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第一章『k-2011』 (8)

 慌しく通信スイッチを切ると、数秒後に軽い機械音がして、監視プログラムが作動し始めた。美都が安堵のため息をつく。
「セキュリティーチェックはオールクリアね。良かったわ」
 琢己は疲れたように肩を落とした。

「今の子が、AOMCなのね。全く普通の子供と変わらない……。ちょっと言葉遣いが大人びていて、初めて会った頃のあなたみたいだわ」
 思い出すように瞳を伏せて、美都は首を傾げた。初めて出会った時、二人ともまだ立場は高校生だった。当時はまだ現在のように飛び級制が一般的ではなく、義務教育である中学の課程までは通常どおりに通う必要があった。その後の飛び級試験の結果によって高校課程の期間が決定されるが、最短でも一年、高校生として学校に通う必要があった。琢己も美都も立場は高校生だったが、既に高校課程の単位は全て修め、入学する大学も決定していた。研究所の手伝いをしながら、お互い初めて自分と同じ立場の人間と出会った。
「どんなに人のように思えても、奴はAOMCだ。巨大なDNAコンピューターが全ての行動を制御する。精密な思考プログラムが組まれていて、人間の脳と同じように学習することも可能だ。そして、いったん学習して手に入れた知識や思考をけして忘れる事はない…」
 苦しげな琢己の声に、美都は慌てたように声をあげる。
「どうしたの? 後悔してるの?」
「しているさ……」
 美都はゆっくりと琢己の傍に歩みより、そっと肩に手を触れた。
「何を?」
 琢己は答えなかった。美都はため息をつくと、思い出したように仮眠室のドアを見つめた。
 その先にあるベッドには女性が一人横たわっている。所長から渡された『資料』である彼女は、『k-2011』の開発者の妻であり、唯一の『k-2011』の感染者だという。いったんは目を覚ましたのだが興奮が激しく、仕方なくもう一度鎮静剤を打ち、体に付けられていた拘束具を外して眠らせている。
「そろそろ薬がきれる頃だわ。私、見てくるわね」
 感染者の体液を使って『snow』のウイルスデータの詳細をコンピューターに検査させている。結果が出るのは5時間後だ。それまでに僅かでも『k-2011』について知っておきたかった。そのためには一刻も早く女性に状況を説明し、協力を仰がねばならない。女性は極度の緊張状態のために疲弊している。点滴は行っているが、脱水が酷く、興奮状態の持続も脱水による電解質の異常のせいかもしれなかった。
 そっと扉を開けると、その音に反応したのか、女性の瞼が微かに上がり、顔が扉のほうへ向けられた。
「お目覚めになられましたか?」
 美都は出来るだけ音を立てないように部屋に滑り込むと、女性の枕もとに座った。
「脱水が酷かったようです。今、点滴をしています。もうじき終わりますから、そうしたらもう、起きてくださって結構ですよ」
 起き上がろうとした女性を押し留め、美都は安心させるように笑った。はっきりと意識をもった女性の瞳に異常は見られない。しかし、緊張と不安が女性の顔を強張らせていた。
「ここは、もしかしたらご存知かもしれませんが、国立の研究所の中です。私は研究員の霧島と申します。あなたは、連合によって拉致され、不当な扱いを受けていました。私の知らない場所でのこととはいえ、卑劣な手段だったとお詫びします。しかし、どうしてもあなたの協力が必要なのです」
 女同士だからだろうか、女性は不安げな顔をしたままだったが、その場から不意に逃げようとしたりはしなかった。ただ、チラリと視線が走って、壁の時計を見つめた。
「今は、木曜の昼です」
 時を告げると、女性が一瞬驚いたように美都を見た。
「ここにいるのは、私だけね?」
 女性は掠れたような声を絞り出した。
「ええ。そうです」
 美都は短く答えた。女性の顔にふと安堵の色が見えた。
「お名前を教えていただいてもいいですか?」
 女性はゆっくりと起き上がった。
「狩野千恵子――この研究所には若い頃、勤務していましたわ……」
 静香は点滴のパックを見上げ、それが既に空になりかけていることを知ると、ゆっくりと立ち上がり女性の腕を取った。
「点滴を抜きましょう。あちらでコーヒーでもいかがですか? 散らかってますけど」
 手早く針を抜き、女性が立ち上がるのを助けると支えるように手を添えながらゆっくりと扉を開ける。琢己はまだ、端末機の前に座っている。
「この椅子にどうぞ」
 美都の声を聞いて初めて気がついたのか、琢己が立ち上がり小さく会釈をした。そしてゆっくり近付き、あまり近すぎない場所に座った。
「彼も研究員で結城と申します」
 千恵子はその声に応えるように琢己を見つめ、しっかりとした声で問い掛けた。
