叩いた。
「依頼は受ける。報酬は後払いだ」
「ダメだ……。ダメだよ、フォルマティオ……」
 うわ言のようにマティスは呟いた。クラクラと眩暈がする。こめかみのあたりでガンガンと銅鑼を打ち鳴らすような音がして、ガタガタと震える指先の感覚がもうない。
「寝ろ…。今晩一晩の辛抱だ」
 遠くでフォルマティオの声を聞きながら、マティスの意識はゆっくりと闇の中に沈んでいった。


 四角く切り取られた空が紫に染まっていた。シャトアの一番星だけが、その薄明るい空の中でようやく輝いているのが見える。本当に今は夜なのだろうか。闇を照らす月の陰さえないのに、空は不思議な明るさが宿っている。
「彗星の長い尾は魔を下界に落とすためのカノープスの策略だというのは本当なのかな……」
 石で出来た窓から身を乗り出すようにして少年が呟いた。細く白い足には銀の鎖が巻かれている。それは物心つく頃から体を取り巻いていた。魔を払うためだと、嫌がって外そうとする度に神官から聞いた覚えがある。

『あれは、僕だ。5年前の、あの夜の僕だ』
 マティスは少年の方に手を伸ばした。炎がやってくる。その前に気付くのだ。いま少し闇からの刺客に気付くのが早ければ、大神官はその命を落とさなくても良かったのだから。
『熱い……』
 マティスは掌に燃えるような熱を感じて、不意に伸ばしたその手を引っ込めた。

「マティス、逃げるのだ。その左眼の封印をといてはならぬ。神から逃げよ」
 熱い炎の壁。大神官の唱える清めの水の呪文だけが低く神殿に響いている。不意に低い地鳴りが響いて、ゴウと大きな炎の柱が立った。

『大神官さま……』

「神から逃げるのだ。砂漠の星を拾い、その身を光の中に置くのだ。お前の魂に刻まれた名前を間違えてはならない」
 柱は大神官の姿を飲み込み、その体をゆっくりと黒く変えていく。全身を炎に巻かれ、既に形さえ変えながらも、大神官は呪文を唱えることを止めようとはしない。

『大神官さま……』
 マティスの伸ばした手は空を切った。無情な炎がマティスの指を舐め、痺れるような熱さにマティスは悲鳴をあげた。

「お前はエクリ……」
 黒く、形を変えた大神官の姿が、炎の中で音を立てて崩れた。崩れてもなお、その執念の力は幼い少年の退路を確保するために炎に穴を穿っていた。

『大神官さま。魂に刻まれた名前とは何ですか?砂漠の星とは?僕は、ただ、逃げ続けるしかないのですか?』
 不意に頬に涙が落ちた。夢の中でさえ、自分は大神官を救うことは出来ないのだ。誰かの命を犠牲にしてまで、どうして自分は生きていなければならないのだろう?

「逃げろ……」
 誰かが叫んだ。
「逃げろ、マティス」

『フォルマティオ!』

 逞しいその褐色の体が炎の中に飛んだ。チリチリと髪が焦げる嫌な匂いがする。

『フォルマティオ、嫌だ!僕は……』

「逃げろ!」
 フォルマティオの剣が炎を切りつける。火の粉は赤い雨のようにフォルマティオの体に降り注いだ。切れば切るほどに増えていく炎の数はフォルマティオの体を取り巻き、今にもその体を飲み込みそうになる。
「マティス、逃げるんだ!早く!」
 フォルマティオの体が不意に炎の中に消えた。それでもその影は剣を振りつづけている。

『フォルマティオォォ!』


 フォルマティオはうなされているマティスの顔を覗き込んだ。じっとりと浮かんだ汗がその銀髪を額に張り付かせている。上気した頬と対照的に唇は乾き、白く色がない。
 体を拭いてやるか。
 フォルマティオは女将が新たに持ってきた手桶に入れておいた布を取り出し、固く絞った。ゆっくりとまずその頬を拭き、額に浮かんだ汗を拭い取る。
「フォルマティオ……」
 うわ言で小さくマティスがその名を呼んだ。フォルマティオは小さく笑うと、そっとその乾いた唇を拭ってやる。眠っているマティスの顔はまだあどけなくさえある。どこか人をくったような生意気な仕草も、長い放浪の旅の中で身につけてしまった所作に違いない。
 そっと布団をはぐと、フォルマティオはその体に身に着けた衣服に手をかけた。短い胴着を脱がせようとしたその時、思いもよらないことに気付いてフォルマティオは慌てて手を止め、再び布団を掛けなおした。
 確かに、非常にささやかではあるが、短い胴着の下には乳房があった。広場でその細い体を半ば露にしたときも、確かにそう感じて違和感を思えたのだが、その身のこなしや言葉遣いですっかり少年と思い込んでいたのだ。

 困った。困ったぞ。
 フォルマティオはしばし腕を組んで考え込むと、不意に思いついて慌てて部屋を出た。だが、下の酒場についたとき、フォルマティオは夕食の客あしらいに忙しい女将の姿を見て、再び考え込んだ。
 女将に頼めれば何とかなると思ったんだが。
 迷惑は掛けたくない。既に多大な迷惑をかけている身だ。
 困ったフォルマティオは所在なげにその瞳を彷徨わせた。酒場の端から、誰かが小走りに近付いてくるのが見える。流れる黒髪に漆黒の瞳。その瞳はどこか嬉しげに輝いている。
「マイア!」
 少女は名を覚えていてもらえた嬉しさで、破顔した。
「フォルマティオ」
 フォルマティオはそっとマイアを傍らに寄せ、あたりに怪しげな人物が居ないことを確認した。
「マイア、頼みたいことがあるんだ、ちょっと部屋に来てもらえるかな……」
 マイアは小さく首をかしげ、それでも微笑んだまま頷いた。その背中をそっと押して促すと、フォルマティオはざっとマティスのことを説明した。
「仕事の依頼人なんだが、怪我をして熱を出している連れが居るんだ。君に彼女の看病をしてもらいたいんだが……」
 部屋にマイアを通すと、フォルマティオは絞った布を彼女に持たせた。
「体を拭いてやって欲しい。俺は外に出ている」

 マイアはフォルマティオの後姿が消え、扉が閉まったことを確認すると、そっとマティスの顔を覗き込んだ。
「綺麗……」
 熱にうなされ、髪を乱していても、その白い顔は見たこともないほど美しかった。マイアは微かに震える手で布団をはぐと、そっと首筋に浮いた汗を拭った。
「フォルマティオ……熱い……」
 小さなマティスの呟きを聞き取ると、一瞬その手を止め、マイアは再びしげしげとマティスの顔を再び覗き込んだ。苦しげに寄せられた眉、熱でカラカラにひび割れた唇、動いた拍子に額を覆っていた髪がバサリと落ちて、その封印された左の瞼が露わになった。
 ――なんて、残酷な。こんなに美しいのに、こんなことをされているなんて。
 そっと額の汗を拭ってやりながらマイアは呟いた。

第一章『真実の扉』 (2)

 ゆっくりと地面に落とした布を拾い上げ、その細い肢体を隠すと、マティスはフォルマティオを振り返り笑った。
「あんたの雇い賃だよ。これくらいで足りる?」
 フォルマティオは睨むようにマティスを見つめた。

 何かに腹が立ったというわけではない。だが、どうにも釈然としないものがある。
「お前の依頼は断る」
 ぶっきらぼうにそう言うと、フォルマティオはくるりとマティスから背を向けた。

 気に入らない。自分は金が良ければどんな依頼でもやるような傭兵ではない。困っているなら依頼云々ではなく助けてやるだろう。なのにこの様子は何だ?踊り金を群集から巻き上げ、さらにその金で仕事の依頼をするだと?気に入らない。
 金は皆に返せと言うために振り返ったフォルマティオの視界に、マティスに近付く一人の男が入った。

「なにか?」
 細い、マティスの声がする。
 太ったその男は上等の服を着て、その指に異様なほどの宝玉をつけ、身なり自体はきちんとしている。だが、どこか醜悪な印象を受ける。男は分厚い唇に下品な笑みを浮かべてマティスの全身を舐めるように見つめた。
「素晴らしい舞だった。私の屋敷でもう一度その舞を見たいのだが…」
 ちろちろと瞳の奥に垣間見える下卑た欲望の色に吐き気さえ出そうになる。
「それは……、嬉しいお言葉ではありますが……」
 断ろうとしたマティスの手を強引に掴むと、男は言葉をつなぐ。
「褒美は金がいいか?美しい服か?お前のその美しい瞳に合わせて紫水晶の額飾りも作ってやろう」
 言いながらぐいぐいと油ぎった顔をマティスに近づけてくる。
 フォルマティオはすぐにそれがこの街でも悪名の高い貴族だということがわかった。金と脅しと暴力で自分の望むものを奪い、飽きたらゴミのように捨てると、聞いた覚えがある。
「それは……」
「主に何か御用でしょうか?」
 不意に逞しい腕がその男の腕を振りほどいた。常に剣を携帯している者特有の指の変形が見える。
「フォルマティオ……」
 あからさまにほっとしたようなマティスの声色にフォルマティオは小さく苦笑した。
「いや、何。あまりに美しい舞だったのでな……」
 男は一瞬ひるみフォルマティオを見上げ、その右頬の傷を見るや顔を強張らせた。モゾモゾと訳の分からないことを呟きながら腕を引っ込め、貼り付けたような笑顔を二人に向けて後退りする。

 その時、空気が鳴った。

「危ない!」
 フォルマティオはマティスを横抱きに抱くと、飛び退る。今まで二人が居たところに黒い矢が二本突き刺さっていた。
「ひ、ひ~っ」
 マティスに声をかけていた男は潰れたような声を出しながらしりもちを付き、そのまま這いずるようにして見苦しくもがいた。狙われたのはこの男なのだろうか、だとしたら別段助けてやる必要もないのだがと、フォルマティオはいささか意地の悪い自分の考えに一瞬苦笑を浮かべた。
「誰が……」
 あたりを見回そうとしたその時、再び空気が鳴り、足元に矢が突き刺さった。矢の刺さり具合からいって、おそらくはかなり遠いところから射ているに違いない。
 狙いはフォルマティオか、マティスか。
 三度、空気が震えた。なんとあっても標的を仕留めようという気らしい。
「マティス、逃げるぞ……」
 フォルマティオはマティスの手を掴むと、矢の降ってきた方向とは正反対に位置する道に引きずり込んだ。背後でようやくその矢の襲撃に気がついた群集たちが悲鳴をあげ、広場は騒然とした雰囲気に包まれはじめていた。


