≪ 第一章『k-2011』(2) | Serial Story:S.F. | 第一章『k-2011』 (4) ≫

第一章『k-2011』(3)

 琢己はふと肌寒さを感じて資料から目を上げた。読み進めているうちに、日が翳ってきたことにも気が付かないほど集中してしまっていたらしい。薄暗くなり始めた室内は静かで、視線の先にあるどす黒い試験管チューブは不気味に沈黙している。視線を巡らせると、隅の机の上で美都が突っ伏していた。かすかに肩が上下しているのが見える。きっと眠っているのだろう。

 琢己は上着を脱ぐと、そっと美都の側に歩み寄り、起こさないように注意して掛けてやった。
 ――おそらく、連日徹夜だったんだろうな。
 美都は恋人にして仲良く睦みあうようなタイプの女ではない。結婚には不向きな女だし、プライドも高い。だが、だからこそ美都は美しい。
「琢己……?」
 ぼんやりと美都の顔を眺めていると、まだ焦点の定まっていない美都の視線と出合った。
「ごめん、起こしたか……」
 ようやく肩にかけられた上着に気がつき、美都は小さく笑った。
「ありがと……。資料、読めた?」
 机の上に行儀悪く座ると、琢己は頷いた。
「あのウイルス――『snow』の母体である『k-2011』の最初の母体は、何だと思う? 大きさや核酸のタイプから考えてピコルナウイルス科だと思うけど、その中のどれかなんて、同定できるか?」
 美都は首を振った。
「無理よ……。ピコルナウイルス科は一番種類が多いわ。一番小さくて、一番単純な形をしたウイルス。――ヒトに属するものだけでも同定されている種類が200を越えるわ……。ヒト以外の属性でヒトにも感染し得るものを含めたら、同定には天文学的時間が必要ね」
 指先で資料を弄びながら、美都は言葉を続けた。
「『snow』は単に『k-2011』が変異しただけではないみたいなの。おそらく近種のピコルナウイルス間で数回から数十回の組換えが行われていると推測されるわ。そう考えないと、RNAの塩基鎖があまりに『k-2011』とは違いすぎる。こうなると、『k-2011』の十分な資料が残っていないのが、致命的ね。『snow』と『k-2011』の共通点は、0度以下では完全に活動を停止すること、そして日光に反応すること、この2点だけ。『k-2011』は確かに細菌兵器を目的とした試験的開発だったけれど、毒性そのものはまだそんなに強くなかったのよ」
「『k-2011』はどういう使用法だったんだ? 当然、知っているんだろう?」
 琢己の問いかけに美都は口を閉ざした。意志の強い切れ長の瞳が、一瞬危ういほど揺らいだのが見えた。
「教えろよ。プロジェクトに組み込まれて研究をするためには必要な情報だろう?」
 沈黙が流れ、琢己が諦めかけた頃、ようやく美都は重い口を開いた。
「『k-2011』は髄膜炎を起こしやすいウイルスよ。活動温度の幅が広くて、水などから飛沫感染・粘膜感染によって体内に入る。日光を浴びることによって体内で発生する活性ビタミンDの補助作用で増殖能が格段に高まるわ。使用法は――『k-2011』を混入した水を使って、人工的に雪を降らせるの。ウイルスは0度以下では完全に活動を停止するからマスクと眼鏡で完全防備していれば事実を知っている人間には感染率が低い。もともと、雪の降る地域を想定敵国として開発されてきたウイルスなのよ」
 美都は不安げな眼差しで琢己を見上げた。