「何故、こうまでする必要があったの? 主人が海外へ行く時にはっきりと約束したはずだわ。今後いっさい、連合は私達の家庭に介入しないと」
 千恵子の声には僅かに敵意が感じられた。無理もない。突然家に押し入られ、半ば拉致されるようにして連れて来られたのだ。
「すみません。実は、私たちの方もあなたの事について何も知らされていないのです。というのも、私達の手元にはあまりに乏しい資料しか存在しないからなのですが…」
 美都はゆっくりと言葉を選んだ。だが、結局ストレートに疑問を口に出した。
「――『k-2011』というコード番号をご存知ですね?」
 千恵子は一瞬眉をひそめ、曖昧な表情のまま頷いた。
「研究対象だったわ」
「実は、その変異株と思われるウイルスの感染症が、南アフリカ酸素生成プラントの近くで発症しました。致死率が高く、非常に危険なウイルスに変貌を遂げています。オリジナルの感染動物を捜すためのユニットは、不運にも感染し、全滅しました。現在、彼らが感染の拡大を阻止するために放った火が、森を焼いています…」
 千恵子はふと、ニュースでちらりと見た山火事の様子を思い出した。
「オリジナルの探索は不可能になったのね?」
 琢己は少なからず驚いていた。彼女は確かにかつてここで働いていた助手だったのだろうが、既に現役を退いて15年以上になる。だが、千恵子のその言葉にあまりブランクは感じられない。
「はい。不可能になりました。私たちは、手元にある資料だけで血清を作らなくてはなりません。どうか、私たちに『k-2011』について教えていただきたいのです」
 美都は祈るような気持ちで千恵子を見つめた。千恵子は微かに首を傾げた。
「私が連れてこられた理由は分かりました。ですが、例えば私の血液から『k-2011』に対する抗体を採取しようとしても、おそらく無駄です」
 千恵子はまっすぐに美都を見つめた。
「あなた方は私が『k-2011』の感染者だと思っていらっしゃるのでしょう? 確かに私は『k-2011』に感染しました。しかし、私は感染者ではありません。感染したのは私の娘だけです」
「――どういう意味でしょうか…?」
 千恵子の言葉は不可解だった。美都は反射的に疑問を投げかけた。
 千恵子は微かに微笑むと、ゆっくりと口を開いた。
「16年前、私は体調不良に悩んでいました。当時、私は夫と――狩野博士と交際していましたが、まさか、妊娠しているとは気が付かなくて、彼の研究の助手を続けていました。当時の研究対象だった『K-2011』への感染の可能性が分かったのと妊娠の事実が分かったのはほぼ同時で、奇形の可能性も含め、厳重に胎児の診察が行われました」
 思い出しているのだろう、千恵子の頬には寂しげな微笑みが浮かんだ。
「そして、ウイルス感染を引き起こしたのは私ではなく、胎児であることが分かりました。おそらく、研究中の感染性を低下させた『k-2011』弱毒株が私の体内に侵入し、胎盤を経由して胎児感染を起こしたのだろうと推測されました。エコーでの診察に異常はなく、20週目に行われた羊水検査でも特に異常は有りませんでした――けれど……」
 不意に黙ってしまった千恵子の顔には、微かに怒りに似た表情が浮かんだ。
「大事を取って、予定日にあわせて私は帝王切開で娘を産みました。そのとき検査された娘の血液には『K-2011』の抗体が見つかりました。娘の体に異常は有りませんでしたが、ウイルスの研究チームは生まれたばかりの娘の体にメスを入れ、片方の卵巣を摘出したんです」
 美都は産み落としたばかりの我が子の体にメスを入れられる母の気持ちを思った。
「『k-2011』の研究のためですね?」
 琢己が小さく尋ねると、千恵子は頷いた。
「私たち夫婦はすぐに研究所を辞しました。通常、辞めることは出来ないと言われている研究所ですが、事態が事態だっただけに、表面上はすんなりと、研究所との関係を解消することが出来ました。けれど、娘が2歳になる頃、連合は娘を誘拐した……。目的は主人を再び『k-2011』の研究に向かわせるためでした。『k-2011』は雪を媒体として使用する新しいタイプのウイルス兵器で、感染後に発症のタイミングをコントロールできる事から、本格的に殺傷能力の高いものを作り出す計画がなされていたのでしょう――」
 千恵子は不意に顔を上げた。壁にかかっているEVILのマークを睨むと、唇を噛んだ。千恵子の振るえる指を、琢己はただ見つめていた。
「主人からは数回手紙がきました。手紙の最後には必ず『いつも後悔の海に居る』と記されていました。そして、最後の手紙には……」
 ただ一言――愛していた、と、過去形で。
 千恵子の声は震えた。

 部屋の中は静まりかえっていた。
