第一章『真実の扉』 (5)
フォルマティオが軋む扉を開くと、店の奥の暗がりに小さな椅子を置いてキセルの端を咥えていた小男が背を丸めたまま軋んだ扉の方に顔を向けた。
「久しぶりだな、グルの親父、まだ煙草は手放せないのかい?」
グルと呼ばれた男は眩しそうに眼を瞬かせてしげしげと入ってきた男の顔を眺めると、不意にキセルをポンとテーブルに打ち付けて、不機嫌そうな顔を崩した。
「フォルマティオ!……3年ぶりか?北の方に仕事をしに行っていたんじゃなかったのか?」
北からヴァイアに入る隊商の護衛をしてきたんだと笑って答えると、勧められた小さな木の椅子にフォルマティオは笑ったまま腰掛けた。
「西回りでか?物騒だったろう?」
そういえばちょっと夜盗の噂が以前より多く感じたなと笑っておいて、フォルマティオはちらりと視線をあたりに走らせた。目敏くそれを見つけたグルはわかったと言うように頷くと、何事もなかったかのようにキセルを咥えなおした。
「そうそう、お前さんが昔から気に入っていた西の花のことだがね、最近目立ってここいらにも出てくるようになったよ。昨日もほら、広場で売られていて、ちょっとした騒ぎさ」
西の花という暗号はフォルマティオが初めてこの町を訪れた9年前からグルとの情報交換の際の魔都カノーリアに関する話の時に使う言葉だ。魔都自体が西の未開の森の中にあり、カノーリアという名もまた、古の言葉で『人喰い花』を意味する単語であることから、グルの親父が最初に名付けた。
フォルマティオは小さく溜息をついた。やはり昨日のあの騒ぎは魔都の手のものが関係していたのだ。
「ここいらに出るようになったのはいつ頃からかい?」
用心のためにちらりと周りの客に視線を走らせると、入ってきたフォルマティオの姿を見て一瞬、興味をそそられた者達も、どうやら数年ぶりに尋ねてきた親父の顔見知りらしいと分かって、既に自分の酒に興味を戻している。
「5日前にジルスの町に出たと話に聞いたかな。この町に出たのは昨日が始めてさ。何でも花売りは逞しい男らしいよ、爺かと思っていたのに」
伝える内容を巧みに言葉の端々に上手く入れ込みながら、グルはキセルでテーブルを3回叩いた。手のものは3人、剣士ばかりで魔道士はいないらしい。少し気が楽になる。
「分かった、捜してみるよ。また何かあったら教えてくれ、いつものように『カナリの家』にしばらくいるから」
グルはキセルをプカリとふかして、フォルマティオに目配せした。
「アザラの作る料理は絶品だからなぁ、あの宿には可愛い娘がいると言うんで最近とくに人気なんだよ。わしも今晩あたり久しぶりに行ってみるかなぁ……」
他にもここでは話せない話があるということだろう。フォルマティオは小さく笑った。
「なんだ、その年でまだそっちの欲もあるのかい?可愛い子といえば、俺もその宿で飛び切りのヴァイア娘と出会ってね。今晩来るなら紹介してやるよ。女将に言っておくから俺の部屋で一緒に美味い酒でも飲もう。親父さんも北の話が聞きたいだろう?」
フォルマティオは笑いながら席を立った。
「わしの若い頃はなぁ、まだ北のゼアダとの戦が続いていた頃で、わしは歩兵の一員として北を目指したんだ……。綺麗だったぞ、北の大地の短い夏の日の草は青く柔らかでなぁ……」
ことさら感慨深げに溜息をついたグルの言葉を耳にして、不意に常連らしい客の一人が笑った。
「お若いの、この年寄りの話に付き合ってやるのかい? いい冥土の土産をもらったなおやっさん、ん?」
からかうように話に加わってきた常連客に、今晩は店は閉めるからな、居ても追い出すぞと大声で言いながら、グルはフォルマティオに向かって小さく頷いて見せた。フォルマティオは頷き返して、ゆっくりとグルに向かって手を振ると、扉へと向かいながら不意に思いついたように言葉を発した。
「そうだ。ついでに親父さん特性の傷薬も分けてくれよ。前にももらったろう?あれ、護衛の時に重宝したんだよ」
「あぁ、いいともさ。あれは歩兵に行ったときに教わった特別調合でな。教えてくれた北の娘というのがまた、いい女でなぁ……」
また始まったよ、という常連の苦笑混じりの声と、それに対して半ば喧嘩腰の冗談の言い合いを始めたグルのしゃがれた声に小さく首をすくめると、フォルマティオはゆっくりと扉を閉めた。
