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第一章『k-2011』 (7)

「地殻変動で家族を無くした俺は、施設に収容され、そこで社会適合できる職をあてがわれ、15になったら独りで生活させられるはずだった……」
 野島は初めて重い口を開いた。
「当時、各国の警察は連合と激しく対立し、水面下で激しい情報戦が繰り広げられていた。施設に入った人間は好むと好まざるとにかかわらず次第に警察色に染められていく。俺もその例に漏れなかった……」

 父を尊敬していた少年の心にとって、父と同じ職業というものは素晴らしいものと感じられる瞬間がある。野島は警察という職を選んだ。高い知能指数を保持していた野島は高校をスキップし、大学で特殊な捜査過程――心理学やコンピューターによる情報操作などを修めた。
「海外ボランティアは名目さ。もちろん救急医療程度は学んでいたから、実際のボランティア活動は行っていたけれど、実際に俺がさせられていたのは連合の動きを探ることだった。そして、俺はある一人の人物と会うことになる。連合内部でウイルス学を修めていた研究者、名前は最期までわからなかった。俺は彼に日本に残した家族の状態を教えてくれるように頼まれたんだ」
 野島はゆっくりと顔を上げ、私をじっと見つめた。
「狩野、俺が出会った人物、それがおそらく、お前の父親だと思う……」
 めぐみは小さく頭を振った。世界から音が消えた。


 酸素生成プラントの脇で起こった小さな事故の現場に野島は来ていた。重症の怪我人は既に車で病院へと搬送されていたが、切り傷、擦り傷程度の怪我人はまだ、その場で治療を受けるのを待っていた。
 ボランティアをはじめて4年が過ぎた。遣り甲斐はある。しかし、ボランティア作業の裏で自分に課せられた、任務は、野島を悪戯にいらつかせた。
 自分が不実であるように思えた。こうして、怪我人の腕を取り、止血し、治療を受けさせ、彼らは一様に感謝の眼差しと言葉を野島に贈って去っていく。
 純粋にボランティアなら心から喜べるのにと、野島は苦く笑った。任務を受けて海外に渡ったばかりの頃、どうしてあんなにも誇らしくあれたのか、今ではどうしても分からなかった。
「あ、先生。空、空を見てよ…」
 痛みに顔をしかめながら、それでもおとなしく野島の治療を受けていた少年が、不意に空を指差した。
「虹…。すごいね…」
 空いっぱいに掛かった大きな虹が、鮮やかに網膜に焼きついた。
 その虹はなかなか消えず、結局10人のボランティアでの治療が全て終わってしまっても、ぼんやりと空に掛かっていた。

 ――子供の頃、虹を追って行ったことがある。虹の出来る場所を見てみたかったのだ。もちろん、たどり着くはずはなかった。

「虹、好きなのかい?」
 柔らかな、優しげな声だった。久しぶりに聞いた日本語に驚いて、野島は声の方を振り返った。振り向いた先にいたのは、白衣に身を包んだ、痩せた、色の白い男だった。
 それが出会いだ。

 そこまで語ると、野島は小さく溜息をついた。冷めたコーヒーを口に含み、苦い顔をして嚥下すると、ちらりとめぐみの顔を覗き込んだ。
 めぐみは黙ったまま、そんな野島の様子を眺めていた。
「久しぶりに聞いた日本語は、懐かしかったよ。それはその男性も同じことのようだった……」
 再び、野島は記憶を探るように、ゆっくりと話をはじめた。

 男はいつ日本を発ったのかと尋ねた。野島が3年前の2044年だと答えると、男は懐かしそうな瞳をした。
「私は2038年以来、日本の土を踏んでいないんだ」
 家族はと問うと、男は寂しそうに口を噤んだ。
「妻と娘が一人。娘はもう、10才になった頃かな。私のことなど、覚えてはいないだろうね」
 懐かしいなら帰ればいいのだ。男の身なりから察するに、おそらくはどこかの研究プロジェクトに加わっているのだろうが、どんなプロジェクトでも、通常1年に20日は連続の休暇が取れるようになっているはずなのだから。
 野島は思った通りに口に出した。男は寂しそうに笑った。
「いや、私は長期の休暇は取れないんだ。細胞の培養をしているからね」
 何を研究しているのかと問う野島に、男は答えた。
 ――ウイルスの研究だと。