 横道に入りしばらく細い路地を走って、ようやく広場の喧騒も届かないような場所までたどり着いた。多くの町の例に漏れず、このタロンもまた広場を中心として放射状に広がった道とそれを繋ぐ横道で町が作られていて、とにかく身を隠すだけならいくつも方法がある。
「ここまで来れば、大丈夫か……」
 さすがにフォルマティオも息が上がってしまっている。マティスにいたってはもう、引き摺られ口さえもきけない。
 ようやく掴まれていた腕を離されると、マティスはずるずると傍の壁にもたれかかった。
「やっぱ、目立つことはするもんじゃないな…」
 投げ出されたその細い足に血が滲んでいるのを見て、フォルマティオは傍らにしゃがみこんだ。薄い足袋しか着けていなかったために走っているうちに右足の親指の爪が剥がれたらしい。足袋を脱がせ、携帯していた酒を傷口にぶちまけると、マティスが悲鳴をあげた。
「ちょ……、乱暴な……」
 そんな様子は気にもとめず、フォルマティオは自分の手首に巻いていた包帯をとって器用に巻きつけた。
「あんた用意いいね」
「商売道具だからな」
 立ち上がろうとするマティスを止め、脱がせた足袋の足先を剣で切り落として再度履かせる。痛むのかちょっと触れただけで小さな悲鳴が上がった。
「お前、本当に狙われていたんだな」
 微かに驚きさえ含んだフォルマティオの言い草に、ようやく手当ての終わった足をそっと体のほうに引き寄せて、マティスは呆れたような声を上げた。
「だからあんたに護衛を頼んだんだろう?まったく、依頼の金を作るためにあんな自殺行為とも言えるような派手な真似までしたっていうのに……。おかげで狙われるは、足は怪我するは。しかも当のあんたは依頼は断るなんて言うし……」
 急にしょんぼりと小さくなってしまったマティスを見て、フォルマティオは頭を抱えた。根本的にどこかこのマティスという人間はフォルマティオの常識からずれているようだ。妙に大人びた世間馴れしたようなことをするかと思えば、子供のように目的のために突っ走ってみたり、言霊を使って人の魂を奪うかと思えば、うまくいかないと拗ねてみせる。
 血のにじんだマティス爪先を見て、フォルマティオは溜息をつきながらマティスの横に腰を落ち着けた。
「何故狙われている。相手は誰なんだ」
 探るようにマティスの片眼がフォルマティオを見つめた。吸い込まれそうなほどに透明な紫の瞳は微かに不安の色さえ浮かべている。
「知ったら、逃れられなくなるよ……」
 そう言ってもフォルマティオの顔色が全く変わらないことを見て取って、マティスはゆっくりと左眼の飾りを取った。キラキラとした輝きが消えると、その銀の髪をぐいと持ち上げる。美しく閉じられた左の瞼の上に、黒々と三日月の刺青が横たわる。長い睫毛の上から目を凝らさないと良く見えないほどの細い糸がその上下の瞼を縫いとめていた。
「新月の封印…?」
 今までこの目で見たことはなかった。神官や神女の中でも特に霊能力の高い者、魔力の強い者は、その片目を封印することによって魔に魅入られることを避けるという。だが、そうまでしなければならない者は稀だ。しかも、封印を抱いた人間は一生を神殿で終えることが多い。最近では、もう百年ほども生きているという光の大魔道使いがそうだったと言うが、二年程前、風の噂で息を引き取ったと聞いた。
 マティスのあの力は、封印されてまでもあれほどの威力を持っているとでも言うのだろうか。
「そう。五年前に帝国で起こった大きな事件を覚えているかい?夏の暑い日のことだったけど……」

 五年前の夏。たしか、巨大な彗星が空を覆い、夜だというのに赤紫に空が照らされていた。彗星は凶星だと言われ、皆、不吉な兆しに怯えていたが、それを証明するかのように光の女神エクリヴィアラの神殿が焼け、大神官が焼死した。
「僕が十二の時だった。僕が隠されていたエクリヴィアラの神殿は炎の中に消え、僕はこの瞳を封印され、闇の追っ手から逃げることになった……」
 その時の様子を思い出しでもしたのだろうか、マティスは小さく震えて両手で両肩を抱きしめる。はらりと髪が落ちて、無残に封じられている左眼を隠した。
「お前、神官だったのか?」
「いいや……」
 マティスがそのフォルマティオの声に答えようとした時、不意にフォルマティオが片手でその唇を覆った。
「しっ」
 耳を澄ますと、微かではあるが数人の人間の荒々しく走ってくる音が聞こえる。
「用心に越したことはない。身を隠そう……」
 マティスの体を横抱きに抱くと、フォルマティオは周囲に目を走らせた。傍らの民家の片隅に物置らしい、材木や折れた木々の枝の散乱した小さな小屋があることを見て取ると、敏捷にその隙間に身を隠し、外から見えそうな体の節々を枝や材木でカムフラージュする。不自然な形に体を曲げつづけるのは、時間が経てば経つほど苦しくなっていくが、他に身を隠せる場所はなかった。
「ちょっとの辛抱だから……」
 苦しげに顔をゆがめているマティスにそっと囁くと、フォルマティオは耳を澄ました。足音は確実に近くなってきている。音から察するに、二、三人の人数だろうか。次第に足音は鮮明になり、声さえ聞き取れるほどになった。

「おい、居そうか?」
「いや……」
「確かに血の痕はこっちに向かっていたんだろうな?」
「だと思ったんだが……、さっきの曲がり角で横に入ったのかな」
「くそ、ようやく見つけたと思ったのに」

 血の痕!
 しまったというようにマティスが唇を噛み締めた。思っていたよりずっと早い段階で怪我をしてしまっていたらしい。走っていたときには全然気がつかなかったのだが、身に着けていたのが薄手の足袋だったために、地面に血の痕を残してきてしまったのだ。
 思わず体を硬くした拍子に先ほど手当てされた場所に材木の角が当たった。
「っ……」
 思わず声を殺した時にはもう遅かった。
「今、声がしなかったか?」
「声?」
 万事休す。男たちの声は近付いてきている。フォルマティオはそっと剣に手をかけ、その声から飛び出す距離を測った。一撃で剣の届く範囲にきたら飛び出して、まず一刀目で一人を確実にやらなければならない。声から判断して男は三人。二人に減らせばそれなりの使い手相手でも何とかなる。
 次第に近付いてくる声に向けて体をバネのように硬くしたその時だ。ガタリと体の横で音がして、何か小さな生き物が体の横をすり抜けた。

 にゃ~ん。

 甘えたような声がして、その小さな生き物が敏捷に材木の上から民家の屋根へと飛び移った。
「猫か……」
「くそ、手前に戻って、横道だ」
「なんとしても見つけろ……。そうしないとジン様に申し訳がない……」
 ゆっくりと声と足音は遠くなっていく。十分にその足音が遠ざかるまで、フォルマティオは息を殺しつづけた。最後に聞こえた男の言葉に、一瞬カッと全身の血が熱くなったような気がした。

 ジンと言った。
 ジンという名はそうそうある名ではない。なぜならジンという言葉には魔王という意味があるからだ。あのジンに違いない。ジン・オロバスロイム、魔都カノーリアの支配者。魔都カノーリアと共に九年前、あの男は水の中に沈んだのではなかったのか。
 耳を澄ましても全く足音が聞こえないことを確認して、フォルマティオはようやく全身を覆う木々の枝を体から振り落した。マティスの上にかかってる材木をよけると、さすがに苦痛だったのか青ざめた顔が覗いた。
「大丈夫か……」
 マティスは立ち上がろうとした拍子にまた足をぶつけて、小さくうめいた。巻いた包帯にも新たに血が滲んでいる。フォルマティオは仕方ないというようにマティスを抱えあげると、用心深くあたりに視線を走らせた。
「宿に戻ろう。あの宿はこの町に来た時はいつも使っている宿で、女将は信用がおける人間だ。とにかくこの傷を何とかしないと……」
 抱えあげた体は頼りないほど細く、そして軽い。もしもマティスを狙っているのがあのジンだとしたら、追っ手が魔道士ではなかったことを幸運に思うべきだろう。もっとも、こんな田舎の宿場町に不意に魔道士が訪れたらそれだけで人の噂になり、隠密でなど動けないため、差し向けたくても差し向けられなかったのかも知れないが。

 フォルマティオはマティスを抱えたまま走り始めた。幸い宿屋は男たちが消えた方向とは逆の方向にある。

 その後姿を紅い二つの瞳がじっと見つめていることなど、二人はまだ知るはずもなかった。

第一章『真実の扉』 (1)

 目の前を優雅に歩いていく足首には銀の華奢な飾り輪が付いていて、歩くたびに拍子を取っているかのように小さく硬い響きをあげている。もともと足首の飾り輪は奴隷に付けられるもので、このように人前に曝すような種類のものではないのだが、白い肌に映える紅い宝玉の付いた飾り輪は美しく、誰もそれを見て眉をひそめるものなどいなかった。おそらくはお気楽貴族のちょっとしたお遊びだとでも思っているのだろう。

 今、フォルマティオの目の前を歩き、いささか彼を悩ませている人物の名はマティス。細身の身体はどこか儚げだが、その動きは敏捷で、肩にかかる僅かに癖のある細い銀の髪と日に焼けない白い肌は最上級の美を人に予感させずにはいない。
マティスがお気楽貴族なら、フォルマティオはそれを守る騎士とでも思われているだろうか。砂漠のもの特有の浅黒い肌と琥珀の瞳は年の割に落ち着いていて優しげにさえ見えるものを、その右目から頬にかけての引きつった大きな傷がそれを裏切る。

 なんでこんなことになったんだか。

 フォルマティオは小さく溜息をついた。マティスという一種独特の魅力を持った人物は眺めているだけなら嫌な奴ではない。だが、なにしろ第一印象が悪かった。


 半年におよんだ護衛の仕事をようやく片付けて、フォルマティオはしばらくぶりの豪勢な温かい食事にありついていた。

 傭兵稼業も既に九年。受ける仕事は辺境の隊商の護衛など比較的まっとうなものが多い。傭兵の中には知らないうちに闇の仕事をつかまされ、事実を知った時には後の祭だったという者も多いのが現状だ。だが、不思議とフォルマティオの周りではそんな妖しげな仕事の依頼は聞かない。闇の仕事の方が金は良いが、一度闇に手を染めた傭兵の末路は悲惨極まりないのだ。
とはいえ、隊商の護衛は気が抜けない。特に辺境の地を行き来する隊商の護衛ではゆっくりと眠る暇さえないく、夜盗、帝国と辺境の部落との小競り合い、夜の闇に潜む禍々しい者達との我慢くらべに似た持久戦など、挙げればきりがない。そんな生活にも慣れたとは言え、仕事明けにはゆっくり宿をとって体を休めなければならない。

 疲れた体を引きずって、一番近いタロンの町に早々に宿をとった。小さいながら歓楽街もあるタロンは大陸のちょうど西南あたり、南のヴァイア連邦へと足を進める者、ヴァイア連邦から帝国へ進む者で賑わっている。タロンの住人も半数ほどがヴァイア特有の褐色の肌をした者達で、声が大きく陽気で、その活気だけなら首都エクリアの街と肩を並べるほどだ。

「お兄さん、遊ばない?」
 不意に声をかけられて、フォルマティオは口をつけていたグラスを置く。ヴァイアの血の混じった少し浅黒い肌の少女はまだ幼さの残る顔に紅をひき、大人びたしなを作ってフォルマティオの腕にもたれかかった。
「お兄さんもヴァイアの人?」
 顔を覗き込んで、少女は微かに息を呑んだ。
 その引き締まった背中を見たときから、その人物が傭兵だということはすぐに分かった。大抵このタロンに来る傭兵は隊商の護衛の帰りで、皆一様に埃のついたマントと使い込んだ剣を下げ、少し疲れた顔に開放感を漂わせてやってくる。そして久しぶりの酒を美味そうにちびりちびりとやっているものだ。傭兵の身体の傷は勲章と言ってもいい、大抵はその後の床の中でその傷の自慢を聞かされることになる。だが、今夜の稼ぎと目標を定めたその人物の顔には一目見たら忘れられないだろう傷があった。

 右目から頬にかけての大きな引きつれた古い傷跡。それは普通なら醜いものの象徴のようにも捉えられてしまうかもしれない。だが、残った左眼が優しげな琥珀色に輝いているのを見て、少女は不意にうろたえた。
「――あ、あたし、びっくりしちゃって……」
 傷さえなければたちどころにここにいる女性全てを魅了してしまうに違いない。特に美しい顔立ちというわけではないが、人を安心させ、信じさせ、夢中にさせてしまう何かがその瞳にはあった。
「驚かせたね……」
 笑うと余計に優しくなる瞳に、少女は思わず自分のだらしない身体を立てなおし、大人しくフォルマティオの隣に腰掛けた。
「ううん。大丈夫。お兄さんは砂漠の人なのね」

 琥珀の瞳は大陸の東南にある砂漠の民の特徴だ。この大陸の人々は大抵はその瞳の色で出身を知ることができる。
 大陸の中央部を占める帝国と北にあるゼアダの民は明るい髪の色と冴えた青空のような青い瞳を。南のヴァイア連邦の民は黒い髪と黒い瞳を。そして砂漠の民は褐色の髪と琥珀の瞳を。ヴァイアを除いた場所では白子も多く、ことに帝国では白子特有の白髪と紅玉の瞳もよく見ることが出来た。
 今、フォルマティオの前にいる少女は、ヴァイア特有の艶のある黒髪と濡れたような漆黒の瞳をしている。

「君はヴァイアから?」
 少女は恥ずかしげに顔を伏せた。
「そう、3年前にここに来たの。弟と一緒に」
 3年前というとヴァイア連邦がようやく連邦国家の樹立に成功した年だ。それ以前はヴァイア国とそれ以外の島々の間で抗争が絶えなかった。この少女もまた、その家族を戦争の犠牲にしただろうことは容易に想像することが出来た。
「名前は?」
「マイアよ」
 海の女神の名を彼女は言った。
「父は漁師だったから、海の女神の名を私につけたの」