「あの……」
小さな呼びかけに不意に身を起こすと、マイアが扉を細く開けて心配そうに中を覗いていた。
「食事、女将さんに頼まれて運んできたんだけど……」
はっとしてマティスが小さな小窓から空を見上げると、既に日は高く上り、日差しも強い。しばらくうつらうつらしていたようだ。
「ありがとう……」
マイアはゆっくりと扉を開けて滑るように部屋に入り、テーブルにそっと盆を置く。改めてゆっくりとその姿を眺めてみて、マティスは実は彼女が思っていたよりもずっと若いということに気がついた。自分と同じくらいか、もしかしたら自分より幼いかもしれない。
マティスは用心深く傷口を床につけないようにしながらテーブルまで歩くと、そっと椅子に腰掛けた。
鼻腔をくすぐる甘いスープの香りに不意に空腹感を覚える。小さく空腹を訴え始めた腹を思わず両手で押さえると、その様子にマイアが笑った。
「お腹、減るようになったのね。良かった。昨日はすごい熱だったから心配したの……」
僅かに赤面して、マティスはちらりと笑うマイアの顔を盗み見た。少し疲れたような顔色に、不意に昨夜彼女が寝ずに看病してくれていたことを思い出した。
「昨日は、ごめん。君も休んだ方がいいよ……」
ミルク瓶からグラスにミルクを注いでやりながら、マイアはそんなマティスの言葉に微笑んだ。
「ありがとう。でも、今日は女将さんにお休みをもらったから、ゆっくりできるの……。あなたのお食事が終わったら私も家に帰ることにするわ……」
「君はここで働いているの?」
はっとしたように顔を上げ、マティスを見上げたマイアは、少し悲しそうに笑うと、俯きながら小さく答えた。
「私、ここのお店で夜、働かせてもらっているの…。お客さんのお酌をして、相手をして……」
言葉を濁してしまったマイアの伏せた長い睫毛が震えていた。マティスは理解した。マイアは自分自身の体を切り売りしているのだ。
「3年前に父を亡くしてこの町に出てきたの。母は、弟を産んですぐなくなったから、私にはもう、身寄りがなくて。路銀も使い果たしてどうしようもない時に拾ってくれたのが、ここの女将さんなの」
胸の前で固く握り締められ、小さく震えているマイアの手にマティスはそっと触れた。驚いたように顔を上げたマイアの瞳は艶やかに黒く、微かに潤んでいる。マティスはそっと自分の足首に右手を伸ばしてそこに絡み付いていた銀の足輪を外した。
「これで幾晩きみを買える?」
「え……?」
「お金なんて、いくらでも作れる。どれだけあったら、君を買える?」
「何を言ってるの?」
マティスの真意を測りかねて、マイアは思わず声を荒げた。
「僕では、迷惑?」
意味がわからないというように首を振って、マイアは小さく溜息をついた。
「だって、あなたが私を買う理由がないわ。確かに、今、私がしている職業は胸を張って人に言えるようなものではないけれど、でも、生きるためだわ……」
「僕は……」
マティスはなおも続けようとするマイアの言葉をさえぎるように口を挟んだ。
「僕は、親から捨てられた子だ。君は僕の体を見たろう?僕は、神殿の前に捨てられていた…。神官に両性体が多い理由を君は知っているかい?」
マイアは小さく首を振った。もともとマイアの住んでいたヴァイアの田舎では両性体は極端に少なく、また、神殿も多くが海の女神マイアと太陽神ハロ、月の女神ルカのもので、首都エクリアのように主要神十神全部の神殿があるわけではなかった。
「もちろん、もともと神官になるべき要素を持ちやすいということもあるけれど、本当の理由はそうじゃない。両性体とは言うけれど、実際は子供を作れない、無性体と呼んだほうがいいくらいだ。だから、けして自分達の家の後継ぎには出来ない……。しょうがないから神殿に入れるんだ。神話の中では主要神十神のうち五人までもが両性体の神だから、皆、それにかこつけて両性体のことを『神に愛されたもの』なんて呼ぶこともあるけれどね……」
マイアは自分が思わず口にした「買う理由がない」という言葉が思った以上にマティスを傷つけたことを悟った。マティスの体のことを意識して言った言葉ではなかったが、確かに最初から、マティスが自分をそういう対象として捉えてはいないと――けして捉えることは出来ないのだと――そう、思っていた。
