第一章『k-2011』 (5)
「すいません、もう一度、言ってください」
美都が耳にしたのは信じられない――信じたくない現実だった。美都は、目の前で渋い顔をして頭を抱えている男性の唇を見つめた。深夜だというのに二人ともまったく眠たげな様子が見えない。――もっとも、寝てなどいられない状況ではあったのだ。
「オリジナル感染元を特定するために現地に飛んだ部隊が、全滅した……」
分厚いカーテンと天井まで届く書架で埋められたこの部屋は、研究所の所長室になる。彼はこの研究所の所長という肩書きを持っていたが、実際には連合から派遣された事務官だ。実質的に研究を切り盛りするのは、彼の下にプロジェクトごとに配置されるプロジェクトリーダーになる。
プロジェクトはユニットという研究員2人組の最小組織によって構成される。研究の全体像を把握するのはプロジェクトリーダーのみ。ユニットごとの指令はリーダーによって出される。ユニット間で情報の交換をすることは禁じられ、違反すれば軽くて罰金、時には実刑がくだる場合もある。プロジェクト参加の時点で署名させられる誓約書には、その旨の規定も盛り込まれていた。だが、実際には社会的な制裁を受ける以前に、闇に葬られることの方が多かった。
美都は現在プロジェクトリーダーの権限を与えられ、その指示で感染源だと推測される場所に3ユニットを派遣させていた。
「どういう経緯ですか? 感染したんですか?」
もちろん、資料を見せた時点でウイルスの危険性を十二分に理解した研究者たちだけを派遣した。辺境の土地のことなので若手を起用した方がいいという意見もあったが、どんな状況にも冷静に判断できるように、敢えて経験豊かな研究者を選んで派遣したのだ。
「感染についてだけ言えば、全員が感染した。最初にあのウイルスを発見した時、感染者は全員隔離し、身の回りのものから全て研究材料としたのは、君の方がよく知っているだろう。ところが、その一連の処理や今回の派遣について、レジスタンスの一部が首を突っ込んできた。彼らはそのウイルスは細菌兵器で、罪もない辺境の住民を実験材料にしたのだと、そう考えたらしい。――まぁ、実際当たらずとも遠からずではあったんだが……」
美都は話の核心にいつまでの触れようとしないその態度に、苛ついたように唇を噛んだ。
「彼らレジスタンスの中の武闘派とも言われる連中が、ウイルス分離中の簡易研究室に突入した。そして、自らも感染し、襲撃を受けた我々のユニットも、感染を免れなかった」
美都は声を失った。ウイルスの実体を知っていればこそ、その行動を短慮だと思う。だが、レジスタンス側もまさかそんな致死ウイルスだとは想像もしなかったに違いないのだ。この目で増殖能力を確認した自分さえも、それが事実だと認識する事が難しかったのだから。
「では、早く、次の捜索ユニットを……」
今はまだ、死を悼む時間はない。体に血清を持っている可能性がある、オリジナルの感染元を捜索し血清を作る方が先決だ。
「その必要はない。もう、感染元を捜索することは不可能だ」
男は美都の前にニュースのコピーを差し出した。粗い粒子の写真には大規模な山火事が写され、見出しに「アフリカ南部酸素生成プラント」の文字が踊っていた。
「この場所は……」
「レジスタンスが自ら火をつけた。山火事として事件報道がされている。当分、ヘタな動きは出来ない」
眩暈に似た感覚が美都を襲った。手元にある僅かな『k-2011』の資料とウイルスを使って、血清を合成するしかないのだ。
「彼らは最期の瞬間まで科学者だった。発病後のレポートが届いている。彼らの遺書とも考えられる内容だ。読んでやってくれ」
レポートの日付は一昨日。文字通り、彼らの最後のレポートだ。
不幸にも我々全員は感染を確認した。一番症状の重い者は既に幻視など、精神障害の兆候が見られ始めている。我々はレジスタンスとの事故当時の記憶を可能な限り再現し、何か、感染に関して新たに発見、ないし推論できる事がないか、全員で話しあった。
まず、最大の問題といってもいい感染経路についてだが、このウイルスはおそらく飛沫感染によって感染する。
我々は全員、実験用のプロテクトスーツを着用していたが、事故によりスーツを切り裂かれ、ウイルスに感染した。このとき、プロテクトスーツ着用に加えて防護マスクを使用していた者もいたが、感染から発症にいたるスピードは他者と比べても違いはない。
特に現在最も病状が進んでいる者は、事故当時プロテクトスーツの顔面に殴打を受け、眼部付近に負傷している。推論でしかないが、通常見られる口腔内を介した飛沫感染より、眼球粘膜、ならびに顔面負傷からの感染の方が病状の進み方が早いのではないだろうか。
次にウイルス増殖における体内の変化としては、最初に侵され障害が現れるのは腎臓であった。全員が、早いもので感染後1時間、遅くとも2時間までに血尿と下腹部の違和感・疼痛を訴えている。その後、腹部不快症状――おそらく腸管が融解していくために起こると思われる腹痛や嘔吐に加え、発熱と粘膜充血が生じる。同時期に筋肉把握痛が起きている。
