第二章『星の道標』(5)
タロンは砂漠に近い。そのため、晴れた日でも風に撒かれた小さな砂塵のせいで、遠い空の青みは霞み、どこか白けた色合いをしている。たが年に数回だけ、おそろしく晴れ渡り、青空が広がることがあった。
「マイアの見合い日――だな」
青い空を見上げて小さくマティスが呟く。
エクリアでは、空の神スタルナが妹マイアの行く末を案じて空から見守る日は、どんな粉塵も舞いをやめ、澄み切った空が広がるのだと、そう信じられている。 東部に海を臨むエクリアでも、砂漠に近い地域の者は海を知らない。だからこそ、滅多にない晴天の日は、海の神マイアは憧れとともに語られるのかもしれない。
この天気だと、遠い地平までまっすぐに見渡せるだろう。いつもなら旅の吉兆だと思われる天気が、追われる立場となるとそうとも感じられない。
――砂漠を駆ける二筋の砂埃は、きっと遠くからでもよく見えるはずだ。
「マティス、砂漠を渡ったことはあるか?」
「――いや。僕はジルスから……砂漠側から入ったけれど、ずっと砂漠のふちを迂回して来たから」
「そうか」
小さくフォルマティオはため息をつく。
ヴァイア側の門から伸びる道は最初は1本だが、途中で幾筋かに分かれる。その多くは小さな村々を経てヴァイアへの公道に至る網の目のような道だ。北に向かい、砂漠に至る道筋はただ一本しかない。
もともと、砂漠の町はオアシスを拠点としているため、そう複雑な道取りは必要ないのだ。目印になる石塔に町の方角と距離が刻まれ、示すとおりに石塔を目印にしながら進んでいけばいい。ある意味、『道』ですらないかもしれない。あるのは目印と星だけで、延々と広がる砂の海を渡る。 旅というよりは航海に似ている。
フォルマティオは考え込んだ。
一度ヴァイア側に足を向けて追っ手の目を欺くか、それとも最初から砂漠を目指すか。あるいは、ラクに乗せたマティスを砂漠に走らせ、自分がこの地に残り追っ手の足止めをするか。分かれて行動するならば、せめてマティスに砂漠を渡るための幾つかの知識だけでも与えておかなくてはならない。
「星は分かる。僕は星見を習った」
察したのだろう、マティスは小さく笑った。
「たぶん、フォルマティオは僕をまっすぐにルナリアに向かわせるつもりだろうけれど。忘れないでね。フォルマティオは僕の仕事を請けると言った。それは僕を守るってことだからね」
言外に一緒に行けと言っている言葉に、フォルマティオは苦笑した。
「分かっている」
聡い――と思う。打てば響くような聡さではないが、相手の言葉の端々から考えを窺う聡さを持っている。時折見せる危ういほどの幼さと、年齢不相応の知識と、その聡さ とは、アンバランスにマティスの中に混在している。
「とりあえず、こいつはお前に預けるぞ。まだ完全に体力が戻っていないらしい。寝てばかりだから、ラクの首にでも提げておけ」
荒い布の袋の端から、小さな尻尾が覗く。力なくぐったりと垂れたそれを撫でると、ピクリと僅かに震え、嫌がるように触れた指先を叩いた。
「マティス、聞いてもいいか。そいつは確かに炎をまとっていた、熱も感じた――だが、部屋には焦げた跡さえなかった。それは何故だ」
「本当の炎じゃないからさ」
マティスは浅く呼吸を繰り返す小さな塊をそっと胸に抱いた。
「フォルマティオは魔道師と魔道士の違いを知ってる?」
「神殿に仕えるか否か、という違いだろう?」
思ったとおりの答えを聞いて、マティスは苦笑した。
「そう言われているよね。確かにそういう一面もある。――でも、本当の違いはそんな表面的なことじゃない。神殿に仕える魔道師は精霊の力を借りて魔法を操る。例えば何かを燃やしたいときは、呪言を唱えて本当の炎を召喚する。神殿に仕えていない魔道士は精霊の力を使えない。彼らが使うのは魔法じゃない、魔道だ。魔道はたいてい、誰かを攻撃するために使われるよね。殺したり、自由を奪ったり、人に対して行われることが多い」
