第一章『真実の扉』 (7)
「嫌な噂が広がっている……。これはジルスの情報屋がわざわざ人を使ってまでわしに送って寄越した情報だ……」
グルは苦しげな息を吐いた。そして、傍らから一枚の包みを取り出した。茶色の油紙で包まれたものは小さな濡れたような音を立ててテーブルに置かれた。
「フォルマティオ、これがなんだか分かるか?」
包みを開かなくてもツンと来る特有の刺激臭がした。
「ゲダの葉……?いや、ゲダの葉はこんな小量ではここまで強く香りはしないな……」
フォルマティオは注意深く包みを解くと、中身が思ったよりずっと小さな小瓶であったことに驚いたような表情を見せた。小さな茶色の小瓶には半分ほどドロリとした液体が入っている。
「ゲタの葉?」
マティスは小さく首を傾げた。もともと薬草の知識は少ないので、名を言われてもまったく分からない。
「知らなくても無理はないわい。ゲダの葉は一般にはあまり使われないからの。幻覚剤と言えばいいか。ゲダの葉を干して細かくし、火にくべると意識が薄れて、痛みを感じなくなる。量を加減すると仮死状態にすることもできる。痛みを感じなくなるから、昔はよく戦いで負傷した兵士に使われた……。ゲダの葉を焚きながら腐食した足を切り落としたり、皮膚を縫い合わせたりしたんじゃ。だが、量を多くしすぎると目覚めたときに人が変わってしまうことが分かって、すぐに使われなくなった。わしの若い頃までだな、使われていたのは……」
「使われなくなったものが、どうして……?」
マティスはそっと小瓶に顔を近づけた。強い刺激に思わず顔をしかめると、グルが笑った。
「アルメイダ邪教じゃよ。聴いた事はないか?性愛と欲望の邪教の話を」
欲望の女神と呼ばれるアルメイダは、性愛の女神として蔑まれる一方で子宝を授ける女神として祭られる。子供に恵まれない夫婦は10日の潔斎のあいだ毎日アルメイダの神殿で聖水を頂くと子供を授かることができるという。他の神殿とは違い、アルメイダの神殿だけは子を産んだ女性だけが神女として神殿を守ることになっている。
「邪教……?」
一般的にエクリアの民はエクリア教を信じる。額に十文字を描いたエクリヴィアラの像を奉じ、太陽が一番輝きを増す祭りの日には皆一様に白い服を着、髪に若い木の枝を差し、日々の糧に感謝し、一日の潔斎を行うのだ。だが、表向きではそのエクリア教を奉じていながら、退廃した権力者たちの間で執り行われているのが欲望の女神アルメイダを奉じる邪教だ。邪教といわれる所以は、神託を受けるための乙女を金の力や暴力で略奪し、宗教とは名ばかりの行為が行われることが多いからでもある。特に純潔を重んじるヴィアラ教の乙女が狙われることが多く、辱めを受けた少女が自害した話は少なくない。
フォルマティオは眉根を寄せた。ふと視線を走らせ、まだよくわからないように首を傾げているマティスを認めると小さく溜息をつく。そして、神殿の奥深くにしまわれていた、マティスがそんなことを知ってるはずもないのも無理はないと思い直す。
「退廃した新興宗教だ。信じているのは権力者が多い。性行為中に神託が降りてくるという宗教なんだが、その際の儀式にゲダの葉が使われているんだ」
一瞬、マティスはよく内容がのみこめないというような顔をした。人に触れられることすらなかったマティスにとって、そういう話は頭で理解はできるが実感は伴わない。
「害のあるものにもかかわらずゲダの葉が厳しく禁止されなかったのは、権力者がその宗教を守っているからに他ならない。まぁ、エクリヴィアラの神殿の奥深くに居たんでは知らなくてもしょうがない話だがな」
フォルマティオの言葉を聞くなり、グルはしげしげとマティスの顔を覗き込んだ。そしてその身を這う銀の飾りを眺めて小さく感嘆の声を漏らした。
「エクリヴィアラの神殿に居たのか。その体の銀の守りも伊達じゃないわけだな……」
マティスは居心地が悪そうに小さく体を揺らすと、自分に注がれた視線を避けるようにそっぽを向いた。そして早口で質問をはじめる。
「そのゲダの葉が何の問題があるんだい?」
グルは小さく体を乗り出すと声を弱め、ようやく本題に入り始めた。
「その小瓶の中の液体はどうやらゲダの葉を煎じて煮詰めたものらしい。ほんの一滴で一握りのゲダの葉を焚くのと同じ効果がある。わしだって、それくらいでは驚かん。だが、ジルスの情報屋の話ではこの液体の話が出るようになってから行方知れずになったものが続出しているというんだ。しかも、その行方知れずになっている面子がどうもおかしい。叩けば埃が出るようなどう転んだって堅気には戻れない奴らや鍛えられた傭兵がいなくなっていると言うんだ」
グルはキセルを口から外すとぺろりと唇を舐めた。