 その場所での任務はもうじき終わりかけていた。課せられていたのは、生成プラントの周辺に散らばる研究室への人の動きを見ることだった。俺は問題ないと報告した。早く、日本に帰りたかった…」
 野島の顔は青く見えた。俯いた顔に影がさして、めぐみは一瞬泣いているのかと不安になった。
「帰り際、俺はその男を捜した。日本に帰るのが無理なら、家族の近況くらいは伝えてやれるかもしれないと思ったからだ。――でも、会えなかった。彼とは、もう二度と会えなかったんだ…」
 そして、男がふと漏らした故郷の話から野島はこの場所を探し出し、彼がかつてこの地の大学で学んだことを知り、まるで彼の背中を追うように入学を決めた。それはあまりにめぐみの志望理由と似ている。二人はそうとは知らないまま、同じきっかけで大学に入り、いつの間にか隣に座っていたのだ。
「狩野の生い立ちを聞いたとき、壊れて穴のあいてしまった場所に、何かが――そう、そこにあるべき何かが、ぴたりと嵌まり込んだような気がした。狩野の母さんを襲った黒服を見たとき、それは明確な一つの考えになった。俺が出会ったのは狩野の父親。彼の研究プロジェクトはウイルス。そして、その研究プロジェクトの出資者は、おそらく――」
「連合ですね」
 ケイは恐ろしく冷めた、態度で言い放った。
「僕のプロジェクトにも連合が一枚噛んでいるといいましたよね。連合はなぜか、ことに遺伝子に関する分野に多く関与しています。おそらく、狩野博士の参加していたウイルスプロジェクトも、遺伝子関連のものなのではないかと思いますが…」
「遺伝子操作の際の遺伝子の運び屋としてのウイルス研究か?」
「そうです。もしくは――そこから発展させられたウイルスそのものの研究か…。どちらにしろきな臭いですね。博士は研究室に拘束されていた可能性が高い」
 父は帰れなかったのだ。日本に焦がれ、妻を、娘を思いながら、父はけして日本の地を踏むことが出来なかった。
「私のせいだ…」
 ポツリとめぐみの口から呟きが漏れた。

 灰色の壁。無機質な金属の匂い。冷たい床。黒い服の男。白い雪。曖昧な視界。――そして、声。
 ――『ユキ』って言うんだよ。

「私が断片的に覚えていることが正しい記憶なら、私は連合に誘拐され、父は私を守るために連合に従った…。あの灰色の壁の建物の中で、人工的に降らせた雪の中で、私は父が泣くのを見た。私を抱き上げて父は泣いた。私を、守るために……」
 記憶の奥深くにあった雪。めぐみはゆっくりと冷めたコーヒーの入ったカップを置き、膝を抱えた。誰も言葉を発しなかった。
「雪の記憶を探さなければ。どうして雪が降っていたのか。どうして今になって私の家に連合が現われたのか」

 私は雪の記憶を探る。あの無機質で人工的な雪が私に何かを語っているのだ。
 私は知らなければならない。
 私は目覚めなければならないのだ。母のゆりかごから這い出し、世界を知るために。

 めぐみはまっすぐに何もない壁を見つめた。本当に真実を知りたいならば、自分の目で見つめなければならないのだ。世界を。

 不意に端末機が唸った。一瞬ギョッとしたような視線が端末機に注がれ、ケイがそっとその画面を見つめた。通信元はEVILだが、表示された識別コードには見覚えがある。
「大丈夫です。一応、端末機の映像範囲には入らないようにしてください。古くからの知り合いですから、安心して」
 ケイは用心深く通信スイッチをONにした。画面に骨格がしっかりとした、少し痩せ気味の男の顔が現れた。

