Short Story

君を思う月

 大人になった――というよりは、「男」になったと言うべきなのだろうなと、ハルカは胸の内でそう思い、目の前で顔をくしゃくしゃにして笑っている横顔を見つめた。
 出会ったのはもう7年ほど前、最後の会ったのは6年以上前。その間も実質2ヶ月程度の期間しか会っていなかったというのに、なぜか、こうして不意に家に上がりこんでも違和感なく家族のように溶け込んでいる――野川という青年は、そんな気安さを持っている。

「いや、もちろん、僕だって上司の気持ちが分からないわけじゃないんですよ?」
 時折、無意識だろうが一人称が「僕」になる。話の相手に甘えている証拠だ。野川の少し拗ねたような顔を見ながら、分かっているよと言いたげに笑っているのは、この家の主、雄介だ。ハルカの恋人であり、おそらくは生涯の相手にもなるだろう。ほとんど夫婦と言っていい気安さと安らぎが二人の間にはあったし、どちらの両親とも、結婚の報告はまだか、妊娠の報告はまだかとてぐすね引いて待っている。――少しその期待が重いとは感じても、嫌だとは感じない。感じないというよりは、そこに落ち着くのが妥当なのだろうという、どこか諦めにも似た感情がハルカの中にあった。

「でもやっぱり、自分の中にある情熱とか、そういうのを否定されると、それってどうよ? って疑問がわいて来るというか、相手に失望しちゃうというか」
 野川はつんと唇を尖らしたまま俯いた。大きな目の縁の睫毛が長い。出会った時に感じた「駱駝のような目だ」という印象はそのままで、ハルカは小さく笑った。
「もー、何笑ってんですか」
 不意に野川がハルカの方を向いた。ハルカは笑ったまま小さく首を振る。
「なんでもないのよ」
 拗ねたような顔でハルカを見つめると、野川はまた雄介の方を向いた。
「その状況で野川のモチベーション下がるのはさ、仕方ないことだと思うよ。モチベーション下がってきてしょうがないなと思ったら、また、こういう風にうちに来ればいいよ。いつでも歓迎するし」
 宥めるような雄介の言葉に、ぱっと野川の顔が輝く。
「本当ですか?」
 屈託のない、心から敬愛するような顔。こんなところは少年のままで、それが酷くずるい事のような気がして、ハルカはかすかに視線を逸らせた。
 野川は、過渡期に居る。もう、ハルカ自身は戻ることの出来ない、成熟前の伸びやかで奔放な過渡期の只中に居る。歳は一つしか違わないはずなのに、何故こうも自分一人が歳を取ってしまったのだろう。
 「男」になったと感じるのに、野川を見てハルカに湧いてくる感情は「女」の感情ではない。野川を弟のように感じることはあっても、その「男」に自分が反応していかない。不能になった自分を見るようで、ハルカの胸は微かに痛む。雄介という相手が居るのだから、「女」として反応する方が糾弾されるべきなのかもしれないが、心の中で感じる喪失感は、そんな理性や常識では割り切れない。
「今日は無理だったけど、メシ食わしてやるし」
 な、と同意を得るように雄介がハルカを見る。「メシを食わしてやる」のではなく、ハルカに「メシを作らせる」なのだ。
「食べにくればいいわよ。一人暮らしで、自炊なんてしていないんでしょ?」
 笑顔で答える。野川の顔がまたくしゃくしゃに笑った。
「本当ですか? 本当に来ちゃいますよ?」
 くしゃくしゃの笑顔の中に微かに探るような色を見て、ハルカは笑った。気安く溶け込むくせに、気を使ったり遠慮はしたりする。今日だって手土産でケーキを5個持ってきた。家に上がって3人で1つずつ食べて、自分が帰ったあとに2人で食べれることができるように5個にしたのだろうと考えると、無性に野川のその気遣いが可愛らしく思える。
「おいで、食べさせてあげるから」
 言いながら、もしかしたら野川は来ないかもしれないとふと思った。探る視線の中に、どこか渇望した「男」の影が見えた。自分の中に生まれる澱を、隣で濾して、宥めて抱きしめてくれるものを求める餓えに似た影が見える。心の奥が優しい関係を求めはじめて、野川は「少年」から「男」になったのかもしれない。
 駱駝のような優しい目の奥が、不意に肉食のそれに変わる。ハルカの目を射抜いた視線は、ハルカの中に「女」を探そうとしているように思えた。
「遠慮せずに、うちに来いよ」
 雄介が笑い。つられたように野川がハルカから視線を外した。
 ハルカはゆっくりと立ち上がり、キッチンに向かった。対面になっているキッチンからは雄介の背中と野川の顔が見える。
 ゆっくりと新しい茶を入れる準備をしながら、伏せた自分の顔に野川の視線が当たるのを感じた。気付かれないように、そっとそっと窺い見る視線。それは「姉」を見るようであり、「母」を見るようであり、「女」を見守るようでもある。水を注ぎ、茶葉を入れる腕の動きを、何か優しいものを見るように見つめている。

 「少年」は「男」になってしまったのだと、不意にハルカはそう感じた。
 自分が自身の変化に感じる喪失感と同じく、やはり野川のその変化も、獲得であり喪失だったのだと、不意にハルカは理解した。
 7年前のハルカと野川の中にあった、子供のような平等はもうないのだ。野川は「男」として守り抱きしめるものになり、ハルカは守られ癒すものになってしまったのだ。ハルカをそういうものにしたのは雄介で、そして、野川は今のハルカを「守られなければならないもの」だとそう感じたのだ。
 野川が「少年」であってくれれば、ハルカは「少女」で居られたのかもしれなかった。対等で同じ背の高さで居られたのかもしれなかった。「少女」で居られれば、もしかしたら、恋も出来たのかもしれなかった。


 ハルカは、ポツンと誰もいない部屋の中に座って、飲み残されたカップの中の紅茶を見つめた。雄介は野川を送ると言って二人で家を出ている。
 ガランとした部屋の中で、時計の秒針の音がいやに耳をつく。
 野川が残した茶碗の縁を、指でそっと撫でた。最初に出した紅茶に口をつけた後にカップの値段を教えたら、悲鳴を上げて茶碗を代えてくれと野川は言った。たいして高くはないカップだが、そんなことで悲鳴を上げる野川が可愛くて、ハルカは雄介と顔を合わせて笑った。
「大人になっちゃったなぁ」
 ポツリと唇からもれた呟きが、寂しげに震えて、ハルカは自嘲した。
 胸の奥にひっそりと残っている「少女」の残骸が、「少年」の面影を引きずった野川を見て、身勝手で可愛らしいお伽噺を語り始める。それが恋とは呼べないことくらい、ハルカにはもう分かっている。
 ハルカは、窓ガラスをあけ、ベランダに出た。野川の笑った目のような月が出ていた。酷く懐かしい気持ちがした。

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