「ジルスの街には傭兵から足を洗った奴らが何人かいる。奴らはもちろん、その不可解な事件を追った。傭兵家業をしていた奴らの仲間意識は強いからな。そして、その小瓶だけを残して奴らも消えた。どうやらこのタロンに向かったらしいということだけ、商売女が耳にしたらしいがの」
マティスはじっとテーブルの上の小瓶を見つめた。飾りのない無骨ともいえる茶色の小瓶がいったどんな事件の鍵を握っているというのか。
「フォルマティオ、変だと思わないか?この小瓶はジルスから来た。『西の花』もジルスから来た……」
フォルマティオは不意に気付いたようにマティスの顔を覗き込んだ。その意図することを悟ったマティスは小さく唇を噛み締めた。
「僕もジルスから来た……。首都エクリアから砂漠を迂回して……」
なんとも言えない表情をグルは浮かべた。重い沈黙が落ち、苦し紛れにマティスが口を開こうとしたそのとき、大きな物音が隣から聞こえた。
「きゃあぁぁ!」
小さく悲鳴が聞こえる。はっとしたように顔を上げると、マティスは飛び出した。
「マイア!」
開け放たれた扉の向こうからは恐ろしいほどの熱気が噴出している。その扉の横にマイアが崩れ落ちていた。
「な、いったい……」
扉の奥にフォルマティオは見た。炎の鬣を煌かせ、爛々と輝く紅い瞳を燃やして立つ野獣。大きく開け放たれた口からは紅く鋭い牙と炎が覗き、豹のような頭の中央、ちょうど額のところには不可思議な青い光を湛えた第三の目。グルグルと小さな咆哮を漏らしながら、その野獣は燃える瞳でマイアを見ていた。
「レナ、止めるんだ。彼女は敵じゃない!」
マティスが叫ぶと、野獣はちらりとマティスの顔に視線を走らせた。そして、小さく鬣を振る。
「戻れ、レナ。彼女を傷つけることは許さない……」
(ソノ女、近付ケナイホウガイイ。まいあノ宿命ヲ持ッテル)
「黙れ! お前の第三の瞳に映っているのは誰だ」
そのマティスの言葉に、鞭打たれたように野獣は体を震わせた。そして悲しげな咆哮を上げると、鬣を振った。熱気は急速に失われ、一瞬、苦しげに青い瞳が細められると、ゆっくりと閉じられていく。
言葉を発することすら出来ないフォルマティオの目の前で、野獣は姿を変え、後には立ち尽くす三人を濡れたように紅い瞳で見上げる小さな子猫が残った。
「レ……ナ?」
震える声でフォルマティオがその名を呼ぶと、猫は小さ鳴いて力尽きたように横たわった。
「魔獣とはな……。長い間生きてきたが、見るのは初めてだ……。フォルマティオ、お前の雇い主、いったい何者だ?」
唸るように言うグルの言葉にフォルマティオは答えなかった。否、答えられなかった。
「マイア!マイア!」
マティスは狂ったようにマイアの体を揺すった。震える手でそっと口元に手をかざすと、微かに呼吸をしていることが分かる。ほっとしたようにマティスはマイアの頬を撫でた。
あれほどの熱気に当てられたというのに、マイアの体は氷のように冷え切っている。色をなくした唇が、小さく痙攣した。
そして、ゆっくりとマイアの瞳が開かれた。焦点の合わない瞳は宙をさまよい、マティスの顔を捉えるとゆっくりと口元に笑みが浮かんだ。
「マイア……」
小さくマイアは笑い、唇を舐めた。そして唇の両の端を吊り上げると、しわがれた吐息を漏らした。
「マイアじゃ、ない……!」
それは明らかにマイアの声ではなかった。
「器のもの……、扉を開け……。神託を思い出せ。魂に刻まれた名前を思い出せ。その時がお前の……」
彷徨う視線がフォルマティオを捉えた途端、不意にマイアは言葉を止め、食い入るようにフォルマティオを見つめた。
「お前は……」
フォルマティオを見つめたマイアの瞳がゆっくりと潤み、色をなくした頬に涙の筋が流れた。
「お前はいつでもクラヴィアに愛される。お前はあの子を愛したね……、だからあの子は死ねたのだ……」
マイアの首が垂れた。力の抜けた体は青ざめ、小さく痙攣した。
「マイア!」
マイアの体から黒い影が飛び出すと、それはフォルマティオの前で塊となった。その暗い闇の渦の中に小さな二色の目が光っていた。
(お前はお前の宿命に気がつかなければならない)
それは一瞬だった。闇は激しく渦を巻いたかと思うと、フォルマティオに襲い掛かった。
「うわっ」
使い慣れた剣は下げていない。フォルマティオはいつもベルトに挟み込んでいる小さなダガーで闇を割いた。湿った濡れたような感触が確かにした。
「消えた……」
グルの驚いたような声が小さく響いて、不意にあたりの空気が一瞬凪いだ。
「……っ、何……?」
右の頬に焼けるような痛みを感じて、フォルマティオは思わず顔を覆った。古い傷で縫い合わされた、潰れた右眼から、涙のようにゆっくりと黒い血が流れ落ちた。
(真実の扉の名前を冠するものよ、お前はお前の宿命を知らなければならない。あの子の最後の微笑みの意味を知らなければならないのだ……)
不気味な静寂の中に、そのしわがれた声だけが響いた。三人は言葉を発することさえ出来ずに消えた闇を見つめていた。