第一章『k-2011』 (6)
「起こしますか?」
「いや、眠れる時は寝せておいた方がいい」
「そうですね……」
浮上していく意識の中に不意に会話が飛び込んできた。鼻腔をくすぐる珈琲の匂いが一気にめぐみの目を覚まさせた。
「――おはよう……」
毛布の中に丸まったまま、めぐみは二人を見上げた。瞼が重く、きっと無残なほど脹れているだろうと思い、めぐみは瞼を擦った。
「おはよう……」
めぐみはごそごそと起き上がると、顔を洗いたいと告げようとした。だが彼――自らをAOMCだと告げた彼は背中をむけて、めぐみのためのカップを用意しようとしていた。
声をかけようとして、めぐみは初めて気がついた。彼を呼ぶための名前を知らない。彼が告げた名前はAOMC-DNAtype-M projectID2048-2。だがそれは彼の実験用のIDであって、彼という個性を内包する名前ではないような気がした。
「――あの」
めぐみは躊躇った。何事かと振り向いた彼が、不思議そうに見つめて首をかしげる。
「何です?」
「私はあなたを何と呼べばいいの?」
大きく息を吸い込んで、めぐみは彼に尋ねた。一瞬停止した彼の顔が、困ったように伏せられた。
沈黙が流れた。
めぐみは不意に思い出した。ずいぶん昔に、自分の名前の由来を母に尋ねたときに母は言った。大地のめぐみを忘れないようにするためだと、女の子のなら『めぐみ』、男の子なら『恵』と書いて『ケイ』と付けるつもりだったと。
「私、男に生まれていたら『ケイ』という名前になるはずだったわ。だから私、あなたをケイと呼ぶわね」
乱暴な言い方だった。だが、そうでもしなければこの沈黙からは逃れられないように思ったのだ。
「はい」
ただ、彼は頷いた。微かに微笑んだ顔は優しかった。
保存用のパック食料を鍋にあけ、温めただけの簡単な食事だったが疲労した体には心地いい。ケイはめぐみ達にその食事をよそってやりながら、自分は小さな電解質ボトルを取り出した。
「ケイは食べないの?」
ケイは笑うと、ボトルのキャップを開いた。
「僕は今まで消化活動を停止させていたので、生体維持に必要な電解質は電解質そのものの形で摂らなくてはいけないんです。もちろん、プログラムを切り替えれば食事に参加は出来ますけど、正常に機能するまでに2日くらいかかるので……」
AOMCの一番の敵は温度だと言う。温度の変化は微妙な電解質バランスの乱れを生じる。生体プログラムを停止させている場合、AOMCは低い温度に設定されており、人間の体温に近い生体プログラムへの移行は電解質の温度を急激に変化させることになる。電解質バランスを崩さずに設定温度を上昇させるには最低でも2日はかかるのだ。
「昨日の夜、プログラムを変更したので、明日になればきっと食事もご一緒できます。それまでは、気になると思いますけど……」
彼はめぐみのために自分が生体機械であることを極力意識しないですむように努めようとしているようだった。パック食料でさえ、ただ温めて出すだけでなく、器にきちんと盛り付けていた。
「ううん。いいよ。気にしないから。――いただきます」
めぐみはようやくそれだけ呟くと、スプーンをそっと持ち上げて細かな野菜が米と一緒に煮込まれた食事に手をつけた。暖かく薄味のそれはすんなりと胃に入っていった。
「私、家を見に行きたい……」
何口か食事を口に運んだあと、めぐみは唐突にその言葉を発した。
我侭であることは分かっていた。頭の片隅ではその行為の無謀さを理解している。だが、家に帰れば、もしかしたら全てはいつもの通りで、母が笑顔で心配したのよと出迎えてくれるような、そんな気がしてならなかった。
「狩野、無理だ。もう少し時間がたたないと危険すぎる」
すぐに野島が否定した。
「でも……」
分かっている。自分の感情はただの夢だ。そんなことはめぐみだって分かっているのだ。
「セキュリティシステムには加入していましたか?」
ケイは思慮深げに指を組み、めぐみの顔を覗き込んだ。
「うん。たしか、SER社のクラスAに加入してたと思う。スイッチを入れると自動的に家の中の画像が保安部に送られるタイプの奴に」
微かに首を傾げた後、ケイは微笑んだ。
「それなら、もしかしてSER社の方からアクセスすれば家の中の様子くらいは見れるかもしれません。食事が終わったら試してみましょう」
めぐみは首を傾げた。あの時母は自分からドアを開いたので、セキュリティシステムは作動しなかったはずだ。
「――SER社のコンピューターにアクセスして、逆に家の中のスイッチを作動させるんですよ。そうすれば現在の家の中の様子が見れます。あの手のシステムは近所の方の通報の場合にも対応できるようになっているはずですから」
「――ハックするのか?」