 フォルマティオはひとしきりマイアと言葉を交わすと、黙って少女の掌に小クリアス金貨を握らせた。
「これを持って、今日はもうお帰り」
 マイアは驚いたようにフォルマティオの顔を見上げ、微かに目じりを吊り上げた。
「私、施しは受けないわ」
 勝気な黒い瞳が半ば怒りに燃えている。
「施しじゃない。これから先の俺の航海が常に恵まれているように、海の女神に捧げるんだよ」
 睨み据えていたマイアの瞳に微かに涙が浮かんだ。伏せた睫毛が小さく震えている。
「弟が待ってるんだろ?」
 不意にマイアは立ち上がると、その両手を自分の胸に押し当てた。

「海の女神マイアの名に於いて、全ての海の精霊に祈る。このマイアの口付けを持つものを常に助けよ。その者の身が海に落ちる時はその身を陸に導き、嵐が打つときはその船を守り、闇の中ではその道を照らせ」
 そしてそっとフォルマティオの額に口付けると、小さく笑った。
「いつも、父が漁に出るときはこうして祈っていたの。父はどんな嵐の中からでも無事に帰ってきたわ」
 海の女神の名前は伊達じゃないのよ、と明るく笑うと、マイアは微かに頬を染めた。
「お兄さんの名前、聞いてもいい?」
「フォルマティオ」
 フォルマ《真実の》ティオ《扉》、良い名だとマイアは笑った。


 マイアを見送り、その笑顔を思い出しながら呑んでいたら、いつのまにか気付かぬうちに深酒になっていた。宿の女将に促されるようにして部屋に入ったことまでは覚えているが、その後の記憶がない。夜中に誰かに呼びかけられたような気もするのだが、それが夢であったのが現実であったのかさえ定かではなかった。

 翌朝、軋む体を起こすと、自分の隣に見慣れない物体がいた。それが今、目の前を歩いているマティスだったのだ。

 お前は誰だと問うフォルマティオに、マティスは、あんたが入ってもいいって言ったんだぜと意味ありげに笑って見せた。慌てたのはフォルマティオだ。思わず自分の姿を眺めてその意味ありげな笑みの意味するところを探ろうとしたが、別段服が乱れているわけでもない。マティス自身もほとんど外から帰ってきてそのまま寝ましたというような服装だ。
「くくく。嘘だよ。嘘。宿に転がり込んだのが遅くてね、部屋がなかったから女将に嘘をついたのさ」
「嘘?」
「そう、ここにいる傭兵さんに用があるってね。大抵この時期一人は居るからさ」
 フォルマティオは呆れたようにマティスを見つめた。少女とも少年ともつかない中性的な顔立ちに肩までの銀髪、左眼は髪で隠れているが、髪の隙間から覗く右の瞳は驚くほどの透明な紫玉。勝気な少女か、恐ろしく線の細い少年か、ちょっと見では判断がつかない。だが、布団の中で触れた筋肉の感触は、おそらくは少年の持つものだ。だとしたら奇跡のように美しい少年だと言わねばならないだろう。

「僕の名前はマティス、気楽な旅芸人、ってとこかな」
 そう言うとふわりとベッドから飛び降り、テーブルに置いてあった銀の飾りを手に取った。それを左眼の上に付けると、外れないように髪に数個所を止める。繊細な銀の輝きに彩られて、不意に白い肌が艶めいた。
 マティスはゆっくりとフォルマティオを振り向き、その右頬の傷を見ると笑った。
「まるでこうすると僕とあんたは一対みたいだね。僕のこの左眼も用を成さないのさ」

 立ち上がったマティスの姿を見ると、フォルマティオは深く溜息をついた。
 細い体は纏いつく布の上からでも均整の取れた美しいものだということが見て取れる、その上に銀で飾り立てられた美しい顔。昨晩の嘘のおかげで自分が女将にどう思われてしまったか、想像がつくというものだ。
「何怒った顔をしてるのさ。大丈夫、女将には仕事の依頼でってちゃんと言ってある。ま、変に勘ぐる分には僕の責任じゃないけどね」
 にやりと笑うと、その綺麗な顔に急に愛嬌が乗った。
「で、僕には名乗ってもくれないわけ?」
 半ば憮然としてフォルマティオはマティスを眺めた。だが、マティスはそんなフォルマティオの様子など全く気にしていないようだ。
「フォルマティオ」
 ぶっきらぼうに名前だけ言うと、フォルマティオはすぐに明後日の方向を向いた。腹が立つ。腹が立つのだが、マティスの姿を見ていると何故かその怒気が萎えていく。それほどに美しいのは奇跡のようなものなのだろうが、今度はそんなことで相手を許してしまう自分にまで腹が立ってくるのだ。
「では、フォルマティオ。あなたに仕事の依頼をしたい」
 マティスはふわりと優雅に礼をした。
「仕事の内容は僕を守ること。僕を害する全てからね」
 狙われているのだとマティスは言った。
「僕を神から守って欲しい」

 普通の人間が神から自分を守れと言ったら、たぶん、頭のネジがどこかで緩んでいるのだろうと思うだろう。だが、ここまで美しい人間にそう言われると何故だか納得してしまう部分がある。だがそのことよりもフォルマティオの気をひいたのは、マティスの優雅な身のこなしだった。
 記憶が確かなら、あの礼の作法は帝国のしかも上流の作法だ。少なくとも、こんな安宿の部屋で、しかも妙に世間馴れした若者がする作法ではない。

「狙われているのか?」
 マティスはその問いかけに笑った。
「護衛はお手の物だろう?昨日会った隊商の頭が言ってたぜ、今までの傭兵で一番安心できたって」
 あんたが泊まった宿を探してたから遅くなったんだ、ベッドの半分を貸してもらったっていいだろう、と言葉をつなぐと、呆気にとられているフォルマティオを後目に宿の扉を開けた。
「今から金を作りに行くから、あんたも付き合え」
「金を作る?」
「言ったろ?僕は気楽な旅芸人、運命と音楽の女神クラヴィアの寵愛を受けている人間。そしてあんたは雇うのに金がかかる傭兵だ」
 何を寝ぼけたことを言っているのだと言わんばかりにマティスは傍らに掛けてあったフォルマティオのマントを取り、まだベッドに腰掛けたまま呆気にとられているその顔に投げつけた。


 そして、今、そのお気楽芸人の背中をぼんやりと追っているわけなのだが。こうして日の光の中でマティスと歩いていると、その美貌が類い稀なものであることを認めざるを得ない。

 マティスの歩く先々、町の時間が止まるのだ。既に日の高く上がった町には行商の者、旅の者、多くの人間でごった返しているが、その全てがマティスを見た瞬間に呆けたように動きを止め、その一挙手一投足を眺める。そして自分の視界から消えると、ようやく我に返ったような顔をして僅かにその姿に名残惜しそうな素振りを見せながら本来の自分の仕事を再開するのだ。そんな風に一瞬一瞬町の時間を止めながらマティスは優雅に歩いている。

 フォルマティオは不意に危険なものを感じてマティスとの距離を詰めた。美しいものを見たとき人が感じる感情はある種の感動を秘めている。そして、同時に侵されざる美を見たときに人は恐ろしいほど残虐にもなれるのだ。事実、この数年の傭兵経験の中でそんな場面を何度も見てきていた。この世の全ての事象がそうであるように、美しいということもまた、諸刃の剣には違いない。

「マティス、どこまで行く気だ?」
 不意に声をかけられ、マティスは怪訝そうにフォルマティオを振り返った。
「広場さ。芸人が芸をするには場所が必要だからね」
 確かに大抵の町には広場があり、その広場には守護神や美の神シャトア、太陽神ロキなどの像が祭られ、そのほとりで吟遊詩人が歌を歌っていたりする。フォルマティオ自身も多くの町でそんな吟遊詩人の歌を聞き、時には自ら頼んで故郷、砂漠の町グラカイエの歌を歌ってもらうこともあった。だが、普通、吟遊詩人はシャタールを持っているものだ。シャタールの5弦をかき鳴らし、古くから伝わる歌やその時その時の自分の感情を詞にこめて歌い、その日その日の路銀を稼ぐ。
「芸って、おまえ……」
 マティスはにやりと笑った。
「この体とこの喉さえあれば、僕はいつだって目の前に黄金の山を作れるのさ」
 大人しくその様子を見てせいぜい僕の身の安全に気を配っておいてくれよ、と、軽くウインクをして見せて、マティスはようやく目の前に広がった広場を眺めた。広場には既に何人かの吟遊詩人が集い、幾つかの人だかりが出来ている。

「さて、お仕事お仕事」
 比較的人のいない場所に陣取ると、マティスはゆっくりと体に纏いつけていた柔らかな布を外した。丈を短く詰めた胴着と腰に申し訳程度に巻きついた短いズボンから、恐ろしく白い肌が覗く。細く鞭のようにしなる体には無駄なものはなく、ただ、その全身に絡みつくように着けられている銀の飾りがキラキラと日の光を反射した。
 現れた体に、フォルマティオは思わず目を疑った。その短い胴着の下には微かだがそれとわかる二つのふくらみがある。だが、朝起きた際に触れたその肌も、敏捷に動くその筋肉もけして女性の持つものではない。

「我が名はマティス。運命と音楽の女神クラヴィアの使徒。そして愛と美と星の女神シャトアの寵愛を受ける者」
 大声で叫んだわけではない。だが、細く澄んだその声は広場に響き、まるでその登場を全てのものが待ち望んでいたかのように一瞬にして人のざわめきが消えた。
「大地に我が足が触れその鼓動を踏みしめ、その両手が打ち鳴らされ物語を語る。鼓動はリズムに、リズムは言葉に、言葉は舞踏に、そして物語は語られるだろう」
 マティスの両手が打ち鳴らされ、その両足が大地を叩く。腕が振り上げられるたびに銀の飾りはキラキラと日に煌き、その細い喉から絞り出される唸るような声が、鼓膜を抜け、直に脳髄を貫いた。しなる指は木々のざわめきを映し、その腕のしなりは時に翼と化す。その僅かな動きだけで世界の一部にマティスは体を変化させた。

 フォルマティオはクラクラと網膜を焼くその動きに翻弄されまいと、必死で頭を振った。ふらつく体を立て直して当たりを見回すと、いつのまにかひれ伏すようにしてマティスを見つめる群集の、その容貌の異様さに思わず息を呑んだ。
 そこに居る全てのものが、年齢も性別も人であるか人でないかさえも関係なく、およそ声の届く範囲のものは陶然となり、まるでそこに神が出現したかのようにマティスの舞踏を見つめていた。
 キラキラと無秩序に瞳を打つ光の反射とマティスの声の微妙な響き、それがまるで魔術のように人の心を捉え、束縛し、魂を奪い取る。フォルマティオは不意に気がついた。その両手足で刻まれているリズムと声の響きそのものが一種の力を持っているのだ。
 言霊使い。話には聞いたことがあるが今まで目の前で見たことはなかった。声に不思議な力を持ち、時に魔獣さえも従わせる力を持つという。フォルマティオの憶測が正しいとするならば、おそらくマティスは滅多に存在しない言霊使いなのだ。

 不意にマティスの足元に投げられていたマントの上に初老の女性が自らの財布をそのまま置いた。それが合図だったかのように人々はうっとりとした表情のまま自らの持てる全てのものをマティスのために投げ出した。異様な光景だった。明らかに懐の豊かなものを狙うために広場を訪れていたと分かる町のチンピラさえ、惜しげもなく自らの稼ぎを投げ出していた。

「震える魂を持つ者達よ、その身に運命の女神クラヴィアの恵みがあるように……」
 ゆっくりと夢のようにマティスの白い両腕が動きを止めた。群衆の中には既に自分の力で立つことが出来ないものさえ居る。マティスの前には群集によって積み上げられた金の山が出来ていた。