 琢己と美都との付き合いは長い。大学の特別研究室で出会った時、美都は16で琢己は17だった。ともにかなり飛び級をして大学に入り、学業の傍ら研究室の手伝いをしていたが、今ほどには飛び級制度が浸透していなかったこともあり、周囲からは特別視され、大学内での居心地は悪かったといってもいい。
 両親が研究者であり幼い時から英才教育を受けてきた美都と違って、琢己はごく普通の家庭の中で育ち、自分の力で研究者の地位を獲得した。最先端の研究を行うこの国営の研究所にも、美都が推薦のような形で配属されたのと違い、琢己は半ば強引に引き抜きのようにして配属された。――だが、バックグラウンドが全く異なっていたとはいえ、常に特別視される境遇が同じだった二人は、次第に同じ時間を過ごすようにもなった。そんな時だ、琢己が叔父を連合――国際政府連合特殊捜査部に社会犯罪者として射殺されたのは。
 もともと琢己には強い反連合意識があった。その事件をきっかけとして、研究所の最大の出資者が連合であることを知った琢己は、当時行っていた機密レベルの研究を放棄し、資料を処分した。そのまま研究所を辞し、さらには追及の手を逃れるために地下に潜った。
 地下――そう、こんなに恵まれた時代であってもレジスタンスは存在する。地殻変動によって国家間の垣根を越えた連合政府が必要となった世界は、一見矛盾なく営まれているように見える。だが、一歩裏側を見れば、連合政府と、本来の国家ごとの政府と、そしてレジスタンスが三つ巴で頭を付き合わせている。微妙な三者のバランスの中で、ようやく釣合いが取れているのが今の社会であって、上澄みのような平和の下には、さまざまな思惑が飛び交う。

「『k-2011』が試験開発で終わったのは、研究の中心的人物であった博士が自殺したからなの。彼は開発された『k-2011』を全て焼却してしまった。資料がこんなに少ないのもそのせいなのよ」
 科学者で自分の研究内容を全て抹殺できるものはほぼいない。科学のためという名目の元で、どんな劇薬も、どんなに危険なウイルスでも一部は必ず保管されるものだ。科学者は、自分が追い求めている真実が研究の先にあると信じている。少なくとも琢己は信じていたし、事実、自分の研究内容を全て抹殺できなどできなかった。地下に潜る際に、琢己は当時の自分の研究材料を全て抹消したと周囲に思わせていたが、実際は、研究対象を街に解放し、その後も定期的に連絡を取り合い、研究対象であった彼の観察は続いている。
「ウイルスを全部? 本当に? 血清は?」
 すべてを無に返すには恐ろしい意志の力が必要だ。そしてその結果が確実に正しいとは断言出来ない。ウイルス研究の場合、仮に同種のウイルスが発生しとしたら、かつてのその研究の資料が血清精製の助けになる場合もあるからだ。
「ウイルスも、血清も、そのウイルスの母体となった物の資料も、彼は全部自分と一緒に燃やしたの。残された資料は報告のために月に1通送られていたレポートの中身だけよ」
 ゆっくりと美都は立ち上がった。肩から上着を外すと、そのまま琢己の前に立つ。薄暗くなった部屋の中で美都の瞳だけが僅かな光を受けてキラキラと輝いていた。
「これは、私の想像なんだけれど、彼は『k-2011』に感染していたのかもしれない。この『snow』の母体になった『k-2011』は、彼の死体から分離され、何か他の動物の中で生き続けて、組換えを繰り返したんじゃないかしら。そう考えると組換えが頻繁に行われていたのも頷ける気がする。彼が命を絶ったのが、問題の南アフリカの酸素生成プラントの傍の研究所なの。今回のウイルスが発見されたのもその地点よ。最初の犠牲者はプラントの監視員だもの。――アフリカにはおそらく、まだ私たちが知らないウイルスがたくさん居るはずだし、有害物質除去が徹底されていないから、組換えも起こりやすい条件にあると思うの」
 自らの考えに恐怖を抱いたように、美都は肩を震わせた。琢己は美都が手に持っていた上着をもう一度肩にかけてやった。
「科学者が根拠のない推論を推し進めるべきじゃないな。たとえ、その推論がどんなに事実に近い要素を持っていたところで、その推論が事実であるかどうかは、解決法とは全く関係がない」
 美都はゆっくりと琢己に寄りかかった。以前知っている体の厚みより更に細くなってしまった体を琢己はそっと抱きしめた。
「私、怖いのよ。笑っていいわ。鋼鉄の女が……」
「違う……」
 琢己は短く否定すると、震えている首筋に唇を押し当てた。
「お前は誰かに寄りかかること、誰かに守られること、そして誰かを愛することを学ばなかっただけだ」