野島が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まぁ、そういう言い方もできるかもしれませんけど、こちらに必要な情報を手に入れるだけで誰に迷惑かけるわけでもありませんから…。あなたの部屋も必要ならやりますが。ご家族が心配なさっているんじゃありませんか?」
気遣わしげに覗きこむケイに野島は笑った。
「いや。俺は地殻変動のときに家族を全部無くしているからな。その必要はない」
「え……?」
めぐみは思わず聞き返すように声を発した。ずっと、単に一人暮らしをしているだけだと思っていた。大学では生徒の大半が親元を離れて生活しているので、そんなことを気に留めたことはない。
「あ、別に自己紹介で言ってまわるようなことでもないからな、黙ってたんだ」
慌てたように理由を説明する野島を見て、めぐみは不意に父のことを尋ねた後の謝罪の言葉の意味を理解した。野島は同じ想いを経験した者なのだ。
「そうですか……。では食事が終わったら、SER社と管轄の警察内部、そして連合の支部の情報を覗かせていただきましょう。事件の処理がどうなっているか知っておきたいですし……。それに――」
ケイはそっとめぐみを見つめた。
「あなたにはまだもう少し、休養が必要ですから」
その言葉の中の優しげな響きに、めぐみは素直に頷いた。優しい味の食事のせいか、体が温かかった。
家の内部は悲惨な状態だった。じゅうたんは泥の靴で踏み荒らされ、テーブルにあったカップは床に落ちて割れていた。玄関の花は枯れ、流しには洗われていない食器がつけられたままだった。
母は居ない。めぐみは確信した。この部屋の様子がそれを証明している。
「――何か、探したみたいですね……」
画面が寝室に切り替わる。すると、慌てて何かを探したように扉が半ば開いている整理棚が目に入った。他の場所もよく見ていると、僅かにずれている引出しや、引き出され床に積まれた本など、明らかに誰かが家中を家捜しした形跡が目に入った。
「――何を?」
それが疑問だった。めぐみの家庭は平凡な家庭のはずだった。悩みの種といえば、オーブンが最近調子が悪いということだけというような、そういう平凡な家庭のはずだった。
「わからないですね。少なくとも小物入れに入る程度の大きさのものだということしか……」
ケイは内部の映像を画像データとして取り込み終ると、忙しくキーボードを打ち始めた。SER社ではセキュリティシステムへのハックを防止するために巡回プログラムが3分に一度の割合で走らされている。その上、5分に一度システムへのゲートパスワードは内部更新される。巡回10秒前にはこちらの足跡を全部消さなければならない。
「鮮やかだな……」
野島はその手元を見つめた。
「このタイプのハックはそう難しいことではありません。システムそのものがプログラム実行型ですから、同じ手順で確実に足跡を消して息を潜めていれば巡回プログラムをやり過ごすことが出来ます。難しいのは思考型システムの場合ですね。システムへのストレスパターンを分析して、通常より過負荷になっている部分の巡回が強化されるようになっています。思考型の場合、最悪ゲートパスワードが30秒ごとに更新される場合もあります」
ちなみに連合のシステムは思考型ですと笑って見せて、ケイはリターンキーを押した。
「進入痕跡は消しました。一度回線を切ります……」
ケイはコンタクトスイッチをOFFに入れると、取り込んだ画像を呼び出した。
「画像を見て、気になるところはありませんか?」
めぐみは食い入るように画面を見つめた。玄関に血痕は残っていない。ということは少なくとも母は無事である可能性が出てきたということだ。
――よかった。
そう思うなり、じわりと目頭が熱くなった。めぐみが小さく鼻をすすり上げると、そっと野島の掌が頭に乗せられた。
「何か気がついたことがあったらすぐ言ってくれ、俺はあっちでTVと新聞を見てくる」
めぐみはただ頷いた。画面の中に母の好きだったバラの花が半ば枯れて放置されていた。少しでも花が長生きするように母は毎日水上げを欠かさなかったが、その愛情でようやく咲いていた小さなバラは誰も居なくなった部屋でひっそりと枯れ始めていた。
「僕も向こうでデータの整理をしてきます。あとで珈琲を持ってきますね」
居ない方がいいと判断したのだろう、ケイは物音を立てないように静かに隣から立ち上がった。熱量の少ない体が脇を通り抜けていくと、一瞬めぐみを寂しさが襲った。
自分がこんなに弱虫だと考えたことはなかった。もう少し、誰かに頼らずとも生きていけると思っていた。
だが、今のめぐみは醜いほど、誰かに守られ癒されることばかりを求めている。
「隣の部屋にいますからね」
まるでめぐみの感情を察したように、ケイは優しく笑いかけた。母に似た微笑。だが、弱いとは感じなかった。
