第一章『真実の扉』 (8)
とにかく小壜は預けると言い残して、グルは店に帰った。せっかくだから女将の料理でも食べていけばいいと言ったのだが、妙な胸騒ぎがしてならないからと言い、グルは足早に背を向けた。いつものようににやりと唇の片端を持ち上げて、この勘だけが自分を助けてきたんだとグルは笑って見せたが、その瞳はけして笑ってはいなかった。
倒れ臥したマイアはマティスの部屋に運び込み、レナはフォルマティオが預かった。
浅く呼吸を繰り返しているレナの小さな柔らかな腹に手を当てると、ふわふわの滑るような感触の毛がその体温の温かさを伝えた。どこから見てもちいさな子猫だ。先刻、この目ではっきりとその本来の姿を見ていながらも、それを信じることが出来ない。
フォルマティオはそっとレナの額を弄る。確かに縦に一筋、瞳の痕らしきものはある。だが、それはしっかりと塞がれていて、開くことは出来ない。
炎の鬣を振り乱し、額の銀色の瞳に澄んだ英知の光さえ湛えて、頭に直接語りかける声で話した――魔獣。不意にレナが来て以来、レナを人扱いして子供のようだと感じていたマティスの態度に思い至り、フォルマティオは身震いした。マティスは最初にこの子猫を見た瞬間からその性質を見抜き、おそらくは自らの言霊の使い手としたのだろう。ゾクリと悪寒が走った。マティスの持つ言霊の力、そしてレナの持つ魔力――その巨大さは既に人という範疇から外れている。
フォルマティオはレナに触れていた手をゆっくりと上げ、まだかすかに違和感の残る右眼に触れた。流れた血は真っ黒だった。痛みはもうないが、ふとしたときに灼熱感が起こる。その傷の痛みよりも、未だに完全には癒えていなかったのかと、その驚きの方が大きかった。
――場合によっては再び切り開かなくてはならないかもしれないな。
傭兵として生きていく中で、なかなか癒えない傷が腐り、それが元で死んでいった仲間も見た。傷を焼いてくれと頼まれて、傷に松明の火を押し当てたこともあった。宮仕えをしない傭兵という職業は、所詮孤独な職業だ。だが、背中併せで闘ううちに、次第に信頼を得ていく。だからだろうか、傭兵の仲間意識は強い。たとえ、敵味方として闘うことになっても、そこには仲間意識がある。
フォルマティオは苦い顔をして小瓶を見つめた。
小瓶を追って姿を消した傭兵達。おそらくもう生きてはいないだろう。ゲダの葉を吸うことを好み中毒になるものは確かに居る。だが、普通の傭兵はゲダを吸うくらいなら酒を飲み、女を買う。日頃からゲダを吸っている人間はいざ大きな怪我をしたときにゲダの葉が効きにくい。傭兵にとってゲダの葉は大事な薬の一種だ。がから、けしてその効力におぼれることはない。
――くそ。
肌にピリピリと嫌な緊張ばかりが走る。フォルマティオは小瓶から目を背けた。
あくまでも平静を装いながら、グルは油断無く周囲を見渡していた。
穏やかな人の流れとざわめき、そこには日常の平和な町の風が流れる。昨日の広場への襲撃事件でさえ、もう過去のこととして忘れ去られようとしている町。確かに、傭兵の出入りの激しいこの町にはあの程度の事件など日常茶飯事だと言ってもいいのだが、そのあまりの関心の無さにかすかに寒気さえする。
グルは足早に通りを横切り、自らの根城――一番安心できる場所へと足を進めた。グルの店を失えば情報の流通は途絶える。そこに集まる情報はグルの命を守る術でもあった。
――くそ、嫌な雰囲気だ。息子が死んだ夜のように……。
グルは舌打ちしてようやく見え始めた根城に目を向け、そこに人影があるのを見て一瞬足を止めた。丹念に観察し、歩くときにかすかに右足を引きずる癖を見つけ、いつも店でチビチビと酒を煽る常連の一人だと気付いたグルは、ようやく安心したように足を進める。
「何をしとる。今日は店は開けんと言っといたろう」
男は一瞬驚いたように動きを止め、その後ようやく苦笑いを浮かべた。
「あぁ、そうだったっけか、おやっさん……」
