第一章『k-2011』(1)
赤く不透明な液体の中で、それは微かに蠢いているようにも見えた。実際には、その蠢きが肉眼でわかるはずはない。液体の中に浮遊し、蠢いている物体の大きさは0.02μ――顕微鏡を使うことで、ようやく識別できる程度の大きさなのだから。
だが、その赤く不透明な液体は、確かに蠢いている。その見えざる蠢きは、僅か30分という短い間に、チューブに充填された紅い液体を、かすかに濁った褐色へと変えてしまったのだ。
美都《みやこ》は、その赤い液体を密閉した試験管チューブを映し出し続けているモニターの画面を恐ろしげに眺めた。数時間前、その試験チューブにウイルス培養用の細胞浮遊液を詰めたのは、美都自身だった。宇宙服のような防護服に身を包み、マスクヘルメットの背後に伸びる酸素の配管に気を配りながら、実験動物から採取した検体をその試験チューブに注ぎ入れたその時は、まだ恐ろしくはなかった。増殖の早いウイルスだということは分かっていたが、その増殖能力がここまで凄まじいものだとは、知らなかったからだ。
美都は小さくため息をついて、画面から視線をはずした。だが、数秒もたたないうちに、何かに引き寄せられるようにまた画面を見つめてしまう。
怖いのだ。
目を離した数分の間に、試験チューブが激変してしまうかもしれない。そんな事実を突きつけられたら、どうしたらよいのか、分からない。
美都は、思い余ったように画面に手を伸ばし、そっと試験チューブの輪郭をたどった。実際にその試験チューブそのものに触れるためには、いったん実験棟の内部専用通路に出て、専用入口から入りなおさなければならない。
公的には、この研究室はバイオセーフテイレベル4研究室として登録されている。だが、今、美都が座っているこの場所は、事実上はそのはるか上を行く、バイオセーフテイレベル5とでも評さねばならないような場所だった。
巨大なドーム状の研究所内には、さらに小ドームが点在している。中央のメインドームは事務局のような役割をしていて、所長室や食堂もそこにあった。そのメインドームから放射状に伸びた通路の先に、研究施設の小ドームが並んでいる。各研究ドームからメインドームに行くためには、通路上に配された数箇所のエアシャワールーム――入るたびに5分間両扉がロックされ、嵐のような風の中でただ扉が開くのを待つしかないという、強制的なエアシャワーを経由して行かなければならない。
エアシャワーだけでなく、研究室全体の巨大送風システムによって常にメインドームから各研究ドームへと風が流れる仕組みになっており、各研究ドームの終末換気扇は、それぞれのドームに備え付けられた巨大排気パイプへと通じ、排気された空気は数種類の細菌フィルターへの吸着と化学処理が行われ、地中深く埋められた排気専用のパイプから海へ――国際的に廃棄領域と定められている領海へと流される仕組みになっていた。
例えば、研究ドームに異常が起きたような場合、メインドームへの通路は自動的に厚さ2メートルの壁によって閉鎖され、研究ドームの内壁と外壁の間に設けられている閉鎖用の空間へセメントが流し込まれる事になっている。一応、地下には研究員のための非常用脱出路が整備されていたが、場合によってはそれすら破壊されかねない。――もちろん、『閉鎖の際の事故で脱出路が破壊されてしまった』ということになり、故意に行ったことではないとされるのだろうが。
研究員の命よりも、その研究ドームから様々なウイルスが漏れ出ないようにする事の方が最優先される、国立ウイルス研究所――そんな平凡な名前を持つこの研究所を、しかし周囲はこう呼んだ――Easten Viral Infection Lab. 通称『EVIL』――。
国家として、あるいは世界的に重要な研究をしているがゆえに、いったんEVILの住人になると、どんな状況であっても離脱は許されない。最高の科学水準と研究施設を誇る研究所は、多くの科学者の憧れでありながら、同時に巨大な牢獄だった。
だが、そんなEVILにも、ただ一人、離脱し地下に潜った男が居た。結城琢己――美都の同期生であり、かつてのパートナーだった男だ。美都はいま、小ドームの中でただ一人、その琢己を――かつて自分を捨てた男を、待っているのだ。
何故、彼に限ってEVILの追っ手がかからなかったのか、美都は初めは不思議でならなかった。だが、彼が身を落ち着けた先がレジスタンスだったことを知り、追っ手がかからなかったのではなく、追えなかったのだということを知った。
EVILとレジスタンスの間には、過去からの深い確執がある。EVILは常にレジスタンスの標的の一つであったが、同時にEVILが生物兵器を開発し、レジスタンスがそれを実際に使用する――事実上の地上実験を行う――という関係も否定できなかった。レジスタンスと国家の両者に生物兵器を与えるのはEVILで、その兵器のワクチンを開発するのもEVILだった。肥大化した頭脳を持て余した胎児――レジスタンスはEVILをそう揶揄し、EVILはレジスタンスを、頭脳なき獣だと評した。