 彼女はどうしようもなく強いがゆえにどうしようもなく脆かった。心の弱い人間なら悲鳴を上げてすぐにリタイアしてしまうような状況にも、彼女の精神は立ち向かった。琢己が破格の扱いを受けながらも体制を批判する異端児でいたのは、信念などという格好いい考えからだけではなかった。異端児でいれば風当たりは強くはなかった。『まぁ、あいつは変わり者だから』という言葉が、琢己に向かってくる無言の負の刃をそらす結果になっていた。
 だが、美都は違った。両親共に有名な研究者だというサラブレッドの血と才能を周囲に見せつけ、美しい顔に艶やかに化粧をし、自分に与えられる様々な利権を惜しげもなく周囲に見せつけた。そうすることによって彼女は彼女なりの鎧で全身を覆い尽くしていたのだ。
 ――だから、たぶん、惹かれたんだろうな……。
 琢己との愛の語らいの場面でまで、美都はその鎧を外さなかった。だが、深く眠りに落ちた後の彼女が無意識にすがるように琢己の腕を掴んでいたことを、琢己だけが知っている。
「捜しているんだろう? 今もアフリカではそのオリジナルをさ。だったら、俺たちは俺たちでできることを考えればいい。まずは感染経路の確定だ」
 美都は琢己の腕の中にいた。泣きそうに歪んだ顔が、一瞬危ういほど揺らいで、小さな微笑が唇の端にのぼった。