そのときグルは見た。男は小さく目配せし、笑いながら頭を掻いて見せたが、その瞳は笑いを浮かべてはいない。緊張したように忙しなく唇を舐める男を見て、グルの勘は緊急事態だと告げる。なるべく早く正確に情報を集めなければ、何か取り返しのつかないことが起きるかもしれない――そんな予感だ。
「まったく、酒なくしては一日も過ごせんのか……。まぁ、いいわい、ここで会ってしまったからには店を開けるしかないな。くそ、悪運の強い男が……」
グルは悪態をついて見せながら店の扉を開ける。周囲に視線を走らせるが、別に怪しい人影は無い。
「へへへ……」
男は笑いながらことさらゆっくりと店の扉をくぐった。足早に店の中に進むと、いつもの場所に座る。グルはいつも男が飲む酒をグラスに注ぐと男に渡しながらさりげなく隣に座った。
「どうした……」
グラスを受け取り、男は小さく呟く。
「妙な男がいる。見るからに堅気じゃない男だ。昔は傭兵をやっていたのかもしれないが、少なくとも今は人に胸を張れるような職業じゃないだろうな……。手下も連れているが、そいつらはたぶん夜盗あがりだ」
「昨日、一昨日からそいつらの話は聞いている。今のところ妙な動きはしていないと聞いていたがの……」
グルはチラリと周囲に視線を走らせる。どこかで見られているような嫌な気配がしたのだ。
「あぁ、そいつがしばらく前に盛んにこの辺りをうろついていた。この店が閉まっているのを見て『休みか』と聞かれた奴もいる。そして、奴らガドルの屋敷に入っていたらしい……」
「ガドル……」
苦々しくグルは呟いた。ガドル卿といえば、名家としてはこの町で5本の指に入るのだが、町のものはみなその名を呼ぶことすら嫌う。有り余る金と権力を盾にまだ年端もいかない少女を無理やり屋敷へ連れ込んだり、既に夫のある女性を手に入れるためにその夫を殺したりしたこともある男だ。ここしばらくはエクリアの王家の行事などのために町を離れていて、その姿を見ることも無かったのだが……。
「ガドルに夜盗か……、嫌な組み合わせだな。分かった、ガドルの屋敷を探らせよう……」
グルの言葉を聞いて男は小さな溜息をつき、一瞬躊躇った後、うかがうように言葉を発した。
「おやっさん、あの頬に傷のある男はおやっさんの大事な知り合いなんだろう?」
「頬の傷――フォルマティオのことか?」
男は頷く。
「奴はまぁ、息子みたいなものさ。昔からの知り合いでな」
フォルマティオがどうかしたのかと問うグルに男は答えた。
「奴に狙われているかもしれない。『頬に傷のある男と美しい銀の少年』を見なかったかと聞かれた奴がいるらしい――こいつは人伝に聞いたもんだから、断言は出来ないが……」
グルは溜息をついた。嫌な予感は当たりそうだ。
「分かった、気をつけるように言っておく……」
男の隣からゆっくりと立ち上がると、グルはゆっくり飲んでいけと呟き、店の片隅に置いた愛用の椅子に腰掛けた。懐からキセルを取り出しゆっくりと咥えると、目を眇めて閉まったままの扉を眺めた。ゆっくりと天井を目指し登っていく紫煙が扉からのかすかな隙間風に揺れた。
「まだ目が覚めないのかい?」
幾度目だろう、扉がかすかに開き女将の顔が覗いた。マティスは顔を曇らせたまま頷くと、熱で温まった額の布を取り、手桶の水で再び湿らせる。時々うなされるように小さくうめきながら、マイアは未だ夢の中に居る。
「マティス、無理をするんじゃないよ? 何かあったらすぐ私を呼んで、店には手伝いの女の子だって居るんだからね」
女将は頑としてマイアの傍から離れようとしないマティスを見て小さく溜息をついた。マイアが倒れたのは自分のせいだからと頑固に主張して、マティスは彼女の傍から片時も離れようとはしない。
閉まる扉から視線を戻しながら、マティスは先刻のマイアの様子を思い出した。あれは明らかに『何か』にとり憑かれていた。だが、マイアに『器』の要素は感じない。