December 4, 2004

番外編 『昔の花』

 いけ好かない男だ。
 それが美都が彼を見て最初に感じた印象だった。

 まだ若いひょろりと背ばかりが高い姿は、白衣を着ているというよりも白衣に着られているような印象がした。細い首はまだまだ信用するには足らない子供であるように感じたし、行儀悪くジーンズのポケットに両手を突っ込んでふらふらと歩く様子は、不真面目でしたたかで、とにかく自分とは趣味も性格も合わないだろうと、そう思わせるには十分なものだった。
 大幅に教育課程をスキップして大学の研究生をしているという良く似た境遇から、周囲は事あるごとに必ず彼と美都とを比較していた。もちろん、その比較の上で、常に彼が勝者となっていたわけではない。周囲が行っていたのは比較という名の両者への中傷に過ぎなかった。だが、彼が居なかったら、そういう姑息な手段での中傷は受けなかったのだと思うと、美都は実際に出会う以前からたまらなく彼のことが嫌いだった。
 もちろん、美都は「会ってみたら意外といい人かもしれない」という可能性までをも否定していたわけではなかった。しかし、そんな優等生的な感情も実際に会ってみて霧散した。
 初対面の美都に向かって、彼は握手を求めるように手を差し出し、握り返した美都の手をしげしげと眺めて「苦労してねぇ手だな」と口をゆがめて笑ったのだ。
 ――自分の方が苦労してきているのだと、そんなことでも誇りたいのだろうかこの男は。
 それは、美都の中にわずかに残っていた彼への期待を粉砕するには十分すぎる態度だった。

 美都はカツカツと音をたてながら足早に廊下を歩くと、扉の横にある電動スイッチを押して扉が開くのを待つ。幾分反応が遅い扉は、ボタンのスイッチをピカピカと明滅させて、ようやく小さな電動音を立ててゆっくりと開き始める。体が入るほどの隙間が出来たのを見てとると、美都はいらいらしたように体をねじ込んで、乱暴に反対側の開閉スイッチを押した。
 ――そのいけすかない男に資料を渡しにいかなくてはならないなんて、ついていない。
 整理しなくてはならないデータは山積みで、統計処理のために必要な論文の収集も終わっていない。暇なわけではないのに、美都が一番若いという理由だけで他の研究員の伝書鳩のような役をしなくてはならない。
 ――理不尽よ。
 美都は肩にかかる髪を乱暴にかきあげ、大きくため息を吐いた。
 年齢に意味があるだろうか。美都は初等教育から高等教育までを大幅にスキップしながら進級してきた。高等教育過程は少なくとも1年は経験しなければならない――という教育システムのために、籍だけは高等過程においたまま、進学予定の大学の研究室で研修を受けている。既に大学で必要な単位の多くも修めており、来年になれば、少なくとも資料を渡してくれと頼んだ先輩などよりは上の立場となる。
 ――たいした研究もしてないくせに、先輩だというだけで人を顎で使うような真似をして。
 美都は唇を噛み締めた。教育のシステムが現状のようなものではなかったら相手を使っているのは自分の方なのだと、そう思うにつけ、こんな用事で研究棟の廊下を歩いている自分の立場が悔しい。

「失礼します」
 ノックの後に小さく応答があったことを確認して、美都は重い扉を開いた。中で作業をしていた数人が顔を上げ、美都の姿を認めると一様に驚いたような顔をする。
「結城くんがこちらだと聞いて、資料を渡しに来たんですが」
 あぁ、と得心したようなため息を吐いて、一人が奥の扉を指した。
「彼はいま、自室でデータの処理をしているよ」
「ありがとうございます」
 美都が奥の扉の前に立ち、ノックをしようとすると、背後から笑みを含んだ声が投げかけられる。
「ノックは要らない。してもたぶん琢己には聞こえないから」
 美都は首をかしげて、それでも小さくノックをしてみる。何の応答もないことを確認したのち、恐る恐るドアを開けた。
 静かな室内に、パタパタと端末のキーを叩く音だけがする。――否、微かにカシャカシャと細かな電子音も聞こえる。
 カチリと音を立ててドアを閉めると、美都は本棚が迷路のように配された室内に足を向けた。
 彼は居た。薄暗い室内、端末のモニタの光にぼんやりと照らされた横顔には、一度も見たことのない生真面目な表情が浮かんでいる。両耳を大きく塞いだヘッドホンから微かに漏れている音で、彼が音楽を大音響で鳴らしながら作業をしているのだと分かった。
 なるほど、ノックの音が聞こえないわけだ。
「失礼します」
 声をかけてみる。振り向く気配もない。美都はため息を吐いて、端末に歩み寄った。
 袖を捲り上げ、着崩したように見える白衣の襟が、思いのほかきちりと整えられている。相変わらずジーンズだが、端末に向かう際に邪魔だったのか、ポケットから取り出した財布や外した腕時計が、几帳面に机の端に揃えられているのが意外だった。
 ふと本棚に視線を巡らせると、膨大な量の資料はきっちりとファイリングされ、参照しているらしい数冊の本以外はすべて本棚に納められている。――案外、几帳面な性格らしい。
 端末の前の壁にはボードが掲げられていて、走り書きのメモや名刺が無造作にピンで留められている。その多くは研究関連の予定やメモなどのようだったが、その中に紛れるように写真が一枚留められているのを認めて、美都は思わずそれを眺めた。
 幼い少年が、自分より小さな少女の肩に手を回して笑っている。古い写真なのか色褪せていて、端は擦り切れ、折れていた。
「何?」
 不意にかすれた声がかけられた。その時はじめて、美都はキーを打つ音が途絶えていることに気がつく。
 彼がまっすぐに美都を見ていた。
「用事?」
 かなり長い時間この部屋に閉じこもって端末に向かっていたのだろう、不慣れな子供のように声がかすれてしまっている。彼自身もそれに気がついたのか、小さく咳払いをして再び美都に問いかけた。そして、耳から外したヘッドホンから漏れる音に眉を顰めて、片隅のオーディオスイッチを慌てたようにオフにした。
「資料を渡しに」
 美都はまったくの無音になった部屋の中に響く自分の声に軽い眩暈を感じた。奇妙なほど緊張している自分が可笑しい。
「あぁ、糖鎖配列の論文資料か」
 ゆっくりと彼は立ち上がり、美都に歩み寄る。
「あとでこちらから取りに行こうと思っていたんだけど。悪い」
 見上げると、背が高いのが分かる。資料を手渡しながら、なぜだか美都は悔しくなった。
「あなたが私に謝ることじゃないでしょ」
 ひょいと、彼の眉が上がる。馬鹿にされたような気がして、美都はぷいと顔を背けた。
「いや、単なる感謝の気持ちのつもりだったんだけど」
 彼は渡された資料をパラパラと確認して漏れがないことを確かめ、本棚からファイルを一つ取り出してファイリングをする。流れるようなその作業を横目で見ながら、美都は再び視線を写真に戻していた。
 笑った幼い少女の笑顔――まるで、何の苦しみも知らない天使のようだ。
「他にも何か用?」
 整理を終えて棚にファイルを戻した彼に視線を戻した美都は、不意に問いかけたくなった。
「この写真……」
 何事かときょとんと目を見開いた彼は、美都の視線の先にある古い写真を見て、ああ、と小さく声を上げた。
「見て、分からない?」
「分からないから、聞いているのよ」
 こうして身近に貼ってあるということは、親しい間柄の写真なのだろう。古いものだから、家族の写真かとも思ったが、天使のような少女の様子がどうにも目の前の彼と結びつかないのだ。
「妹だよ」
 彼はそっと写真の前に立った。ピンを丁寧に外して、美都の前に写真を差し出す。色褪せた写真は、所々擦ったような跡が残り、隅に手垢がついていた。
「結城さんの?」
「そう」
 後ろに立っているのは俺だ、と彼は小さくため息を吐いて呟く。美都は大切なものを守るように抱きしめている少年と目の前の彼の顔を見比べる。
「何、面影もない?」
 可笑しそうに彼が笑った。
 意外だった。――だが、同時に確かに彼だと美都は思った。一度も見たことのないような慈しみの表情だが、笑みを刷いた目の印象が似ている。いや、本人なのだから、似ているのは当たり前なのだが。
「なんとなく分かるわ。いくつ?」
 なんとなくかよ、と、彼はまた可笑しそうに言って、8つだと応えた。
「10年くらい前の写真かな。妹が写っているのはそれしかなかったから」
「ご両親の写真は?」
 首を傾げた美都を、彼が目を細めて眺めている。
「会おうと思えば会える人間の写真を貼るほど、家族愛に溢れてないんだよ、俺は」
「え?」
「妹は、天に召されたよ。これは最後の写真」
 美都は一瞬、背の高い彼の顔を凝視した。生真面目な顔がじっと美都を見つめ、ふと、手の中の写真に視線が落ちた。美都も写真に視線を落とす。
「事故で?」
「いや、心臓が悪くて」
 写真の中の少女は、何の苦しみもないような笑顔で笑っている。守るように肩に回された兄の手を、小さな手がぎゅっと握っている。
「掛け算が出来るようになった翌日に、この写真を撮った。約束していたんだ。掛け算ができるようになったら、外に出て花の下で写真を撮るって」
 美都はぼんやりとした写真の背景に目を凝らした。滲んだ斑紋のように見えるのは、花なのだろうか。少年の背後に伸びたアーチのような霞んだ緑は、何かの木なのだろうか。
 ふと、情景が思い浮かぶような気がした。外に出ることが出来ない少女に、その兄が掛け算を教えている情景。これが出来たら、願い事を一つ叶えてあげると約束して。
 写真の中の少女は幼い。たぶん、彼女は一生懸命に兄から学んだに違いない。そして、掛け算ができた時の願い事は、美味しいお菓子やお人形ではなくて、その兄と外に出て写真を撮ることだったのだろう。
 ――きっと、彼女にとってはかけがえのない、優しい兄だったに違いない。
「そう……」
 繋ぐ言葉を見つけられずに美都は黙って写真を返した。彼の手が、再び丁寧に写真をボードに貼り付け、ピンを刺す。端の折れや汚れが気になって、美都はその手の動きをじっと見つめた。
「写真立てにでも入れればいいのに」
 そうすれば、これ以上、写真の端が擦り切れることもなければ、汚れることもない。このままでは、いつか写真は古びて、少女の顔さえも薄れて見えなくなってしまう。
 ふう、と彼はため息を吐いた。
「もう、ガラスの中に閉じ込めたくないんだ」
 まっすぐに写真を見つめる横顔を、美都は見つめた。
「でも、色褪せていまに何も見えなくなってしまうわ」
 不意に、彼は美都を振り返った。
「そうかな」
「そうよ」
 再び視線を写真に戻して、入れたほうがいいのかなぁと、額を掻きながら首を傾げる彼を、美都は不意に可愛らしいと感じた。彼の方が自分より僅かに年長であるのに、仕草が、口調が、まるで小さな子供のようだ。
「何の花なの?」
「何が?」
「だから、その写真に写っている花よ」
 さぁ、と、彼は首を傾げた。
「知らないで撮ったの?」
「8つだぞ? 花の名前まで知ってると思うか?」
 拗ねたような口調に、美都は思わず笑った。彼が再び頭を掻く。
 美都はそっとボードの前に歩み寄り、メモに埋もれるようにして貼られている写真を覗きこむ。彼はそんな美都に場所を譲り、自分は端末の椅子に行儀悪く腰掛けた。
「白い花だった。花は小さくて、木は大きくて。――あぁ、実が生ってたな。美味しかった」
「食べたの?」
 食べたさ、と彼は事も無げににやりと笑って応えた。
「病院の敷地の隅っこに生えてたんだ。なんだか美味そうな実が生っていたから、看護婦や親の目を盗んで採って食った。味をしめて何度も木に登って食ってたら、見つかって大目玉喰らった」
 その話をしたら、その木の下で写真を撮りたいと妹が言ったのだ。
 美都が彼を振り返ると、ふと、彼の瞳が何かを懐かしむように伏せられた。
 睫毛が長いと、不意にそんなことを思って、美都は慌てた。
「結城さんらしいわね」
「――琢己」
 ため息混じりの彼の不意の言葉に、美都は首を傾げた。
「だから、琢己。『さん』付けされるのって性に合わない」
「名前で呼ぶほど親しくないわ」
 つい口調が厳しくなって、美都は僅かに唇を噛んだ。
 彼はひょいと肩を竦めて、あぁそういう意見もあるね、と、いつもの調子で応えた。
 急に彼が憎らしくなり、美都は視線を逸らし、ドアへと足を向ける。
「資料、渡したから」
「――サンキュ」
 ため息混じりの声を背中に聞きながら、美都はドアに手をかけた。
「写真立て、買うの?」
「さぁね」
 振り返った先で、彼は最初に会ったときのように口を歪めて笑っていた。