美都は何度目かのため息をついた。彼女の美しい顔は、この数日の苦悩で曇り、こうしてただ待ちつづけている間にも、微妙に色合いを変化させていく試験管チューブを、沈痛な面持ちのまま、黙って見つめていた。
「培養細胞は腎臓?」
目の前に提示されたモニターの中の試験管チューブを、その横に表示されている内部温度や湿度の情報とともに興味深げに眺めていた琢己は、そう短く尋ねた。そして無邪気に、触りてぇなと小さく呟く。
「ダメよ。まだ感染経路がはっきりしていないんだから!」
子供をしかるような美都の口調に小さく首を竦めてみせると、琢己は、厳重に保管陳列され、固く蓋をされた赤い試験管チューブをしげしげと眺めた。
「そんなに威力があるの?」
そんな無邪気な琢己の様子をまるで子供のようだと思いながら、美都は黙ってテーブルに散乱していた紙の束を手に取り、プロジェクターのスイッチを押した。
壁に試験管チューブが二本映し出される。
「右側が今あなたが見ている試験管チューブ。今日の午後2時の撮影だから――ちょうど今から一時間くらい前の状態ね。左の写真がその試験管チューブのさらに二時間前――正午の姿……」
その二つの写真では、試験管チューブに充填された培養細胞液の色が明らかに違った。その違いは、そこに植え付けられたウイルスの増殖能力の高さを思わせる。
琢己は小さく口笛を吹くと、長い足をテーブルの下で組みかえる。手近にあった紙を引き寄せると、それが不要な紙であることを確認してから胸ポケットからペンを出した。これからの説明で気になった部分をメモしようというのだろう。
「今の写真は常温で保管したものなんだけれど、保温槽に入れて観察したものが、これよ。37度で保存した時の様子。そして、20度での培養、5度、そして、0度。10時に植えつけて、正午と午後二時に撮影したわ」
美都は矢継ぎ早にスライドを進めた。最後の一枚だけ、培養細胞液の色が植付けから変化がみられない。
「凄いな、5度なんていう低温でも37度の時と同じ増殖能力を持つのか。じゃぁ、研究室は冷凍庫状態にしなきゃ……」
琢己は軽い冗談のつもりだった。だが、美都は笑いもせず、ただ頷いた。
「そうなるわね…」
当てが外れたように肩を竦めた琢己を視線の端に捉えて、美都は一瞬苦笑すると、再び手元の資料に視線を落とし、ゆっくりとスライドを進めた。
「このウイルス感染症は、最初、南アフリカ酸素生成プラントの巡回監視員に発症したわ。当初はエボラ出血熱が疑われて、すぐに血清療法が行われたけれど、効かなかったの。エボラの変異株かとも思われたんだけれど、少し、症状に矛盾があって……。実は南アフリカ酸素生成プラントの近くには、以前うちが使用していたウイルスの研究所があって――南アフリカで炎上したウイルス研究所の話は、あなたも知っているでしょ?」
「博士の鳥篭だろ?」
EVILによって、国外で秘密裏に運営されていた研究所だ。
「そう。そこからウイルスが漏れた可能性は否定できないの。だから、報道的にはエボラの変異株という事にして、事実関係をこっちで研究することになったのよ」
壁に映し出された監視員の眼球は充血し、皮膚から幾筋も血が流れ出していた。それは激烈なウイルスの感染症状を示しているといっていい。致死率はおそらく100%に近いのだろうと推測し、琢己は眉をひそめた。
「感染の広がりは?」
「現地の住民が何人か感染したそうよ。でも、すぐに隔離してあるから拡大はしてないわ。オリジナルの感染元を探るための調査ユニットは、既に現地に派遣してあるの。私がここでやるべきは、このウイルスの正体を解明することなのよ」
美都はスライドを進めた。不意にサルが映し出された。
「既に、サルを使った実験は現地でも始めているわ。でも、今までに解明できたことは、ほんの少しなの。ウイルスの形は正20面体型で、エンベロープ(被膜)はなし。核酸タイプは一本鎖のRNA。――形からいくとポリオウイルスに似ているわね……。もちろん、ポリオはこんなに増殖能は高くないし、こんなに危険でもないけど」
スライドに映し出された不鮮明な写真の中で、サルはぐったりと体を弛緩させていた。既にその命がこの世には繋ぎとめられていないことは明らかだ。
「潜伏期は不定。不明ではなく、不定なの。――通常ウイルスは感染するとすぐに自己増殖をはじめるけれど、このウイルスは違うわ。それがこのウイルスの最大の特徴と言ってもいいかもしれない。このウイルスが自己増殖をはじめるには、きっかけが必要なのよ。しかも、そのきっかけを得るまで、じっと体内で息を潜め続けるの」
