悪いオトコ
我が家には、キュートでいじっぱりで寂しがり屋で、抱き心地がいい、悪いオトコが居る。
考えてみると、動物と一緒に暮らした時間の方が、何も飼っていなかった時間よりも短い人間なのだな――と、ふと思った。私の周りにはいつも、小さくて優しいもの達が居て、なんとなく幸せな毎日を送っている。
私の記憶がない頃に居たのは、白い犬。その後、にわとり、ウサギ、金魚と推移して、短命だった猟犬。父親と二人でカブトムシを栽培――正確には栽培ではないが、成虫になると売っていたので、気分としては栽培――し、引越しをしてからは日本庭園風の庭に鯉を飼った。池の掃除は祖父の仕事で、毎日の餌と健康管理が私の仕事。
その後、予備校の寮生活のときはさすがに何も飼えなかったが、大学に入ってからは、猫、ハムスター、グリーンイグアナ、亀、ウサギと変遷し、現在の愛兎はもう6歳になる。
特に今の愛兎は、まさに家族という雰囲気がある。いや、もちろんそれ以外の小さきもの達も家族だったが、常に脱走と食事のことしか考えていないハムスターにとって、私は餌が出てくる「何か」という認識だけであったろうし、人間嫌いのグリーンイグアナは、最後まで人間嫌いの信念を貫き通した。亀にいたっては餌と私を分離することすらできなかった――よく噛まれたものだ。
彼らは家族というよりは、やはり愛玩動物たちだったのだろう。もちろん、私は彼らを愛していたし、最期の息も看取ってきたけれども、彼らの感情のベクトル(亀に感情があると仮定してだが)を自分に向けさせるほどではなかった。けれど、愛兎の感情のベクトルはたまに私に向ってくる。「撫でれ」という形で。
ケージの隙間から鼻先を出して、両目で私を伺う。扉が開いたらすかさずそこから頭を出し、ひたすら手が撫でに来るのを待つ。手がやってきたら、手と扉の隙間がどんなに狭かろうとも、頭を手の下に入れる。鼻で手を押し上げ、ヨイショヨイショとけなげなほどに手の下に頭を入れ、本人(本兎)の気が済むまで手の下に頭を入れることを繰り返す。
旦那が旅行で居なかった時期、1人で居るには広すぎる家に愛兎と二人で居たのだけれど、何がしかの私の感情を感じるらしく、激しくくしゃみをしながら(当時、彼は風邪をひいていた)執拗に私の手の下に入りたがった。
主たる飼い主である旦那がいないのが寂しいのかと思ったが、そういう仕草を見せるのは私と二人の時だけで、しかも、私が仕事などに集中しているときには全く行わないので、どうやら(たぶん)私を思いやっての行動らしい。――「俺を撫でて元気出せよ」という感じだろうか。
些か傲慢な励ましではあるけれども、ふとした時に老いを見せる彼が、ブクブクと喜びの呟きを呟いているのをみると、静かに心が温まる。
小さくて、もう独りでは生きていくことすら難しいほどに人に慣れ、人と共にあることに慣れている彼だけれども、誰も居ない部屋のなかにぽつりと居る彼に向って「ただいま」という時、小さく身じろぎして私を見上げる目が「よく帰った。まぁ、俺でも撫でとけ」と言っているように感じられる。たぶん、それは飼い主の勝手で傲慢な錯覚なのかもしれないけれども、あまりにも彼の感触が優しくて、その錯覚に甘えてしまうのだ。
キュートでいじっぱりで寂しがり屋で、抱き心地がいいなんて、なんて悪いオトコ。
おそらく、彼と同じ時を過ごせるのは、長くてもあと2-3年くらいだろう。そう考えることに現実味がなくなってしまうほどに、もう、彼は家族なのだけれど、最期の時までずっと「まぁ俺でも撫でとけ」とケージ越しに目で語っているような気がしてならない。
その日まで、私の心はすべての寂しさと悲しみから、彼の存在そのもので守られている。