 実験室から琢己が部屋に戻ったのは、もう夜中だった。試薬を使った実験は、10分毎にデータを取らなくてはならず、部屋に帰るのもままならない。とりあえず携帯端末に打ち込んだデータを部屋の端末に移しかえて、関数処理したシートに読み込ませ、データ不備の有無だけは今日のうちに確認しておかないと、明日からの実験に進むことが出来ない。
「1時間――いや、2時間かな。あぁ、睡眠時間を削るしかないか」
 独り言でそうぼやくと、電気のスイッチを入れる。
 他のメンバーの実験終了を待って始めたら、大幅に予定が狂った。本来なら夕方には終わる予定の実験だったのが、思わぬ誤算だ。
 琢己は大きくため息を吐くと、試薬で汚れた白衣を脱ぎ捨てる。帰るときに忘れずにランドリーボックスに放り込んでおかなくてはならない。
 ふと端末の乗った机を見て、琢己は違和感を覚えた。
 端末のキーの上に、白い柔らかな紙に包まれた箱が乗っている。厚みのあるそれに見覚えはない。何かの資料というには小さすぎ、梱包が丁寧すぎる。
「何だ?」
 琢己はそれを手に取った。軽い。
 首をかしげて、とりあえず包みを開ける。箱の蓋を開いて、琢己は絶句した。
 ――これ。
 白い小さな花が枠の周囲を飾る、それは写真立てだった。可愛らし過ぎず、華美過ぎず、どちらかというとシンプルですっきりとした印象のそれは、本だらけの部屋の中で、不思議と違和感がない。
 ――参ったね。
 贈り主が誰かすぐに分かった。白い花の話をしたのも、写真立ての話をしたのも、ただ一人だけだ。
 琢己は小さくため息を吐いて、そっとボードから色褪せた写真を外した。背後の板を外して写真を入れて飾る。端末のモニタの前で、幼い顔が白い花に彩られて笑う。
「あぁ、そうだ」
 思わず琢己は呟いた。
 ――あれは、白いオレンジの花だ。

 琢己は目を閉じた。
「オレンジ、食いてぇな」
 彼女の白い手を思い出した。

-FIN-

番外編 『ロマンチスト』

 ここで「世界」という概念の最初の一点から開始されたビッグバンが、そもそも「世界」そのものの全てであったと仮定しよう。

 ビッグバンによって「在」となった全存在は、急速に拡大しつつ希薄なガスの融合体である「個」となった。それは言い換えれば私たちの誕生であった。つまり、私と貴方は同じものだったのであり、そういう意味で、私が貴方を恋うるということは、同一であったものが引き合う「引力」に似た力であると考えることができる。私のこの感情は、発生当初から既に必然だったのだ。
 必然から産まれた私たちはしだいに拡大していく。限りなく拡大していく中で、私たちは膨張し、さらに希薄になり、体積が距離の境界を越えたとき私たちは再び融合し、全ては巨大な一塊となる。その世界のなりたちを三次元変換したものを「uev-oli」――ウェヴォリ曲線というのだ――。


 めぐみは、手の中にあるカードの上の曲線を――不可思議な花の模様のようにも見える曲線を眺め、首をかしげた。最近流行のスタックカードに描かれた動画は、キラキラと小さな光を輝かせて、バラの花にも似た曲線の上をくるくると動き回っている。メッセージを繰り返し表示し、光の軌跡が過ぎるとほんの少し赤みがかる紺色のカードには、差出人の名前がない。
 めぐみはカードを裏返し、そこになんの広告も入っていないのを見て、この意味不明な図形と言葉が描かれたカードが市販のものではないことを確認した。
 スタックカードは、言ってみればグリーティングカードのようなものだが、片面全てがクォーツ振動体で作られていて動画を表示でき、さらに端末に接続することで、あらかじめ差出人が登録しておいた大量のメッセージや動画、既に配送予約されているプレゼントについてなどの情報を引き出すことができる。セキュリティレベルを上げておけば、送金もできるので、お祝い事の時などには重宝するカードでもある。めぐみの所にも月に二通くらいは送られてくるが、それは子供が生まれた友人からの報告の――ほとんどが生まれたばかりの猿のような赤ん坊の顔ばかりが写される動画が詰まったカードだったり、新婚旅行から帰ってきた友人のお惚気カードだったりする。
 ――こんな日に、カードなんて……。
 今日は静かに過ごしたかった。めぐみが大切に思っていた友人の――笑顔のまま死んでしまった友人の――今日は大切な記念日なのだ。
 めぐみは、もう一度その不思議なカードを裏返して、くるくると回り続けている光の軌跡を追った。
 光の軌跡に促されるように一行ずつ現れるメッセージは、やはりどう考えても意味不明のままで、めぐみは大きくため息をついて、端末のスイッチを入れた。
 ――ウェヴォリ曲線なんて、聞いたことのない単語だわ。そもそも、何故ビッグバンが人の感情云々に飛躍するのかが分からないわ。
 必死で数学の公式を思い出している自分に気が付いて、めぐみは肩をすくめた。「三次元変換」や「曲線」という単語から反射的に数学を思い出しただけで、この意味不明なメッセージはどちらかというと出来損ないの哲学のように思える。
 ――哲学だと、何かしら。数理的世界解釈? それとも、哲学的数学理論? どちらにしても100%形而上的推論の上に成立しているとしか思えないわ。
 そう考えた後、ふと、「形而上的」の用法を間違えているような気がして、めぐみは再び首をかしげた。真面目に人文系を学ばなかった学生時代のツケがこんな場面で返ってくるとは思わなかった。

 ウィンと小さな音を立てて起動された端末にスタックカードを差し込むと、カードに記憶された項目の一覧が並び、画面にホログラムを実行するかどうかを確認するメッセージが出た。
 薔薇の花束、欲しいと思っていた分厚い遺伝子の電子辞書、最近話題になっているカフェの予約日時、高くて手が出なかったプラチナの指輪、そしてホログラム。薔薇の花束の配達確認記録がカード実行日の日付だ――ということは、カードが読み取られたことを知らされた花屋が、もうじきやってくるだろう。
 贈り物の一覧を見て、なんとなく差出人の予想はついてくる。遺伝子辞書が欲しいことを知っているのは、ごく親しい研究仲間だけと言っていいし、その研究仲間の中で、めぐみに薔薇の花や指輪を贈るような人物は一人しか居ない。
 こんな回りくどい事をしないでも、両手にプレゼントを下げてやってくればいいのに――そう思った次の瞬間、めぐみは彼が顔に似合わずロマンチストだったことを思い出した。
 十近くも年の離れた「ロマンチスト」な顔を思い出しながら、めぐみは小さく笑い、ホログラムの実行ボタンを押した。

 ポツンと中空に光が点る。ゆっくりとそれは回りだし、スタックカードに描かれた花のような曲線を作る。キラキラと光は増して、花束のように煌いた次の瞬間、一気に砕け散るように光は融解し、雪の結晶のように宙を舞った。
 雪だ――そう思ったとたんに、めぐみの中に熱いものが込み上げた。
 彼と一緒に見た、雪。微笑んだままのように思える美しい友人を、二人でその雪の中に埋めたのだ。キラキラと太陽を反射する、一点の穢れもない雪の中に。
 カチャリと音がして、ホログラムの中に文字が浮かび上がった。
 『生まれてきた、全ての君のために 生きていく、君という存在のために』
 めぐみの中で、彼との思い出と、友人の微笑が甦った。最後に友人はめぐみにこう言ったのだ。
 ――僕は君に会えて本当に嬉しかった。ずっと、自分が生まれてきた意味を考えていたけれど、今は、たぶん君に会うために生まれてきたんじゃないかと思えるんだ。この僕の決断を、もしかしたら、君は怒るかもしれないけれど、それでも、君が生きるためなら僕は何でもできるし、何にでもなれるんだよ。
 病室のガラス越しに見た友人は、微笑んでいるようにも見えた。めぐみよりもずっと幼かったくせに、何倍も大人びていた友人……。
 ――君が僕に教えてくれた。インプットとアウトプットを繰り返すだけではない、本当に「生きる」ということ、笑うということ、信じるということ――愛するということ。だから、僕はもう、満足なんだ。

 思い出の淵を彷徨っていためぐみは、遠慮がちにならされたチャイムに初めて気がつくと、知らず頬を伝っていた涙を手の甲で拭き、急いで玄関に向かった。ドアホンを取る前に鏡を覗き込み、泣いていた痕跡を隠すと、小さく咳払いをしてドアホンに向かう。
「はい」
 小さなテレビモニタに、気の良さそうな青年が薔薇の花束を抱えて立っていた。
(スタックカードからご注文の、花のお届けものです)
「ありがとう」
 めぐみはドアロックをはずすと、花束を受け取って、店員が差し出したサインボードに小指の腹を乗せた。ブレスレットに組み込まれたICチップから、受け取りに必要な情報が自動的に流れて、サインボードの上にグリーンランプが灯った。
「ありがとうございました。これは当店からのサービスで、花の活力剤です。花瓶に移される際にご利用ください」
 鼻腔を満たす薔薇の香りに、めぐみは目を閉じた。どれだけ精巧なホログラムの花が作られても、香りまでをも再現する動画が開発されても、目の前にある、本物の花にはかなわない。目で楽しんで、指で触れて、香りを嗅ぐ。それが最後には萎れて枯れてしまうことが分かっていても、いや、萎れて枯れてしまうからこそ、「生きて」いる花は美しくて、そして――悲しい。
 めぐみは花束に刺さっていた透明なカードを手に取った。
『u evol i』
 ――ウェヴォリ……。やだ、まだ、なぞなぞの続きなの?
 めぐみは首をかしげてカードを見つめた。透明なカードを日に透かしてみて、なんとなく裏返してみる。
 ――i lov……。
 途端に謎が解けて、めぐみは一瞬、唖然とし、その後、堪えきれないように噴き出した。ストレートな言葉をへたくそな哲学で包んだ十近く違う彼は、ロマンチストには程遠い顔をして、きっと研究室の片隅でくしゃみをしているに違いなかった。

-FIN-

December 3, 2004

番外編 『太陽の軌跡』

 甲板の板は、長年の波しぶきによる塩で擦り磨かれて、鏡のように太陽を反射している。鈍い光のくせに直視すると瞼の奥を焼くほどに感じるのは、夏季が近くなってきたせいというよりは、西にとった航路の終わりが近付いているせいだろう。故郷ハランの四季に富んだ柔らかな太陽と違い、帝国領の太陽は、カンカンと頭上を照らしている。