感染から6時間経過した現在、神経障害の兆候が見られ、体を動かし思考することもおぼつかない。このレポートを書くために一文字打つのにも時間がかかる。
ありとあらゆる血液が通っている臓器が、炎症を起こし、痛み、融解しているのだと、否応なしに自覚させられるような激痛が我々を襲っている。
もう、我々には時間がない。
この致死ウイルスを黙らせる血清の生成のために、自分たちが何も貢献できなかった事が、大変残念だ。
健闘を祈る。
美都は、最後の一文を読んで、思わず目を閉じた。
――健闘を祈る。
その先の自筆の署名の部分は震えてほとんど読み取ることが出来ない。
「君にもう一つ渡したい資料がある。『k-2011』の母体となったウイルスに関する資料だ」
男は電話のコールボタンを押すと、短く「連れて来い」と伝えた。すぐに扉が開き、車椅子に乗せられた女性が部屋に通された。薬を使われて眠らされているのだろう、口元に酸素マスクを当てられ、力なく投げ出された腕は柔らかな素材を使った医療用の拘束器具でしっかりと車椅子に固定されていた。
「これが、『k-2011』の資料、ですか?」
「彼女は『k-2011』のウイルス研究に従事し最終的には自らの研究内容と共に命を絶った研究員、狩野博士の元助手で、彼の妻だ。そして『k-2011』の母体となったウイルスのただ一人の感染者だ」
美都は曖昧な表情を浮かべたまま眠っている女性を見つめた。
「もうじき薬もさめる。協力的ではないと思うが、どうか、彼女を説得して研究に協力してもらえるようにして欲しい」
「分りました」
美都は小さくため息をついた。目の前の痩せた女性を見つめると、複雑な感情が湧く。彼女のほつれた前髪に、科学者としての、科学者の妻としての悲しみが降り積もっているような、そんな気がしていた。
「なんてことだ……」
現地に派遣されたユニットの最後の手紙となったレポートに、目を通していた琢己が最初に言った言葉は、美都が予想していた通りの言葉だった。
「悲劇だな……。クソ! もう少し早くこのウイルスの事を知っていれば……!」
そう、もう少し、琢己が事実を知るのが早ければ、もしかしたらこのレポートのような最悪の事態は防げたかもしれない。緊急の連絡手段を用いて、現地のレジスタンスの代表者に事態を報告することが出来たかもしれなかった。
「現在の状況は?」
一番気がかりなのはレジスタンスの動向だった。ユニット壊滅は確かに残念なことだが、彼らはウイルス研究を生涯の目標に据えたプロだ。確実に感染が広がらない処置をしたに違いない。だからこその山火事だろう。しかし、レジスタンスは違う。彼らにどれくらい感染が拡がっているのか、彼らが自分自身の運命に気がつき、理性的な行動を取れるかに、ある意味世界の運命がかかっているといってもいいかもしれない。なにしろ、まだ、血清がないのだ。
「現地ユニットはレポート報告後、自ら研究所に火をつけたわ。高温で確実に体が炭化するように、燃焼剤を研究所内にばら撒いた上でね……。レジスタンスについては、全く報告がないの。一番恐ろしいのは、そこなのよ」
調査しようにもコンタクトをとる手段さえも分からないの、とため息まじりに続けて、美都は琢己を見つめた。
「私が、今回のプロジェクトにあなたの協力を求めたのは、それも理由なの。可能であれば、あなたにウイルスの警告を伝えて欲しかった……。今からでも、なんとかコンタクトをとる手段はないかしら」
琢己は小さく頭を振った。確かに琢己はそういう組織とつながりがないわけではない。だが、海外まで伸びるネットワークは細い。
――ネットワーク……。
琢己は不意に思いついた一つの考えに、僅かに戸惑いを見せた。
――もちろんレジスタンス側も通信ネットワークを使用しているはずだ。当然、その通信の中には現在の状況を報告する内容も含まれるだろう。内容をハックすれば、情報を得るのも可能かもしれない。もちろん、恐ろしいほど緻密なハッキングの腕が必要だろうが。
琢己には一人だけその腕を持った人物を知っている。彼はコンピューターそのものだ。もちろん、体は有機体なので通常の端末機のようにデータのロードを一瞬ではできないが、その情報処理のスピードは日常使用されている端末機のスピードをはるかに凌駕している。
――だが。
彼をこの状況に巻き込んでいいものかどうか、琢己にはまだ迷いがあった。
「あなたでも、無理? 私達は悪魔が牙を剥くのを、黙って待っている事しか出来ないの?」
美都の唇が震えた。彼女は事実、この見えざる悪魔に恐怖していた。仮に感染者が感染の事実に気が付かずに、或いはただの熱帯性の熱病だと誤解して、海外へ旅立ったらどうなるだろうか。山火事は各国のメディアを集めているだろう。もしも、その誰かが感染者と接触したら?