『器』となるものは例外なくいくつかの条件を満たす。一つは髪――色素の薄い銀の髪であること、そして体のどこにも刻印のないこと。シミの一つ、黒子の一つの存在してはならない。だから、マティスはわざわざ閉じた瞼の上に三日月型の刺青を入れられているのだ。
もちろん、『器』の資質がなくても占い師や呪い師となるものも居る。前者は星読みとも言われ、星の配列を読み解き未来を見る、神殿にも何人かの占い師が仕えていた。後者は薬師を兼ねるか、そうでなければ呪術使いとなって闇の世界で生きる。どちらも多少なら『器』の資質に似たものを持つが、少なくとも先刻のマイアのように明確な自我を持った何かを体に取り込むことは出来ない。自我を持ったものを体に取り込むことができるのは、マティスのように『器』としての素質のあるものだけなのだ。
そして、『器』の資質を持ったものは大抵、幼いときに奇妙な行動を起こしたりしてその資質が分り、神殿に保護される。幼いときは自我が脆弱なために力のない精霊のような類にもとり憑かれやすいのだ。自我が確立した後はその器の大きさによって身の処し方も変わる。器が大きいものはより力あるものを――たとえそれが『神』と呼ばれるものでも――取り込むことができる。器の小さなものには力の大きなものは呼び込めない。発狂するか、悪くすればその先にあるものは死だ。
マティスは目を閉じた。
おそらくあれは、マイアの体に無理やり降臨したのだ。
――器のもの……、扉を開け……。神託を思い出せ。魂に刻まれた名前を思い出せ。その時がお前の……
確かにその先にはもっと言葉が続いたはずなのだ。だが、フォルマティオを見つめて動揺したその唇からは別の詞が紡ぎ出された。
――お前は……。お前はいつでもクラヴィアに愛される。お前はあの子を愛したね……、だからあの子は死ねたのだ……。
フォルマティオに語った言葉はまるで、昔からフォルマティオを知ってでもいたかのようだ。フォルマティオが愛した『あの子』……。
マティスは不意に思いついたように体を強張らせた。
真実の(フォルマ)扉(ティオ)。
何故今まで思いつかなかったのか分らないほど、単純な一つの印。
フォルマティオの故郷、砂漠の民はともすればエクリアの民よりも迷信深い。かつて星見の里と言われたルナリアは砂漠の北、エクリアの民などよりずっと昔から星見の言葉に運命を託してきたのが砂漠の民だ。
ルナリアの民と砂漠の民はもともと同じ一族だったとも言われる。砂漠の民の中で星見に長けた者たちが、より星の観察に適した山奥にその棲家を移しただけなのだ。
砂漠の民は生まれた子供に名をつけるときも、子供が成人となる儀式の日も全て星見によって決めるといわれる。では、フォルマティオの名もまた、そのようにしてつけられたものに違いない。
――真実の……扉……。
マティスは自分の名に思いを馳せた。
この名は一部が欠けている。鍵を意味するティスという響きの前には、なにか単語が刻まれていたに違いないのだ。唯一、完全な名を知っているのは、神殿に保護されたその日に居た名付け親の光の魔女だけだと、幼い日にそう教えられた。成人し、この瞳の封印と銀の戒めを解き放つ日に、その名は再びマティス自身に与えられるはずだったのだ。
――結局、何も分らないままか……。自分自身の名前さえも……。
マティスは小さく溜息をつき、燃えるように熱いマイアの手をとった。じっとりと汗ばんだ掌は、力なく投げ出されている。
この2年、追われるように転々と街を流離ってきた。与えられた鍵は『砂漠の星』という言葉しかなくて、ただ、苦し紛れに砂漠を迂回しながら旅を続けた。逃げ惑っていたと言ってもいいのかもしれない。神殿から逃がされたあの夜から、何が好転したわけでもないのだ。
――砂漠の星……。真実の……扉……。
マティスは目を閉じた。ゆっくりと閉ざされた左の瞼に指を当てると、微かに分る刺青の痕にたまらず爪を立てた。