めぐみはしっかりと頷くと、閉まっていく扉を見届け、もう一度画面に目を走らせた。
誰もいない部屋。荒らされた戸棚。床に散らばった紙の中に、一枚、紙とは質感が異なっているものが落ちていることに気付き、めぐみはそこをアップしてみた。
紙の間からかすかに覗いていたのは写真だった。
若い父と母と、父の手に抱かれているのは生まれたばかりの私だろう。地殻変動の最中、街は混乱を来たし、どこか殺伐とした背景であるというのに、両親は幸せそうに笑っていた。
――どうして…。
おもわず呟きが漏れた。平凡な毎日が続くと思っていた。平凡な昨日の延長は平凡な今日のはずだった。
なのに、どうして私は今、独りなのだろう……。
「狩野! ちょっと来てくれ!」
慌てたような野島の声が扉の向こうから聞こえて、めぐみは無理やり自己の中に没入していた感覚を現実世界に引き戻した。画面をそのままにして扉を開けると、TVの画面を見つめて硬直している二人の姿が目に入った。
「どうし…た……」
TV画面に躍る文字を見つめて、めぐみは絶句した。
――母重体。15才の同級生を連れた大学生、逃亡――
15才の同級生とは私のことか。逃亡している大学生というのは野島のことか。
「こういう手に出るなんて……!」
苦しげなケイの声に、私は呆然としたまま揺れる画面を見つめていた。画面に映っているのは、紛れもなくめぐみの家。そして犯人として顔写真を出されているのは、紛れもなく野島のものだった。
「どういうことだ? 警察と連合といえば犬猿の仲じゃないか」
連合――正式名称は国際政府連合特殊捜査部――はある意味で政府レベルと同等の権限さえ持ち得る。自然破壊や国際テロが日常のニュースにも珍しくなくなった現在では、国家間のしがらみを取り除いて対応できる捜査体系が必要だった。しかしながら連合の主となる母体は世界経済のリーダー的存在である数ヶ国であり、その行動もまた、すべての国に対して平等ということはなかった。
「連合が巧く事件を捏造したか、あるいは警察がそのプライドを折ってまで協力しなければならない状況に置かれているか、でしょうね」
立ち尽くすめぐみにちらりと視線を走らせた後、ケイは野島を下から見上げ言葉を続けた。
「野島さん、あなたには予測がつくんじゃありませんか? 黒服の男達を見ただけでそれが連合の手の者だと瞬時に判断がついた、そんな情報まで知り得ているあなたには…」
野島の顔が強張った。
めぐみはただ、そんな野島を見つめた。急に野島の顔が見知らぬ男の顔に見えた。
とにかく落ち着いて話せるようにと、ケイが煎れてくれた珈琲をゆっくりと口に運びながら、めぐみは項垂れている野島を見上げた。野島が小さく見える。
「では、質問に答えていただく前に、ここにある資料に目を通してください。『野島修司』に関する調査書類です」
ケイに渡された書類には『野島修司』という一人の人間の過去について短く書かれていた。
野島修司――Shuji Nojima
2028年、City Kにて誕生。父は警察官。
2037年、地殻変動時、父殉職。母と妹を事故で亡くし、City Tの警察施設に収容。
2041年、高校過程をスキップし大学へ進学。
2043年、大学卒業。
2044年~2051年までのデータは国内に存在せず。
2052年、帰国。再び大学へ進学。
「時間がなかったので、国内データしか検索できませんでしたが、あなたは既に大学を出ているにもかかわらず、再び進学している。何故です?」
野島は口を開かなかった。
「僕がハックしているとき、あなたは言いましたね『あざやかだな』と。めぐみさん、あなたは僕の作業を見てどう思いましたか?」
突然話を振られてめぐみは緊張した。小さく喉を鳴らして珈琲を嚥下すると、ようやく口を開く。
「ハックって、そういうものなのかなって……」
にこりとケイが笑った。何故そんなことを聞かれたのか分からないめぐみに説明するようにケイは言葉を続けた。
「そう、ハックを経験したことがない人、ハックを見たことがない人にとってあの作業はそういうものです。野島さん、あなたは何処でハックを見たんですか? それとも、ご自分で?」
野島は唇を噛んだ。
「そんなに構えないでください。僕には分かっていることがあります。あなたは一瞬で連合を判断できる知識と経験を持っている人間で、そして、おそらく、僕達の敵ではないということです」
ケイは微笑さえ浮かべて野島を見つめている。
めぐみは不意に、混乱する自分を抱き上げ追っ手から逃げた時の野島の顔と、そっと――そう、まるで父のようにやさしく――頭に大きな掌を乗せた、その感触を思い出した。
――おそらく僕達の敵ではないということです……。
めぐみはケイの言葉を何度も心の中で繰り返した。そうすれば、一度生まれた疑惑の想いもすべて、消し去ってしまえるような気がした。