フォルマティオは小さく首を傾げた。確かに魔道士は良くて商家などの警護にあたる用心棒か薬師、悪くすれば呪殺者だ。人を殺める技術を持つ者として蔑まれることも多い。扱う魔道の不気味さからか、同じく人を殺めることの多い傭兵よりも、職業として低く見られることすらある。
「魔道の多くはまやかしなんだよ。薬や光、音や匂いをつかって、相手に幻を見せる。燃えていると信じ込んでしまうと、人の体は本当に燃えてしまうんだ。溺れていると信じ込ませることが出来れば、砂漠の真ん中でだって人は溺れる。――強く信じてしまった心は体の全てを支配するんだ」
マティスは自嘲気味に小さく笑った。
「僕の歌もそう。――僕の歌は魔道と魔法の中間にある。相手を殺したりは出来ないけれど、魅惑して動けなくすることくらいなら出来る。長い時間は無理だし、強い意志や使命持っている人には無理だけれど、ほんの数刻なら思い通りに人を動かすことが出来るし、刷り込み次第では操り人形のように使役することもできる。――音だから、音を感じない物には効き目がないし、効き目が現れるまでに時間がかかるけどね」
フォルマティオは、広場で陶然となってマティスを見つめていた群衆を思い出した。うっとりと全身をマティスの音と動きに委ねて、我先にとマティスに金を差し出した群衆。――あの時、自分の意志とは関係なく弛緩してしまいそうな己を律するために、確かに自分は目を閉じ、マティスの声を意識の中から取り除こうとやっきになったのではなかったか。
「あのレナの炎は魔道か」
「炎だけじゃない。本体はいつも小さな猫のままだ。ただ、人の目には炎をまとった魔獣にも、炎の大蛇にも、美しい炎の精霊にも見える。魔道士の使う魔道なんかよりずっと強力で、相手が意識を失っていてもその魔道で支配してしまえる。そして、あの額の銀の瞳が知覚できる範囲にいる者すべてを、魔道の支配下に置く」
「相手がレナの存在に気がついていなくても?」
「フォルマティオはレナの姿を見る前に、その熱を感じたでしょう?」
たしかに、あの時、レナの体を見る前に熱風を感じ、壁や扉を越えて炎の揺らめく影を見た。 そこに炎があるとしか思えないほどに、それは明確に炎の姿と熱を持っていた。――これは、フォルマティオ自身の実感だ。
「そうだな」
繋ぐ言葉を見つけられず、フォルマティオは小さくため息をついた。宿から門へと、細い横道を縫うように歩きながら、フォルマティオは未だ迷っていた。この晴れ渡った空の下、砂塵を舞い上げながら砂漠を駆ける、その無謀を冒すべきなのかどうか。
「あ、来た来た」
不意に横道から明るい声がかかり、するりとフォルマティオの前に人影が滑り出る。反射的に剣の柄にかかったフォルマティオの腕を見ながら、その小柄な影はぶるぶるとわざとらしく震えてみせる。
「おっかねぇなぁ。おいら、タオってんだ。イオスの旦那から聞いてねぇか?」
敵意がないことを示すように両手を挙げ、明るい声そのままの無邪気な笑顔で少年が言葉を繋ぐ。たぶん、マティスよりほんの少し幼いくらいの少年だ。黄金の髪が風に揺れ、澄んだ海のように蒼い瞳がにやりと笑うと、無邪気な中にどこか生意気な色が浮かぶ。
「名前までは聞いていないが、ヴァイアの傭兵の連れとは、お前か?」
イオスの野郎が無精しやがったな――と、拗ねたように唇を尖らせると、タオと名乗った少年はするりと着ていたマントを脱ぐ。
「そこの小屋の前にラクと馬が繋いである。馬に鞍を着けてはあるが、イオスの旦那の丈に合わせて調節してあるから、旦那にはちっと窮屈かも」
「フォルマティオだ。――分かった。先にこいつを門まで連れて行っていてくれ。馬とラクを連れて俺もすぐに行く」
生意気そうだが、信頼はできると一目見て分かった。先に出会ったイオスもそうだが、迷いのない腹の据わった目をして他人を眺める。