 色々と後始末をしてくる、と琢己は美都に伝えておいた。
 研究に入るともなれば、山ごもりに近い生活になる。もちろん、最新の研究施設だから宿泊用の部屋もあれば簡易キッチンもシャワールームもある。だが、日常的に外出すること自体に様々な危険が伴うようになるだろう今回のウイルス研究では、ちょっと郵便物を受け取りに行くという行為さえもがままならなくなる。それ相応の対応はしておかなければならない。当然ともいえる琢己の言葉に、美都は納得していたようだった。
 だが、琢己が本当にしたいことはそんなことではなかった。琢己には、かつての研究対象であり、現在では自分が後見人のような形で世話をしている人物がおり、どうしてもその人物に連絡をつけておきたかったのだ。
 アパートに滑り込むと、琢己は机の上の半分以上を占領している大きな端末機のスイッチを入れた。自動的にメールを回収し、不在中の通信や来訪者の一覧が表示される。それらにこれといった異常がないことを確認すると、琢己は手早く通信用ダイアルを回した。
 数回の呼び出し音の後、不意に画面は明るくなり、少女のようにも見える幼い顔が映し出された。
「こんにちは、どうされました?」
 静かな微笑を含んだような笑顔。線の細い印象は昔から変わらない。
「よう、坊主、元気か? また背が伸びたんじゃないか?」
 坊主と呼ばれて、不意に相手は破顔した。屈託ない笑顔はまだ少年と言ってもいい。だが、次に少年の口から出てきた言葉は、その笑顔とはあまりに結びつかないものだった。
「それは、もう、成長期ですからね。今が多分、伸びのピークじゃないでしょうか。それに伴って幾分体内の電解質バランスに不安があります。次の検査は少し早めにお願いできませんか?」
「そのことなんだが……」
 琢己は語尾をつまらせると、少年の笑顔を伺うように眺めた。
「実は、どうしようもない事態が発生してEVILのプロジェクトに参加する事になった」
 『EVIL』という単語を聞くなり、少年の顔は強張る。
「いや、お前に関係する内容じゃない。実は、南アフリカ酸素生成プラント付近で、かつて研究所が開発していた兵器用のウイルスに関連した致死的ウイルスの発生が確認された。まだ資料の一部を読んだだけだが、驚異的なウイルスだと言っていい」
 ほっとしたのか、少年の顔に笑顔が戻る。そして、興味をかきたてられたように、その瞳が小さく光った。
「南アフリカの酸素生成プラント付近というと、近年、有害物質の濃度の上昇と気温上昇について問題視されている地域ですね。昨年でしたか、確か、黒羽蝶の異常発生が伝えられたりもしましたが……」
「そうだ、その地域だ。実は、今回の致死ウイルスの母体となった兵器ウイルスは資料が乏しい。虫のいい話だが、場合によってはお前のその頭脳が必要になってくる可能性もある。もしもそうなった時は、協力してくれるか?」
 少年は心配そうに上目遣いになっている琢己を見て呆れたように笑った。
「かまいませんよ。僕はあなたに作られたものです。人間の創造主が神なら、僕の創造主であるあなたは、僕にとっては神だ。実際には3年前、僕は処分されていて当然だった。事実、世の中の人は僕は処分されたと思っているでしょう。今の僕があるのは全て、あなたのお陰です」
 琢己は少年の寂しそうにも見える微笑を見つめ、小さくため息をついた。
「悪いな、坊主。勝手に作り出して、勝手に放り出して。でも俺は、お前を最期まで見つめるからな。お前の最期は俺が看取ってやる」
 少年は嬉しそうに笑い、照れたように鼻の頭を掻いた。そして、不意に表情を引き締めた。
「今後の連絡先と連絡端末を教えておいてください。僕の方も可能な範囲で資料を集めてみます。僕の端末はいつものとおりです。もしも、僕が解析したほうが効率がいい資料などがあったら、入れておいてください。結果は端末でお知らせします」
 手早く連絡先を教え、通信監視システムの問題があるので資料に関しては端末からハックして持っていってかまわない旨を伝えると、琢己は手早く通信を切った。画面に白い顔の残像が一瞬だけ浮いて、不意に部屋は静かになった。
 ――5年、か……。
 実際の予備研究から入れれば約7年、琢己は彼と向き合っている事になる。彼に名前はない。研究者は彼をtype-Mと呼んだが、琢己だけは彼を『坊主』と呼んだ。
 ――坊主といっても、奴の染色体はXXなんだがな。
 受精卵に対し、ある特殊な化学物質の投与を行うと分断した体のパーツを分化誘導できる――。その内容も、実際のクローニング自体もグロテスクでさえある。だが、そのグロテスクさなど吹き飛ばしてしまうだけの科学的熱狂がそこにはあった。
 顕微鏡の視野の中でゆるやかに回転している卵。自己増殖された卵はそれぞれ異なった試液につけられ、分化誘導試験管の中でゆるやかに細胞分裂を繰り返す。
 女性体の卵を使った実験だけが成功した。男性染色体と使用したものと、人工DNAによる実験では試液中で卵が壊死したのだ。壊死の原因は投与された神経増殖因子との相性が悪かったためだ。女性体の卵だけが、その神経増殖因子とどうにか共存し、そして彼は生まれた。
 琢己はぼんやりと暗くなった画面を見つめた。既に彼の研究が崩壊してから3年が経つ。名前を付けなければならないと思いながら、つい、後送りにしてきた。――怖いのかもしれない。名前を付け、一つの人格として彼を認めることが。
 琢己はため息をつくと、考え込んでしまいそうになる思考を無理やり追い払い、乱暴にバッグに服を詰め込み始めた。そしてもう一度端末のスイッチをつけると、郵便物の配送先の変更願いと、ごく親しい人間にだけ連絡先変更の連絡を出し、スイッチを切った。
「さて、行くかな」
 一度部屋をぐるりと見渡すと、琢己はバッグを肩にかけ、幾分乱暴に部屋の鍵を閉めた。ふと、視線のようなものを感じて空を見上げると、すっかり暗くなった空に、月が顔を出していた。

≪ 第一章『k-2011』(2) | Serial Story:S.F. | 第一章『k-2011』 (4) ≫

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)