 ――エクリアじゃぁ、男の神様のなかで力が一番強いのは太陽神《ハロ》だって話だけど、なんか、そう言われる理由が分かるよなぁ。
 手を額にかざして痛む目を庇いながら、タオはまだ何も見えては来ない水平線の先にある、遠い異国を思った。
「おい、甲板の掃除は終わったのか」
 船の木戸を開けて、上官の顔が覗く。
「終わりました」
 タオは気をつけの姿勢もとらずに言葉を返した。上官と言ってもたかだか2つ違いの商兵だ、言葉だけは丁寧だが、タオの態度は砕けている。
「じゃぁメシまで休息だ。お前は今夜が帆番だから今のうちに休んでおけよ。朝にはエクリアが見えてくるからな」
 返事も待たずに上官の姿は再び木戸の中に消えた。目的地が近くなってきたために、船の中の消耗品の計算に忙しいのだ。帰りの航路で足りなくなる可能性があるものはエクリアで仕入れて帰らなくてはならない。
 商兵の仕事は、兵士や船乗りというよりも商人に近い。――もちろん、兵というからには多少は剣の訓練もするが、中央の守りの要の僧兵や、都市ごとに編成されている州兵と違い、戦いそのものを生業にするわけではない。だからこうして商兵の下では、タオのような州兵志願の少年兵が訓練と称して船の警護にあたるのだ。船には商兵見習いの少年兵も乗り込んでいるが、彼らは甲板の掃除などしない。彼らがやるのは商兵の計算の手伝いや、船の中での仕事が主だ。
「休憩――とね」
 タオは大きく伸びをした。緩やかな波が太陽を反射してキラキラと瞼を焼く。まだ水平線の先は見えない。
 甲板の手すりから身を乗り出すようにして波間を眺めると、走る船の起こす白い航跡の影に無数の魚の影が見えた。
「美味そう……」
 船の食事はたいてい魚料理だ。船の一番後ろには漁のための網があって、たまに船の速度を緩めては漁をする。この船に乗っている商兵見習いの中にひとりだけ料理上手が居て、たまに滅法美味い料理が出てくるのだ。それがタオの一番の楽しみでもある。
「ヒメコアジの群れだね。一昨日の漁でたくさん獲れたので、今日当たりの料理に出てくるんじゃないかな?」
「あ?」
 いつの間にか、商兵見習いらしい少年が、タオと並ぶようにして甲板から身を乗り出して波間を眺めていた。
「あれ、ヒメコアジっていうのか?」
「そう、ヒメコアジ。ちょっと浅めの海に群れて居る魚で、から揚げにすると美味しいよ」
 尋ねたタオを振り向いて、少年は笑った。髪の色はタオより薄い。目の色はかすかに曇った蒼色で、きちんと折り目の付いた襟の白さが、育ちの良さを感じさせる。
「美味そう……」
 頭の中で食事を想像して呟いたタオを見て、少年がさらに笑みを深める。
「から揚げにしてキタの実のすっぱい汁と香草につけて、チャパで巻いたりすると、本当に美味しいよ」
 ようやく波間を眺めるのを止めて体を起こしたタオを真似て、少年も体を起こす。少年兵として乗り込んでいるのだから年の頃はタオとかわらないはずなのだが、体を起こした少年は小柄で、背の丈はタオの肩あたりまでしかない。
「お前、商兵見習いか?」
「いいえ」
 少年は小さく笑った。
「僕は調理担当。商兵見習いの料理ばかりじゃ長い航海を乗り切れないから、船にはたいてい調理担当がひとり入ることになっているんだ。僕の家は街で店を営んでいるから、商兵見習いとして1年航海をして、そのまま船でしばらく調理担当として修行をしたら自分の家に帰って店で働くんだよ」
「え、じゃぁ、おいらより年上?」
 ハランでは街を出て働く年齢は決まっている。既に商兵見習いを終えているとしたら、タオより年上に違いない。
「そうなる、かな。――ひとつだけだけど」
「わりぃ」
 タオが頭を掻くと、少年は屈託のないその様子に苦笑しながら小さく伸びをした。
「もうエクリアがすぐそこだね。太陽の暑さが違うや」
 つられたように、タオも太陽を仰ぎ見た。雲のない空は抜けるように青く、陸が近いことを示すように白い鳥がくるくると旋回している。
「おいら、タオってんだ」
「僕はリレイ」
 ようやくお互いに名乗りあって、そのまま甲板に座り込んだ。
「そうか、リレイは店屋の主人になるのか」
 ざらついた甲板を指先で撫でながら感慨深げにタオが言うと、リレイは首を傾げた。
「タオは、兵になるの?」
「分かんね」
 小さな頃から腕白で喧嘩だけは強かったから、街をでて見習いになる時に迷わず少年兵になることを選んだ。学問ができる少年は、中央にある学問所に行き学僧への道や政僧への道を選ぶ。リレイのように親が店を営んでいる少年は、やはりその道を学ぶ修行をするのが普通だし、権力者の子弟は特別な学問所がある。タオは選べる選択肢が少年兵くらいのものだったから、いま、こうして船に乗っているに過ぎない。
「ガキの歳じゃなくなったから道を選べって言われたってさぁ、そんな直ぐに決められねーと思わねぇ?」
 拗ねたように唇を尖らせたタオを見て、リレイは笑った。
「そうだなぁ。僕は小さいときから店を継ぐんだと言われて育ったから、あまり迷ったりしなかったけど。それに、料理を作るのも好きだし、他にやりたいこともなかったからね」
 微笑むリレイを見て、タオはさらに唇を尖らせた。
「いいよなぁ」
「タオはやりたいことがあるの?」
 リレイの言葉にタオはごくりと唾を飲み込むと、慌てたように周囲を見回して声を潜めた。
「ある――誰にも言っちゃダメだぞ?」
 声を潜めて、鼻同士がぶつかるほどに顔を近づけたタオの態度に面食らいながら、それでも大真面目なタオの顔を眺めて、リレイは小さく頷いた。


 ――呆れた。
 リレイはキタの実をぎゅうぎゅうに絞りながら、ため息をついた。微塵に切った香草の上に汁を落とすと、さわやかな香りが辺りに漂う。硬い皮に包まれたキタの実を絞るのは重労働だ。
 ――本気で呆れた。
 絞りきった皮を投げ捨てて、力を入れすぎて痺れた指をぶらぶらと解す。
 ――船を下りてエクリアを探検したい、なんて、ばれたら処罰モノだよ。
 リレイは新しい実を取って二つに割ると、再び汁を絞り始める。硬い皮で守られた果肉は柔らかく、船底の保安庫でしっかりと保管されていたために水気もさほど抜けていない。
 料理をするのは楽しい。たどたどしい商兵見習いの料理を監督するのはなかなか骨が折れる作業だが、それでも航海の中で少しずつ進歩していく彼らの料理の腕を見るのは楽しい。だが、甲板でタオの告白を聞いた今日は、その料理も上の空だ。
 ――冒険をしたいのは分かるさ。知らない世界を知りたいのも分かるさ。でも……。
 初めて船に乗ってエクリアの港に着いたとき、見知らぬ食べ物に出会ってリレイは興奮した。港に船が着いている間、リレイは港の近くにある店を巡っては、初めて見る料理を眺め、果物を眺め、エクリアよりさらに遠い砂漠の民の保存食やヴァイアの食べ物を眺めて驚嘆した。船の出港の時間が近付くのが嫌だった。気の済むまで見たこともない料理を眺めていたかった。
 ――分かるんだけどさ……。
 タオの気持ちが分かるのだ。リレイは初めての航海の時、どうにも名残惜しくて、いっそこのまま船に帰るのを止そうかと思ったのだ。もちろん、遅刻すれすれで帰りの船に乗り込み、上官にこっぴどく叱られたのだが。
 絞りきった皮を投げ捨てて、再びリレイはため息をつく。
 ――タオ、今夜は帆番だって言ってたっけ。
 帆番は、帆柱の途中に作られた足場に座って周囲を監視する役目だ。州兵見習いの大事な仕事の一つで、帆番の間は保存用のチャッカを齧るくらいのことしか出来ない。
 ヒメコアジの調理法をしゃべった時のタオの顔を思い出して、リレイは苦笑した。本気で美味しそうだと思っているに違いないその口調を思い出すと、何故か笑みが浮かぶ。
 ――仕方ないなぁ。
 香草を混ぜながら、リレイは小さく笑った。


「タオ」
 タオは足場の上で体を丸めて星を眺めていた。帆柱を登ってきているらしい軋んだ音は聞こえていたから、そろそろ夕食が届けられる頃だろうとは思っていたのだ。残念なのは、昼間リレイが言っていたヒメコアジが食べられないことだ。
「メシ?」
「そう」
 応えながら足場の上に顔を出した少年の顔を見て、タオは驚いた。
「リレイ? なんでアンタがこんなところに登ってんの?」
 帆番をするのが少年兵の仕事なら、帆番に食事を届けるのも少年兵の仕事なのだ。
「交代してもらった。あぁ、高いなぁやっぱり」
 驚いているタオには頓着せず、リレイは足場の上から遥かに広がる空と海を眺めている。
「登るの初めて?」
「うん。ちょっと怖いね」
 タオが体をずらすと、リレイはその空いた隙間に座った。
「ほら、夕飯」
 紙の包みを開けると、焼きしめた固いチャッカの塊りの横に油紙で包まれた別の包みが転がり出た。そっと包みを開けると、しっとりと汁を吸った小魚がキタの香りに包まれて現れた。
「これって」
「ヒメコアジ」
 リレイは悪戯に笑う。
「美味そう」
「美味いよ」
 尻尾を摘まんでキタの香りを嗅ぐと、タオはそれを口に放り込んだ。
「……んっめぇ」
 続けてチャッカを齧ると、キタの汁を含んで柔らかな甘みが口の中に広がる。
「昼に話を聞いたからさ、食いたかったんだ、これ」
 美味しそうに頬張るタオの顔を眺めて、リレイは笑った。ふた口ほどチャッカを齧ると、タオはそのままチャッカを紙に包みなおした。
「もう食べないの」
「うん」
 居心地の悪そうな返事にリレイが苦笑すると、タオは頭を掻いた。
「行くつもりなんだね」
 日の落ちた遠い空で、暮れの明け星が小さく瞬いている。凪いだように静かな海は潮鳴りの音さえ聞こえない。
「――うん。この日に帆番になるように順番を変えてもらったのも、こいつを貰えるからなんだ」
 タオは齧りかけのチャッカの包みを腰につけた袋に入れて、身動ぎした。
「最初はさ、帆番の度にチャッカを貯めておこうかと思ったんだけど、保存食ったってそこまで日持ちしないって分かったからさ。エクリアに着く直前に帆番になるように、帆番を代わってもらったんだ、おいら」
 タオの目が、遠い空を眺めている。屈託のない横顔が、甲板で声を潜めて話した時と同じ生真面目な色に染まっているのを認めて、リレイはため息をついた。
「決めてたんだ」
「――うん」
「そっか……。でも、金はどうするのさ、初めて乗った船なんだろう? ハランに帰ってからしか、最初の手当は貰えないのに」
 タオはにやりと笑い、ごそごそと懐から骰子《さい》を取り出すと、手の中で転がして足場の隙間にそのまま手を伏せる。
「当ててみな」
 リレイは首を傾げて伏せられた手を眺めると、自信なさげに呟く。
「2と4?」
「残念、1に1でゾロ」
 伏せた手を除けると、確かに骰子は1と1を出している。
「じゃ、次」
 再びタオは骰子を転がして手を伏せる。
「1と4」
「残念、4と5」
 タオが告げたとおりの目が現れると、リレイは驚いたようにタオを見上げた。
「へへ。得意なんだよ、おいら。こいつがあるから、金はなんとかなるって」
 得意げに鼻の頭を擦ると、タオは再び大事そうに骰子を懐に仕舞い込む。
 呆れたようにその様子を眺めた後、リレイは小さくため息をついて、自分の腰につけている袋から布の包みを取り出した。そのまま、ぽんとタオの膝にその包みを乗せると、リレイは空を眺めた。
「なに、これ」
「ちょっと小さめのチャッカ。あとは酪固《チーズ》とキタの実。それに、地図と僕の貯金。包んでいる布はターバン」
 タオは穴が開くほどまじまじとリレイの横顔を眺めた。
「最初にエクリアに着いたとき、僕もね、帰りたくないと思ったよ。珍しいものばかりで、知らない食べ物がたくさんあって、このまま船に帰るの止めたいと思った」
 振り向いて、リレイが笑った。
「船が着いたら、その場で路銀を稼いだりせずに別の街に行かなくちゃダメだよ。それに、ターバンで耳を隠さなくちゃダメだ。ハランの民だってばれちゃうからね」
 驚いたまま固まっているタオの耳を摘まむと、タオが首を傾げる。
「船に乗るときに習ったろう? エクリアの民とハランの民の違い」
 そう言われてようやく気がついたようにタオは笑った。
「そうか、エクリアの奴らって耳が丸いんだっけ」
 僅かに尖った耳はハランの民の特徴だ。エクリアの港では見る機会が多いせいかあまり目立ちはしないが、エクリアの内陸部から来た商人などは、珍しげにハランの民を眺める。
「僕、なにかくっ付けてるんじゃないかって、耳を引っ張られたことがあるよ」
「ほんとに?」
 目を丸くしたタオに、笑いながらリレイは大きく頷いた。
「酔っ払ってたみたいだけどね。痛がったら平謝りに謝られたよ。お詫びにエクリアの花の種を貰った」
 花の行商の人だったんだよとリレイが笑うと、タオはつられたように笑って、膝の上の包みを抱きしめた。
「リレイ、ありがと」
 不似合いなほど真面目な顔で呟くタオを見て、リレイは苦笑した。
「お礼なんていいよ。なんだかね、自分でもなんでタオにこんなことしてあげてるのか分かんないし」
「おいらエクリアで美味しい食べ物見つけたら、絶対調理法聞いておくから。そして絶対にリレイの店まで届けに行くから」
 なぜかすがる様に見つめるタオの必死な様子にさらに笑みを深めると、リレイは立ち上がった。
「そろそろ帰らないと怪しまれるから、行くね」
 暗くなった空の奥に、船の残す軌跡を照らして、月が昇り始めていた。
「リレイ」
 思わず呼び止めたタオに、ゆっくりとした動作で梯子を確認しながら帆柱を降り始めていたリレイは顔を上げた。月の光の中で、明るい金の髪がようやく吹き始めてきた夜の風に弄られて、ハランの優しい太陽のようだった。
「元気でね、見送りは無理だけど」
 何かを言おうとしたタオの唇は結局何の言葉も紡ぎ出せないまま、ただ小さく頷いて笑った。
 数歩降りて、リレイは月を見上げた。頭の上で小さく響いたしゃくりあげる声に微笑むと、月に照らされた白い航路を見つめる。