「こんにちは。どうされました?」
 めぐみは野島と肩を並べるようにして、部屋の隅で端末機を見つめる。この位置は端末機のカメラからは死角だが、モニターの画面は目に入る。画面の中の男は微かに唇をゆがめ、小さく笑った。
『元気か、坊主』
 少し困ったように寄せられた眉の下で微かに男の視線が泳ぐ。
「いやですね、つい先日お話したばかりじゃないですか」
 ケイの声や口調はくだけている。かなり親しいのだろうと想像がついき、何故かめぐみはほっとした。
『すまん、時間がないから用件だけ先に話す。実は、頼みたいことがあるんだ』
「頼みたい事?」
 画面の中で男はしきりに時計を気にしている。
『南アフリカ酸素生成プラント付近の致死的ウイルス発生の話は先日話したが、実は、そのことで困ったことが起きた』
 男は小さくため息をついた。
『レジスタンス内に感染が広がった可能性がある。周辺区域はおそらく近いうちに閉鎖されるが、実際の感染拡大状況を知りたい。だが、手段がない…』
 ケイは静かに頷いた。
「内部通信記録をハックすればいいんですね? あとは各種交通手段の乗客記録と」
『頼む。あぁ、もう時間がない。監視プログラムが動き出す。詳しい内容は端末内に入れておく、ハックして取っていってくれ』
 通信は不意にプツリと途絶えた。暗くなった画面にケイの顔が僅かに映り込んで見える。
「どういうことだ?」
 野島の低い声にケイは振り返った。顔からは笑みが消えている。
「今のが、僕の生みの親。プロジェクトを崩壊させ、僕をこうして生かしつづけてくれている人です」
 ケイは再び二人をソファに招いた。そしてすっかり冷めてしまったコーヒーを煎れなおすためにコーヒーメーカーに向かいながら、ケイはこれまでの経緯を話し始めた。
「プロジェクトが崩壊した時、僕は廃棄を覚悟しました。事実、彼も最初は廃棄を考えたでしょう。プロジェクトの崩壊は彼の連合への反抗でした。けれど、彼は僕を殺さず、僕を連れて研究所から逃げ出したんです」
 ケイはカップを二人に渡すと、自分は床に座り込んだ。
「彼は僕を連れて地下に潜りました。しばらくして、彼が地下組織の医師となったことで彼とは住居を別にしましたけど、その後もずっと僕の体の検査をしてくれています」
 ふと、昔の事を思い出したのだろう、ケイの顔が和んだ。
「つい先日、不意に彼から連絡があって、再び研究所のプロジェクトに参加する事になったと告げられました。正直、意外でしたが、理由を聞いて納得しました。その理由というのは――聞こえていたと思いますけど――南アフリカで、EVILが関係していたウイルス研究が原因と思われる致死的ウイルスの発生が確認されたからでした」
 南アフリカという単語が心に引っかかる。めぐみは顔をしかめた。
「酸素生成プラントの傍には3つの研究所があった。だが、ウイルスの研究を行っていたのは一ヶ所だけだ。後の二つは有害物質を浄化するバクテリアの研究をしていた……」
 野島の声は低い。
「父の研究していたウイルスのせいなのね?」
 めぐみはポツリと呟いた。そのために連合は家を訪れたのだろうか。家の中を荒らしまわったのも、父がウイルスに関する情報を残しているかもしれないと考えたからだと想像すると、合点がいくような気がする。
「それに関しては、まだ全く分かりません。今はまだ、その関連性を調査している段階でしょう。しかしどうやら、その南アフリカでレジスタンスの内部に感染が広がったらしいんです。詳しい事は後で資料を取り寄せますけど……」
 ケイはカップを床に置き、膝を抱えた。
「研究所はある意味で牢獄のようなものです。彼らは自らの探究心を人質に取られ、常に監視された状態で研究を行っています。全ての端末機には外部との交信を記録するための監視プログラムが入れられていて、内容まで全てチェックされます。あの1分間の交信はおそらく、強制的にプログラムチェックをかけていたのでしょう」
「それほど切羽詰っているということか…」
 野島の声にケイは頷く。
「僕はしばらく、そちらの方にかかりきりになるかもしれません。実際、このウイルスの発生はめぐみさんが襲われた事と無関係ではないようです。ウイルスに関する資料の中に、お二人が巻き込まれた事件を解明するきっかけがあるかもしれません」
 ケイは立ち上がり端末に歩き出した。通信スイッチを開けるとさっき聞いた連絡先のアドレスを打ち込み始める。
「ケイ、あの人宛てにメッセージを残す事は出来るの?」
 俯いたまま、めぐみは慎重に言葉を選びながら言った。ケイは振り返り微かに訝しげな顔をする。
「可能です。――ですが、いったい何のために?」
 めぐみは小さく息を吸い込むと、躊躇う自分の気持ちを振切るように勢いよく顔を上げた。
「あなたの研究になぜ私のDNAが使われたのかを知りたいの。なぜ、EVILに私のDNAがあったのかが知りたい」
 ケイは短い沈黙の後、静かに頷いた。
「分かりました。聞いてみましょう」

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