言葉の行方
先日、本の旅に出ていらっしゃった方と、メールという言葉だけの世界でお会いしました。Web上で綴った言葉が繋いだ出会いでした。
運良く旅の手助けができた私に、その方は言葉を贈ってくださいました。
「あなたが見たすべての出来事は幻想かもしれませんが、感じとられたものは真実です‥。」
岩波書店から発行された『賢治の手帳』(司修)の中にある言葉だそうです。
「たぶん、言葉で考えてないんだよね」――というのは、忘れもしない、私の旦那が言った台詞です。正直に言います。まったくその言葉の意味が分かりませんでした。口から生まれてきたんだと両親に断言されたほどおしゃべりするのが早く、本を読み始めるのも早く、自分の感情を表現する手段として言葉以外のものを持つことができなかった私には、伝えたいことを上手に言葉にできず、感情を最も昇華しやすいのが音楽だった彼の脳の中は謎だらけです。
「言葉が不自由だからね」というのも、私と旦那の共通の常套句です。訳すれば「本当の気持ちを、周囲に理解されやすいような言葉にして話せていないよね(それで誤解を生んでしまっているよね)」という意味に一番近いでしょうか。3日に1回は、この言い回しが出てきて、その度にどうして不自由なのかを考えてしまうのです。
毎回のように感じるのは、言葉というものはけして共有できるものではないのだな――ということでしょうか。全く同じ単語、同じ言い回しでありながら、常に発するものと受けるものの間には溝がある、それが言葉で伝えるということなのだな、と。
いま、こうして書いている文章も、発する私と受ける誰かの感じる意味は全く違うのだろうなと。喜びの声を嘲りの声と聞き、悲鳴が怒号とすりかわる、そんな曖昧で不安定な表現手段が言葉というものなのかもしれないのだなと、そう感じるのです。それでも、その言葉が最も確実に、他者に自分の中の『伝えたいもの』を表現できる唯一のものでもあるのです。
手を繋げば考えていることがそっくりそのまま伝わったら、そうしたらもっと平和で幸せな世界ができるんでしょうか。それとも、そっくりそのまま伝わったら、他者との相容れなさもそのまま伝わって、余計に孤独になっていくんでしょうか。
発するものと受けるものの間に常に溝があるのならば、せめて、その溝を美しいものだと思いたいなと思います。たとえば、とても美しい空の下にある凪いだ河か、柔らかい草で覆われた草原のような。
唯一、自分が感じることだけは自由です。私が感じたものが私の中で真実になるのならば、本当は深く底の見えないクレバスのような溝でも、たやすく手を繋げる程度の優しい草むらに感じたいなと思います。
発するときは、溝が優しいものでありますようにと願い、受けるときには、感じる溝を美しいものだと思いたい。もちろん、伝えたいことを伝えられるようなるための努力は忘れたくありませんし、きっと足掻き続けるのだろうと思いますけれども。
言葉の行き着く先が、どうか美しい感情でありますように。自分自身の感情も、言葉の行き着いた先に居る誰かの感情も。
ふと、そんな事を考えた、とても静かな夜です。