 娘の安全のために家族と決別する道を選び、殺人ウイルスの研究を続ける中、突然、彼は自らの研究と共に自分自身をも抹殺した。その理由も告げず、家族への愛情さえも過去形にして彼は去ったのだ。
「私には、彼の決意の底にあったものを知ることすら出来ませんでした。けれど、彼は自らの全てを捨ててさえも侵してはならない領域があることに、人として許されざることがあることに、きっと気がついてしまったんでしょう。気が付かざるを得ないような場所まで、彼の研究は転がっていってしまっていたんです。推測でしか、ないのですけれど……」
 ポツリと、自分に言い聞かせるように千恵子は呟いた。モニターのかすかな唸るような音だけが響いて、琢己は漏れそうになる深いため息を押し殺した。
 千恵子の言葉一つ一つが、琢己の胸には痛かった。
 自らの全てを捨ててさえも侵してはならない領域――。その、踏み入る事の出来ない領域の境界線を、たしかに琢己は見つめたことがあった。
 あの時、聡明な、曇りのない瞳がまっすぐに自分を見つめていた。全てを悟っているかのように、微笑みもせず、かといって憎しみさえも見せずに、童女のような少年は琢己の目の前に立っていた。研究用の白い裾の短いズボンから伸びた足はか細く、耳元でぷっつりと切りそろえた髪は綺麗に梳かされていた。何の感情もないように見開かれていた瞳に、不意に浮かんだのは慈愛の微笑だ。
 少年へと伸ばした琢己の指が頬に触れると、その瞳はゆっくりと閉じられ、不意に眦から一筋だけ涙が零れた。そのときに胸に沸き起こった、表現することさえも難しい、激しく狂うような悲しみと怒りに似た後悔の感情を、琢己は忘れることが出来ない。
 ――俺は神じゃない!
 琢己は宗教上の神を信じたことはなかった。琢己の中で『神』とは科学そのものであったと言ってもいい。彼のAOMCプロジェクトが成功した時、周囲の人間は『とうとう科学は神を超えたのだ』と琢己に賛辞を贈った。それは琢己にとっても、琢己の『神』の圧倒的な勝利だった。自分の信じていたことの正当性の証明に他ならなかった。
 だが、あの涙を見た瞬間に、そんな幻想は音を立てて崩れた。琢己は己の精神が悲鳴のような声で叫ぶのを聞いたのだ。
 ――神よ、お許しください!
 琢己は彼を抱えあげ、地下に潜った。彼を守り育てるために、琢己は地下組織のメンバーに医者として参加した。不安定な彼の体を維持するためには、最低限の医療設備が必要だったのだ。
「琢己!」
 追憶の波に漂っていた琢己の精神は、悲鳴のような美都の声で現実に引き戻された。美都は愕然としたような顔で端末機のモニターを指差している。
「どうし――!」
端末機のモニターに、先刻見つめたばかりの柔らかな微笑が浮かんでいた。ほんの一瞬だけその映像は暗い画面の中に浮かび、不意に暗転したモニターの中でカチカチと小さな文字が打ち込まれた。
 ――What is M? I want to know about M. I want to know myself.
 琢己は、言葉につまった。それは彼が常に心の隅に置いていながら、一度も琢己に問いかけなかった言葉だ。そして、琢己自身も満足に答えてやることは出来ない。彼に与えられたDNAは、EVILから提供されたもので、人物を特定するようなものは全てマスクされていた。『M』は『Mongoloid』のことで、とある健康な提供者のものだとしか知らされなかったのだ。
 琢己は端末に駆け寄ろうとした。だが、その動きは背後からの甲高い悲鳴に止められた。
「めぐみ!?」
 張り裂けんばかりに見開かれた千恵子の瞳に、端末機の画面が映っている。驚愕にひき歪んだ顔が、突然、激しく横に振られた。
「違う――、めぐみじゃない! めぐみじゃないわ!」
 美都の制止の腕を振り切って、千恵子は端末に走り寄った。画面の文字を読み取った瞬間に、千恵子は絶叫した。
「今の子は誰? いったい誰なの? 何故めぐみの顔をしているの? 『M』って何よ!」
「千恵子さん!」
 美都は慌てて走り寄り、端末に覆い被さるようにして激しく嗚咽する千恵子を抱き寄せた。
「落ち着いて! 今の顔に見覚えがあったんですか?」
 千恵子の体は、力なく美都の胸に崩れた。拉致され体調が満足でない状態での一瞬の激しい興奮が、千恵子を一気に疲弊させていた。
「娘よ……。私の大切な、この世界でただ一人、私達が守ると決めた、私達の娘――」
 美都は問い掛けるように琢己を見上げた。琢己は何も言わず、端末の通信スイッチをONにし、巡回プログラムの隙間をぬって、誰からとも分からない形で送信されたメッセージを開いた。そこには、暗い画面に表示された短い文章と全く同じものが並んでいるだけだった。

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