 凪いだ海に残る軌跡の先に、懐かしい家と冒険を夢見た自分が居る。この月がエクリアの大地に落ちて太陽が昇ったとき、タオはきっと後を振り向くこともせずに駆けていくに違いない。
 まっすぐに、進む太陽と競うように駆けていくタオの金の髪の軌跡を思い浮かべて、リレイは微笑んだ。
 輝きを増した暮れの明け星が、西の水平線にゆっくりと落ちていた。

-FIN-

番外編 『永久の楔』

 滴るような緑の木々の茂みをくぐると、不意に鼻腔を満たす柔らかな水の気配に全身が濡れたような心地がする。短い雨季が過ぎ、これから過酷な夏季が訪れるというのに、未だこの地にはその気配がない。
 あたりに漂うあまりに芳醇な湿気の香に、軽いめまいさえ感じて足を止め、フォルマティオは胸に揺れる銀の小角を知らず握り締めた。

 小さな山羊の角を象った銀の塊には、丁寧に星の女神《シャトア》が彫刻してある。母を妻に迎えたときに贈ったものなのだと、幼い頃、父が話してくれた。その飾りは母の形見として長く父の胸元を飾っていたが、半年前、父が星の御許に召されてから、両親の形見としてフォルマティオの胸を飾ることとなった。
 その頼りないほど小さな飾りを、ふとした時に握り締めたくなる。まるで、その胸の奥にある、両親の面影にすがるような気持ちで。
 そんな自分が幼く恥ずかしいと思うこともあるが、冷たい銀の感触が優しかった父と母の手のひらの感触を思い出させて、それだけで心が和いだように静かになる。
 おぼろげに残る幼い記憶の中で、母は角に描かれた女神のように美しかった。泣いたあとのような赤い瞳が、いつも優しく微笑んでいたような気がする。
 その母が星に召されたときには悲しくて大泣きをしたが、記憶にかすかに残る幼いその気持ちは、死を悼むというよりは、もう二度と抱きしめてはもらえないのだという漠然とした喪失感だったような気がする。おそらく、母の死を最も悲しんだのは父であったろう。その証拠に、死の床についた父は胸に提げたこの銀の飾りをいつも握り締めていた。記憶が錯綜するのか、時にはフォルマティオの影に母の名を呼びかけ、見たこともないような優しい微笑を痩せた頬に浮かべた。眦《まなじり》に涙を浮かべ胸の飾りを手繰る父は、たぶん、母の迎えを待っていたのだろう。死してなお離すまいとするように、握り締めたままで強張った手の中にあった銀の飾りは、長老が星送りの前にその掌をこじ開けてフォルマティオに渡してくれたのだ。
 ――お前は母に似るだろう。
 懐かしい目をしながら父はいつもそう言っていた。父のその言葉を聞くたびに、記憶の中の少女のような母の容貌と自分の容姿は似てはいないだろうと不思議に思ったものだ。
 だが、その話をすると長老は穏やかに微笑み、魂の形が似ているのだよと、しわの深く刻まれた手でそっと頬を撫でてくれた。
 記憶の中の母は、その白い肌を砂漠の太陽から守るために濃い色のヴェールを被り、いつもひっそりと家の中に居た。激しい夏季のために周辺の村の水が枯れた時にだけ、夜の砂漠を馬で駆け、砂漠の移動湖を探し当てては水案内をする。母は砂漠にはなくてはならない水守で、その能力ゆえに、白子という砂漠に生きるものとしては致命的な性質を持ちながらも、子をもうけるほどに長く生きていられたのだ。

 ここ、グラカイエの大地で白子はそう珍しくはない。数年に一人は生まれているだろうか。だが、この日差しの強い砂漠の大地では彼等は短命であった。多くは子も生まず、恋さえも知らないうちに散っていく。砂漠の太陽は彼らの命を焼くのだ。
 白子が子を産んだことは、グラカイエの歴史の中では一度もなかった。色を失った子供が生まれてくるのではないかと心配し、子を産むことを止める声もあったという。それでも母はフォルマティオを産んだ。父と同じ栗色の髪と琥珀の瞳を受け継いでいた我が子を見て、母は安堵のあまり泣き伏した。
 ――お前の母は、砂漠の強い女の中でも類まれなほど強く、そして優しかった。自らに課せられた運命からけして目を背けず、命の全てをかけて砂漠の民の命を背負っていたのだよ。
 水の枯れた砂漠の中を、昼も夜も水を探し馬を駆るのが水守の役目。その旅は時には数十日にもなる。並みの砂漠の男でも音をあげる強行軍を、白い肌が真っ赤に焼け爛れるのも厭わず、横になり休む時間さえ惜しんで勤め上げた。砂漠の太陽が少しずつ自らの命を焼いていくことを知っていても、母は水守の務めを死ぬまで放棄することはなかった。

 くしゃりと足元で水気を多く含んだ草が音を立てた。露とも湿気とも判らないもので足先が濡れる。丸2日歩き通しの足にはその冷たさが心地よかった。
 ――いよいよ、成人なのか……。
 フォルマティオは知らず歩みを止めた。
 禁域についたら、もう、昨日までの自分ではいられなくなるだろう。男として認められる年齢になった以上、昨日と同じであってはいけないはずだ。それでもまだ、父のある子はいい。妻を取り、新しい家庭を築くまでの期間は成人したとはいえ親の庇護のもとにある。だが、父を無くした自分にその甘えは許されない。
 ――責任。自分で生きていくこと。
 もう一度胸の飾りを握り締めると、フォルマティオは再びゆっくりと歩き始めた。


 14になると少年達は長老のもとに呼ばれ、禁域への出発の日を言い渡される。出発の日は星祭の夜に行われる砂漠の聖地ルナリアでの星見によって決められるのだが、その時期はまちまちで、14になってすぐ行く者もいれば、16になって行く者も居た。多くの少年が15で行くのに対し、フォルマティオは14の誕生日に禁域に着くように行けと言われた。
 もちろん反対の声もあった。父のいない子に対して、その年齢は早過ぎるだろうと。
 だが、このグラカイエの大地において、星見は絶対である。いつもは優しい長老も厳しい顔をしたまま、ただ一言、星見の結果だと言った。そう言われると、周囲も沈黙せざるを得なかった。

 ルナリアは、馬で砂漠を一昼夜駆けた先にある山間の聖地だ。星見に長けた砂漠の民が、星からの言葉を受け取るために移り住んだ。砂漠と違い木々の緑はあるが、大地は痩せていて、耕す畑も果実の生る木もない。生きていくには過酷な場所で、それでも砂漠の民は星を読み続ける。
 そのルナリアの森の奥に、禁域がある。芳醇な水に恵まれた泉だ。神《シャトア》の宿る場所とされたその泉は、砂漠の水が枯れ果てたときにだけ、砂漠の民の元へ運ばれる。数百年のグラカイエの歴史の中で、三度、そうしたことがあったと長老は言う。
 神の水は甘く、民の渇きを癒すが、口に含んだものは数年間は子を成すことが出来ない。生きるものの命を繋ぐために、これから生まれるものの命を差し出さなければさらないのだ。だから、禁域についても水を口にしてはならない。いつもは優しい長老の口調は、そう告げたときだけ厳しかった。
 禁域への旅立ちは、長老と両親が見送るのが常だ。だが、既に親を亡くしたフォルマティオの見送りは、成人するまでの後見として養ってくれていた年老いた養母と共に、次の長となる幼馴染が買って出てくれた。
 砂漠の少年は、たいてい、同年の少年たちと成人の日を競い合うものだ。もちろん、成人が早いことと人としての評価とは全く無関係なのだろうが、大人として認められることは、少年たちにとって一番身近な勲章には違いない。
 次の長として生れ落ちたエグノアは、フォルマティオより数ヶ月年長であるのに、自分よりフォルマティオが先に成人の儀式に向かうことにいたく自尊心を傷付けられた様子で、拗ねたように唇を尖らせて旅支度を整えたフォルマティオの背中を小突いた。
「なんだよ」
 苦笑を滲ませた声でフォルマティオが応えると、エグノアは変わらず拗ねた様子で、ぶっきらぼうに手にしていた包みをポンと投げてよこした。
「餞別。失くすなよ? 貸してやるだけなんだからな?」
 包みの中にはエグノアが後生大事に持っていた、小さな磁石が入っていた。遠い東の地で作られたという方角を示す磁石は、代々の長や帝国へ祭祀用の水を届ける隊商の長だけしか持っていない。エグノアのそれは、エグノアが生まれたときに、帝国の神殿から祝いとして贈られてきたものだ。
「エグノア……。これ」
「迷うなよ? 迷って遅れたら……笑ってやる」
 あまりの言い草にフォルマティオは笑み崩れた。
「迷わないよ。――でも、ありがとう」
 エグノアはにやりと笑うと、ツンとフォルマティオの前髪を引っ張った。
「帰ってきたら、禁域の様子、教えろ。俺が行くときの参考にしてやる」
「素直に気をつけて行ってこいと言えばよいだろうに」
 いつもながらのエグノアの様子に苦笑しながら、長老がたしなめるようにエグノアの頭に手を置くと、ぷっとエグノアがふくれて見せた。
「フォルマティオのことだから、気をつけて行くにきまってるじゃないか」
 今まで仲の良い二人でずいぶんと無茶はしたが、無謀な賭けをするのはいつもエグノアで、フォルマティオはその尻拭いをしたり、諌めたりと、役割がきっちり分かれていた。砂漠の大人たちが無茶をした子供たちを叱りながらも、必要以上に遊びに出かけるのを禁止しなかったのは、砂漠の長となるための良い試練だと思っていただけでなく、一緒に居るのがフォルマティオだったからだ。エグノアはそれをよく分かっていたし、そんな風に大人たちに信用されている友人が誇らしくもあった。
「行ってくる。イエナに会ったら、よろしく言っておくよ」
 苦笑をかみ殺しながらフォルマティオがエグノアの幼い婚約者の名を出すと、とたんにエグノアの耳が赤く染まった。
「余計なことはしなくていいっての」
 赤くなった顔を隠すように、慌ててフォルマティオが乗るラクの首に荷物を付けてやりながらエグノアが言うと、今まで穏やかに様子を見守っていた老婆が笑って口を挟んだ。
「イエナさまのことですから、きっとお迎えに出てくださるでしょう。若長が寂しがっていらっしゃったとお伝えなさいませ」
「だから、余計なことはしなくていいって」
 真っ赤になっているエグノアを笑いながら、フォルマティオはこれから旅を共にするラクの背を撫でた。ラクは砂漠トリ馬を乗用に飼いならしたものだ。普通、ラクには轡《くつわ》も手綱もない。女たちが乗るときには使ったりもするが、乗馬用に長く飼われているラクは羽根の付け根をほんの少し引いたり押したりするだけで、乗り手の意図を察してくれる。普通の馬のように重い荷物は運べないが、馬よりもずっと砂漠に適したラクは、砂漠にはなくてはならない交通の手段だ。
「ほら、早く行けって。時間通りに禁域に着けなかったらどうするんだよ」
 急かされるようにしてラクの背に身軽に乗ると、フォルマティオは背後を振り返った。
「気をつけてお行き。シャトアの恵みがありますように……」
 老婆が小さく胸元で手を合わせた。同じようにエグノアが生真面目な顔をして印を結ぶ。
「行ってきます」
「砂漠を照らすシャトアよ、砂漠を渡る星の民《シャトラン》をお守りください」
 砂漠に旅立つものを送り出す言葉を長老が紡ぐのを聞きながら、フォルマティオはそっとラクの羽根を握り体を前に倒した。乗り手の意志を感じて、ラクが駆け出す。
「気をつけて行けよ!」
 背後でエグノアがそう叫んだ。