「あんたはこいつを着ていった方がいい。そんな徒歩用のマントでラクに乗ってたら、見つけてくださいって言ってるようなもんだ。そんで、頭にはこいつを巻く」
小屋の方に足を向けたフォルマティオをちらりと眺めると、タオは脱いだマントをマティスへと放った。マティスが着ていたマントを脱ぐと、零れ落ちた銀の髪を見て、ひゅうと小さく唇を鳴らした。
「いや、評判は聞いてたけどさぁ、ほんとにすげぇ銀の髪だな」
マティスはその軽い口調に微かにむっとした顔をしてみせたが、そんなことには頓着せずに、タオは無邪気に手を伸ばす。
「すげぇ。なぁ、ちっとだけ触らせて。な、ちっとだけ」
手が髪に掛かった瞬間、マティスは不快を顕わにしてその手を払いのけた。そして、許可もなく触れようとした無邪気な侵略者を睨みつける。
「まだ、触っていいなんて言ってない」
「ちぇ、けち。減るもんじゃないんだから、ちっとくらいいいじゃんか」
つんと唇を尖らせて拗ねてみせて、タオは「いーッ」と歯を剥いてみせた。そして、そのあまりの様子にあっけにとられたようなマティスを眺めてにやりと人を喰った笑顔を見せた。
「あんた、そんだけ美人なんだからさ、ちっとはお愛想も覚えなよ。だいたいが、あんたみたいな美人はすましてると嫌味なヤツだと思われるんだ。にっこり笑って見せればさぁ、たいがいの人間があんたを助けてやろうと思うと思うぜ?」
「……余計なお世話」
ぷいとそっぽを向きながらそう応えると、マティスは渡されたマントを羽織り、銀の髪を隠すようにターバンを巻き始めた。
「素直じゃないねぇ」
ため息混じりのタオの声が聞こえて、不器用に巻かれていくターバンの端を押さえ、こぼれ出た銀の髪を押し込み始める。要らない世話だと文句を言おうとして見上げた先に、驚くほど真面目な表情を浮かべたタオの顔を見つけて、マティスは口を噤んだ。
「あんたはたぶん、すげぇ才能を持ってるんだろう。その銀の守り飾りを見ればそれは分かるし、吸い込まれそうな目を見るだけでも分かる。あんたが連れてるあの旦那――フォルマティオってんだっけ? あの旦那もすげぇ人で、あんたにはあの旦那を動かすだけのものが具わってるんだろう、だから、やっぱりあんたもすげぇんだろうって分かるよ」
ターバンの端を巻かれた布の間に押し込んで、手に持っていた留め金でパチリと留めて、タオはふうとため息をつく。
「でも、あんたが本当にそれを分かってるのか、おいらには分からないな。あんたはたぶん、周囲を容赦なく自分の運命に巻き込んでいく。おいらも、こうして関わっている時点でたぶんあんたの運命に巻き込まれてる。でも、あんたはそれを自覚してない」
マティスの左目を覆う銀の飾りの上にそっと薄い布を巻きながら、タオは残った片方の紫の瞳を覗き込んだ。
「おいらは信用できない? それとも、そんな簡単な判断まで、どっぷりあの旦那におんぶに抱っこで行くことにしたの?」
見たこともないほど、澄んだ蒼い瞳を、マティスは無言で見つめた。相手が信じられるかどうか――そんな基本的な判断すらする必要がないほど、タオを見た瞬間から信用していた自分に気がついて驚く。
「触られるのは、慣れてないんだ……」
ぽつりと拗ねたようにマティスが呟くと、とたんにタオが破顔した。
「なんだ、そうか。ごめんな?」
呆れるほど無邪気な笑顔でそう言うと、タオは小さな袋をマティスの懐にねじ込んだ。
「門番には口裏を合わせるように言ってある。こいつは駄目押しの金だ。その別嬪な顔でにっこり笑って、出て行くときに門番の手の平に押し付けて行きな」
おいらはタオだ――そう改めて名乗って差し出した手をマティスがおずおずと握ると、にやりと生意気に笑って、残った片手で大きく風の印を結ぶ。船乗りが旅の安全を祈る印だ。
「旅の無事を祈って――後はまかせろ」
にやりと笑みを残して、マティスの物だったマントを頭から被ると、タオは裾を翻しながら細道を駆け去った。