カシャリと小さな音を立ててスライドが切り替わると、こんどはサルの眼球が映し出された。器具で瞼を大きく開かれ、その赤黒く充血した白膜は至る所で血管が綻び、小さな出血を生じている。
「このウイルスはまず、網膜と視神経に感染する。そして、紫色の光――プリズムで生成されたような、可視光線の中で一番波長の短い光を一定以上浴びると、突然増殖をはじめる。培養液では腎臓の細胞を使ったけれど、およそ体内のありとあらゆる細胞で増殖できるといってもいいわ。増殖能力だけをとって考えると、エボラ以上かもしれない」
琢己は不意に寒気を感じた。写真で大写しにされたサルの眼球にはメスが入れられ、そこから褐色の汚濁が流れ出ていた。
「症状は、きっかけとなる紫色光線が与えられない限り出てこない。けれど、きっかけが与えられると、ウイルスは眼動脈から血流に乗って全身に散らばり、ありとあらゆる細胞を融解させる。血液凝固の為の体内因子は、約30分で消費し尽くされ、それ以降は出血しつづけるわ。この、サルを使って実験していた研究員は不幸にも感染してしまって、全身から血を流し、最終的には心筋が壊死して、感染から10時間で死んだわ。皮膚は――おそらく血流量の問題だと思うのだけど――あまり損傷を受けないの。けれど、皮下組織はドロドロに融けるから、力を入れるとズルリと剥けるわ。これがその解剖記録よ」
開腹された研究員の内臓は、そのほとんどが姿を留めていない。褐色の半ば液化した腹部の中で、唯一大動脈だろうと思われるチューブ状のものが、ある程度の形を残していた。開かれた肋骨の下に心臓は一部だけ残っていたが、心臓から伸びる静脈には虫食いのような穴が幾つも見られ、最後は破れたように途絶えていた。解剖の時に無理な力がかかったのだろう、ベロリと剥けた皮膚の下から褐色に変色した筋肉が見えた。
スライドには解剖を担当した医師も映っていた。その顔にヘッドマスクがないのを見て、琢己は眉をひそめた。
「このドクター、マスクは?」
「一応、検体を採取した後、消毒も兼ねてホルマリンで固定してから解剖したの。解剖当初はヘッドマスクをしていたのだけれど、途中で事情があってヘッドマスクを変更しなくてはならなくなって、そうしたら、あうサイズがなくて――解剖ももうほとんど終わりだったから、ドクターはマスクをしなかったらしいのよ。短慮よね。――このドクターは感染して、研究員と同じように死んだわ。発症初期の記録では、指や腕に直接の感染経路を示唆するような傷はなかったそうよ。おそらく、解剖の際に何らかの形で検体の体液の飛沫を浴びたんでしょうね」
「口からの飛沫感染ならいいけどね……」
琢己はうんざりしたようにスライドから目を離し、ガラスの箱の中でいまなお増殖を続けている見えざる侵略者に目を向けた。
――眼球粘膜からの感染も考えられるわけだ。最初の感染は眼部に限定されているわけだし。
口には出さずにいたが、美都には考えている事が分ったようだった。
「そうね、全員が宇宙服みたいな格好をして街を歩き回りたくはないしね」
琢己はゆっくりと美都の顔に視線を戻した。目の前にある白い顔を情熱を持って見つめ、愛撫した日々もあった。だが、どんなに情交を深めても、美都という女は変わらなかった。徹底的な合理主義で貫かれた信念の中に、『愛』という文字はなかった。そんな彼女を周囲は『鋼鉄の女』だと揶揄した。
「それで、俺にどうしろって?」
美都はまっすぐに琢己を見つめた。人生の中で唯一体と心を許した男は、今や自分とは敵対する立場にいる。しかし、このウイルスの危険度を考えると、全幅の信頼をおいてともに研究できる人物は彼以外には考えられなかった。
「プロジェクトに入って欲しいの。所長の了解はとってあるわ。あなたが研究所と連合との繋がりをよく思っていないのは知っている。でも、分かってもらえたと思うけれど、緊急事態なのよ。このウイルスは感染力が高い上に致死率も高い。幸運なのは潜伏期間が短いから比較的感染が広がり難いということだけれど、血清が出来ない限り安心なんて出来ない」
美都はゆっくりと資料の束を琢己の前に突き出した。
「あなたの連合への感情は知っているつもり。だから、あなたが研究所を辞めたときも、私、泣いたりすがったりはしなかったわ。でも、もう私には、貴方しか頼れる人間がいないのよ。おねがい……」
「細菌兵器の尻拭いか……!」
琢己はもう一度スライドに目を移した。そして乱暴に資料の束をひったくると、視線を落とした。
「博士も罪なことをしてくれたもんだ」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、琢己はすべてを意識から追い出すように資料に集中し始める。
資料の一行目には美都の几帳面な字でこのウイルスの研究コード名と通称が書かれていた。
――k-2011 5-10 type RNA pass=snow プロジェクトコード:snow――「『k-2011』変異増殖株」