「現地ではどういう措置を取っているんだ?」
琢己は苦しげに唸った。
「連合側に強く現地の閉鎖の要求をしているわ。たぶん今日中には、南アフリカの半分が準閉鎖区域に、山火事周辺が完全閉鎖区域になると思うわ」
琢己は小さくため息をつくと、思い切ったように顔を上げ、美都を見つめた。
「俺が、ここを飛び出す前にやっていた研究を知っているか?」
美都は突然話題を変えた琢己を訝しげに見つめ、曖昧に頷いた。
「ええ。AOMCでしょう? 体を有機体で構成して、脳のかわりにAOMCで制御させるという実験。あなたがプロジェクトを自分の手で崩壊させた後、内部ではかなりその実験についての捜査が行われたのよ。結局、何も出てこなかったけど」
美都は不意に琢己から目を逸らした。
「私、あなたが、いくら有機体でも少女の形をしたモノを殺せるなんて思わなかった……。だから、驚いたわ」
琢己はその美都の横顔に視線を注ぐと、小さく息を吸い込み、思い切ったように言葉を発した。
「殺せなかったんだ」
「え?」
振り向いた美都の目に映ったのは、迷いと苦しみに眉根を寄せた琢己の顔だった。
「殺せなかった。受精卵の段階から分裂をつぶさに観察してきた。神経伝達物質の合成に成功して、受精卵にそれを投与し、初めて有機連合体として羊水の中で動いた時、神に感謝した。目の前で、5歳の少女の姿をしたあいつが全てを悟ったような顔をしてじっと殺されるのを待っているのを見た時、俺は、自分が犯した過ちの大きさと、これからやろうとしている過ちの大きさに震えた」
琢己は顔を覆った。
「俺は、奴を地下に隠した。定期的に連絡をとりながら、奴は地下で暮らしている。もう、体年齢は13歳になった」
美都は信じられないとでも言うように小さく首を振った。
「そんなの、上に知られたら……!」
重罪――おそらく、琢己もその研究対象も闇に葬られるだろう。それが、EVILのやり方だった。
「奴なら、情報をハックできる。安全に、ハックの事実すら相手に知られる事なく、現地のレジスタンス内部の状況を知ることが出来る」
美都は声もなく琢己を見つめていた。どうして今、琢己が自らの罪の告白をしたのか、ようやくその理由が分かったのだ。
「出来るの? 本当に、出来るのね?」
美都は慎重に言葉を選んでいた。
「私は何も聞かなかった事にするわ。プロジェクトリーダーには、強制的に全ての協力者と事実関係の報告義務が生じるけれど、聞かなかった事は報告できない。上が納得しないなら、協力者の替え玉を作ってもいい。コンピューターに特異な才能をもった匿名の協力を得た事にすればいいわ。14才までなら名前の報告義務までは生じないから」
卑怯なやり方だと、美都は自分でそう思っていた。琢己が告白したのは、そんな事務的な配慮をして欲しかったからではない事くらい、自分でもよく分かっていた。
「よかった……」
沈黙のあと、ポツリと美都は呟いた。
「あなたが、殺すような人じゃなくて、良かった」
語尾が震えた。不意に琢己に抱きしめられて、美都は初めて自分が泣いている事を知った。
「良かった……」
繰り返し呟きながら、美都は奇妙なほど安堵していた。それは初めて琢己に思いを告げられた時の感覚と、不思議と似通っていた。
「連絡してみる。悪いけど、1分だけ監視装置を止めてくれるか?」
静香は頷いて端末機に向かった。リーダー用のパスワードを打ち込み、監視装置のプログラムスキャンを行う。プログラムスキャン中は監視装置自体の機能は停止する。所要時間は約1分だ。
「いいわ、通信をはじめて」
琢己はすぐに別の端末機に向かい、いつもの連絡コールを入れる。呼び出し音が3回。不意に画面に彼の顔が浮き出た。
「こんにちは。どうされました?」
いつもと変わらない言葉で出迎えた彼は、少し蒼ざめて見えた。