 エグノアが見送るだけでなく荷物を付けるのを手伝った本当の理由を知ったのは、その夜のことだ。荷物にこっそりと入れられていたのは、手紙と小さな包みで、その手紙にはぶっきらぼうな癖のある字で「この包みをイエナに渡してくれ」と書かれていた。
 恥かしがり屋の友人は、面と向かってはこの包みを託せなかったらしい。
 フォルマティオは小さく微笑を浮かべて、腰に下げていた磁石を手に取った。星の光の下で微かに輝きながら、その針が北の一つ星を指し示す。その僅かに左手、遠くぼんやりと見える黒い山並みの奥に聖地があるのだ。
「気をつけて行けよ、か」
 背後からかけられた言葉を思い出す。エグノアからそんな言葉をかけられるのは初めてだ。――そう思った途端に、なぜ初めてなのかに思い至って、フォルマティオは吹きだした。
「そうか、いつもは俺があいつに言っていたんだ」
 急に吹きだしたフォルマティオに驚いたように、背後のラクが小さく身動ぎする。フォルマティオは大人しく座って背もたれになってくれているラクの羽根をそっと撫でた。
「ごめんよ。驚かせたね」
 クルクルと甘えたように喉を鳴らすラクを撫でながら、フォルマティオはそっと胸の銀の飾りを握り締めた。
「さて、夕飯も食べたし、休んだし。行こうか。夜明けの頃にはルナリアに着かないとね」
 立ち上がってラクの背を軽く叩くと、待っていたようにラクが立ち上がる。夜風から体を守るようにマントの襟を深く合わせると、身軽にラクの背に乗った。
 滑るように走り出すラクの背で、綿の軽い布が風に舞った。

 荒れた大地を抜けて痩せた木々の立つ森を抜け、ルナリアの入り口に着いたのは、浅く空が色付きはじめる頃だった。フォルマティオを待つように細く開けられた門扉の前に、ほっそりとした少女が人待ち顔で立っている。
「イエナ、こんなところで待っていなくてもよかったのに」
 ラクの背から飛び降りると、褐色の髪をおさげにした少女が笑顔になった。
「待っていたかったの。先だってエグノアさまから、よろしくってお手紙が来たから」
 次期長の妻となる少女は、幼い頃からルナリアとグラカイエを行き来して、多くのことを学ぶ。イエナはこの半年をルナリアで過ごし、砂漠の祭祀についてや礼儀作法をみっちりと仕込まれている。砂漠で見たときよりも随分と大人びたその穏やかな顔を眺めて、フォルマティオは笑った。
「これ、エグノアが渡してくれって」
 小さな包みを手渡すと、イエナは笑顔で受け取ってその中身を覗き込んだ。そして小さく頷く。
「ありがとう。禁域から帰るときに、どうぞ私の所に寄って帰ってね」
 イエナはラクの首を小さく叩いて厩《うまや》の方に促すと、門扉の横から伸びる細い道を指し示した。
「禁域はこの道を行ったずっと奥にあるの。禁域に着くと、祭司さまが儀式を行ってくださるわ」
 細い道の先は未だ暗い。あまり葉の茂らない細い木々が、道を囲むように立ち並んでいる。
「シャトアの恵みがありますように……」
 細い声が、道の先へと足を進めはじめたフォルマティオの背に投げかけられた。


 そして丸二日歩き通し、今、フォルマティオは禁域の一歩手前まで来ている。
 乾いた草の多かった大地は次第に緑を増して、濡れた葉の雫がつま先を濡らしていく。水で溢れた大地――そのくせ、鳥の声さえ聞こえない。
 みな、知っているのだ。この溢れるほどの水が、命を永らえさせることはあっても、命を生み出さない水なのだと。
 目の前にうっそうと茂った大きな葉を掻き分けると、不意に開けた視界に、豊かな水を湛えた静かな湖面が見えた。
 ――禁域!
 初めて見る豊かな湖面に、フォルマティオは足を止めた。
 湿気を含んだ豊かな水の香り。凪いだ水面に照る太陽の光と、風になびく木々の葉がすれる小さな音。ひたひたと打ち寄せる水際に並ぶ、丸く磨かれた小さな白い石。
 浅瀬に数個、飛び石のような平らな岩場があり、その対岸に光る、小さな塚と祠。
「お待ちしておりましたぞ」
 かけられた声に首を巡らせると、そこには白い祭司の装束を着た、年老いた星見の姿があった。
「私は今年の塚守です。あなたに砂漠の恵みと恩寵を。砂漠の民の責任と誇りを持ち、星の導きのままに生きなされ」
 フォルマティオは知らず膝をつき、首を垂れた。
「さぁ、こちらへ」
 導かれるままに水際に足を進めると、星見は湖の水を掬い、濡れた指先でそっとフォルマティオの額に十字を描いた。
「成人の証を付けましょう。目を閉じておいでなさい」
 膝をついたフォルマティオの髪を後ろに撫でつけると、星見はその耳朶に手をかけた。湖の水で清めると、手にしていた細い針でその耳朶をプツリと刺す。一瞬の痛みにフォルマティオが歯を噛み締め眉をしかめると、小さく笑い声がした。
「しばらくは痛みますが、あまり触らぬようにしなされ」
 星見の手で針は小さな金の飾り具に取り替えられ、再び耳朶を清められる。
「さぁ、湖の中へ進み、祈りなさい。祠主《シャトア》が道を示されるでしょう」
 目を開け、フォルマティオが手で耳朶を触ろうとすると、手を清めてからになさいとたしなめられた。大人しく両手を湖で清めて耳に手をやると、小さな硬い止め具が触れた。
「私があなたに出来ることはここまで。これから先はあなたが自分で見極め、進み、たどり着かねばなりません。あなたにシャトアの恵みを……」
 穏やかに星見は笑った。そして湖の中へと続く飛び石を指し示す。
「新たな砂漠の民よ、シャトアの導きを受けなされ」
 立ち上がり、フォルマティオはそっと飛び石に足を進めた。静かな湖面の上に立つと、風がそっと頬を撫でる。最奥の石まで進み、ふと振り返ると、もうそこに星見の姿はなかった。
 ――ひとり、なのだ。
 それは不意に実感としてフォルマティオの心を打った。
 自分で生きていくこと――自分の足で立ち、自分の目で見て、自分の意思で歩く。周囲の大人たちに守られるのではなく、その中で自分の責任と役割を果たしていくこと。
 フォルマティオは凪いだ湖面を見つめ、そっと石の上に膝をついた。手を胸元に組み、頭を垂れる。目を閉じると、風が草を薙ぐ小さな音がして、瞼の裏に両親の笑顔が見えた。
 ――シャトアの恵みがありますように……
 知らず、祈っていた。ひたひたと石に打ち寄せる微かな湖面の波の音が、静かにフォルマティオを包む。痛みが消え、じんじんと熱感だけになった耳朶が、燃えるようだ。
 どこかで鈴の音が聞こえた。
 リンと鳴る音に目を上げると、そこに不可思議なものを見て、フォルマティオは小さく口を開けた。
 人だった。――まっすぐに祠の方から水面を歩いてくる、美しい銀色の人。長く白い髪を風に舞わせながら、滑るように湖面をあるく人の足は、歩いているように見えながら、水面を揺らしもしない。重さのないような足取りでフォルマティオに近付いたその人の瞳は、燃えるような、赤。
(人の子。砂漠の新たな民。名を名乗りなさい)
 鈴の音の中で、雫が落ちるような声がする。それが、この銀色の影の声なのだろうか。
「フォルマティオ……」
 呟くように自分の名を告げると、ふわりとその影は笑った。
(真実の《フォルマ》扉《ティオ》――あなたが扉の待つ者)
「扉……?」
 小さくフォルマティオが首を傾げると、その影は水面にそっと跪いた。
(小さな砂漠の民よ、あなたは旅立つ者です。あなたの最初の運命は東の地に、そして西の地に。砂漠で羽根を休めながら、それでも旅立ち続ける者、それがあなた)
 白く細い指がゆっくりと星の印を結ぶのを、フォルマティオは夢見るような気持ちで見つめた。
(ここからあなたは旅立たねばなりません。砂漠を越えて東にお行きなさい。そこで最初の運命に出会うでしょう。セリアと同じように、あなたは運命に立ち向かう子供になるのです)
「セリア、母上をご存知なのですか……?」
 にっこりと優しい笑みを浮かべると、銀の影が頷いた。
(セリアはシャトアの一番小さな娘の名、その名を冠した娘は砂漠の守手。私の声を聴いて、砂漠を守る優しい子供)
 母と同じ赤い瞳を見つめて、フォルマティオは小さく息を呑んだ。
「あなたは……?」
(わたしは星の器。風に守られて、星の声を聴いた白い星見《グラディス》の小さな欠片)
 そっと白い手が上がり、フォルマティオの額に十字が描かれた。
(さぁ、砂漠の儀式は済みました。旅立ちなさい。あなたに砂漠の恵みと恩寵を。砂漠の民の責任と誇りを持ち、星の導きのままに生きなさい)
 ふわりと笑ってその影が音もなく風に溶け、静かな湖面の上を、ただ風が渡っていく音だけが残った。


「おかえりなさいませ」
 禁域から帰りついたフォルマティオを門扉の前で待っていたのは、やはりイエナだった。傍らには数日の休息を得て羽根の艶も増したラクが居る。
「イエナ……」
 当惑したようなフォルマティオの顔を見て、イエナは穏やかに笑うと、そっと両手を差し出した。
「これを。成人の飾りです」
 うつくしい小さな黄玉の中に、花開く前の小さな蕾が封じ込められている。
「これは……」
「遠い昔の、もう砂漠には咲かない小さな花が封じられた玉です。エグノアさまが託されたこの玉を、禁域に行かれている間に耳飾に作り直しました」
 エグノアが託した小さな包みの中には、これが入っていたのだ。
「旅立たれるのでしょう?」
 フォルマティオは穏やかに笑みを浮かべたままのイエナを驚いて見つめた。
「知って……?」
「旅立つ者が現れたと、星祭の星見で皆が申しておりましたから。星見の方々に、親から渡される成人の飾りをこの地で渡さねばならない、同じ砂漠《グラカイエ》の民の私がその役目をしなくてはねと、そう言われた時に、それがあなたのことだと、分かってしまいましたから」
 イエナから飾りを受け取ると、フォルマティオは砂漠の夕焼けのような濃い黄色の玉を見つめた。これをエグノアが託した――ということは、エグノアがこれを選んだのだろうか。
「エグノアさまもご存知でしたよ。ですから、その玉を選ばれたのでしょう。散らない花は永久《とこしえ》の楔――砂漠の古い唄の詞ですけれども。きっと、遠くに旅立たれても、忘れるなとおっしゃりたかったんですね」
 フォルマティオは別れ際のエグノアの顔を思い出した。似合わぬほど生真面目な顔をして、胸元で印を結んだ、その顔。
「そして、これも」
 差し出しされた小さな紙には、ぶっきらぼうな癖のある字でほんの一行。
 ――磁石も持っていけ。失くすなよ。
 署名もない小さな紙切れを穴があくほど見つめて、フォルマティオは奥歯を噛み締めた。
 ――餞別。失くすなよ? 貸してやるだけなんだからな?
 別れの寂しさをいつもの軽口で覆い隠しながら、エグノアはどんな思いで玉を選び、そして磁石を手渡したのだろう。
 フォルマティオは胸元の銀の飾りを手繰った。
「寂しく、なります……」
 ちいさく、イエナの声が掠れた。
 大きな褐色の瞳を潤ませかけた少女に笑いかけると、フォルマティオは禁域で付けられた金の飾りに指をかけ、そっと黄玉の飾りに付け替えた。微かに重くなった耳は、まだ傷の痛みで熱い。
「行ってくる。エグノアに元気に旅立ったと伝えてくれ」
 こくりとイエナが頷くのを見つめて、フォルマティオは傍らのラクに飛び乗った。滑るように駆け出すラクの背で、風が頬を打つ。
「砂漠を照らすシャトアよ、砂漠を渡る星の民《シャトラン》をお守りください」
 囁くように呟いたイエナの言葉は、もう、フォルマティオの耳には届かなかった。

-FIN-