「違うの。違うのよ……」
力なく否定の言葉を繰り返して、マイアはうなだれた。
「神殿を出てから、僕はしばらくいろんな神殿を転々とした。でも、神官は僕のこの銀の戒めを見ると、皆、一定の距離を置く。この銀の戒めは魔に魅入られやすいものの証。どちらかといえば、穢れたものに施されるものだから。そして一歩神殿から外に出れば、みな一様に僕に興味を示し、必要以上に関わりたがり、時に金や力で僕を屈服させろうとする者までいた……」
優しげな顔の裏に偏見に固まった興味があった。下卑た欲望と興味の視線の中でこの身を守り、けして弱みを見せまいと虚勢を張り、キリキリに張りつめながら旅をした。物心ついて以来、肌が触れるほど近く誰かが居たことは初めてだ。自分へと流れてくる感情が、何の見返りもない、ただ純粋に優しいものであることも。あの優しかった大神官でさえも物心ついた後のマティスの肌に触れたことはないのだ。
重い沈黙が二人の間に落ちた。
耐えかねたようにマイアが溜息をつくと、ゆっくりとマティスは立ち上がり、俯いたままのマイアの髪に触れた。小さく震えて、その瞳がマティスを見上げた。
「僕は、君がその体を売るということが、たぶん、嫌なんだ。『体を売る』という職業が嫌なんではなくて、『君が』体を売るということが、たぶん、耐えられないほど、嫌なんだ……」
この体を見ても目を逸らすことなく、興味に促されて自分を見ない、ただそれだけのことがマティスにとってどんなに大きなことだろうか。
そっと身をかがめて、マティスは自分を見上げたままのマイアの唇に自らの唇を近づけた。一瞬、羽根が触れ合うほどに微かに触れ合った唇は柔らかく、小さく震えていた。
「私……」
尖ったガラスの破片に触れるように、そっとマティスの体を抱きしめながら、マイアは銀の髪に頬を埋めた。
「――不思議な人。私、熱にうなされるあなたを見て、私が守ってあげなければと、そう思ったの。でも、今、こうしていると、全てのものから思ってもらえそうな気さえする……」
でも、この人は行ってしまうだろう。ただ、今、この一瞬だけを傍で過ごす、この人は旅人なのだ。
こうして宿屋で働くようになってから、愚かな恋だけはしないと誓った。魂は切り売りできないのだと、そう悟ったから。
それでも。流れはじめてしまった感情を止めることは出来ない。もう、止めることなど出来ないのだ。
「花の匂いがする……。君は柔らかい……」
マイアはマティスを抱きしめたまま、その背後にある小窓から覗く青空を見上げた。澄み渡った空は青く、一片の雲も見えない。瞬間、その青を切るように白い鳥が飛び去るのが見えた。
あなたの愛が終わりを告げても
クラヴィアの紡ぐ運命の糸が切れても
私が愛することを止めなければそこにあなたの入り江があるでしょう
あなたの旅に影が射すなら
死の神ガラの前に跪いてでも
私があなたの船を守り、あなたの行く手を照らしましょう
幼い頃聞いた『入り江の唄』が不意にマイアの耳に甦った。恋人が遠い漁に出ているとき、ヴァイアの女達は小さくこの歌を歌いながら淋しい夜を過ごすのだ。歌の意味を問う幼い自分に、姉のように慕っていた女性は言った。今はただ、この歌をただ覚えていればいいのよ、と。誰かを求めた瞬間にこの歌を思い出したら、その人はあなたが愛するに値する人なのだということなのだと。甘い南国の花の香りの中で、いつも歌は流れていた。幾つもの喜びと悲しみの中に、微笑と涙の中に、確かに彼女達の真実はあった。
マイアはそっと体を離すと、小さく微笑んだ。
「私、帰らなければ……。弟が待っているの……」
「あ……」
マイアはまるで壊れ物を扱うようにそっとマティスの髪に指を絡ませると、一瞬の躊躇いの後、そっと頬に唇を落とし、逃げるように扉へ向かった。
「マイア……」
「今夜、また、来るわ……」
扉を閉めながらそう小さく囁いた瞬間、頼りなげにマイアを見つめていた紫玉が輝いたのが見えた。
愛するだろうと確信した。自分の両手から飛び立っていくその背中が見えなくなっても、自分の命が続く限り愛するだろうと。