≪ 第一章『k-2011』 (8) | Serial Story:S.F.

第二章『EVIL』 (1)

 ――僕に与えられた遺伝子は誰のものですか? Mについて教えてください。知りたいんです、自分自身のことを――。
 いつもの彼なら、落ち着いた柔らかな表情で窺うようにそっとそう問い掛けるだろう。琢己の顔に浮かぶ表情をつぶさに観察しながら、少しでもそこに苦痛の色が見えたら、すぐにその発言を翻すつもりで――。だが、簡単な英語で書かれたその短い文章には、いつもの彼らしくない、強固な意志が見え隠れしていた。

「彼は――AOMCです。私が5年前に創った……」
 激昂した千恵子の問いに答える琢己の声は震えていた。
 ――何故めぐみの顔をしているの?
 千恵子は確かにそう言った。千恵子が語った出産の時の話とつき合わせると、一つの推測が生まれる。――俄かには信じ難いが、しかし、いったんその推測を思い浮かべると、真実はそれ以外にはないように思われるのだ。
「まさか……」
 ――AOMCのクローニングのために使用された卵子は……。
 それ以上言葉を綴ることが出来なかった。美都は何も言わず、ただ千恵子の痩せた体を抱きしめた。
 沈黙と緊張が支配する中で、意を決したように琢己は端末の前に座った。
「何をするの?」
 深呼吸をして通信スイッチを入れた琢己を、美都は訝しげに見上げた。
「踏み台を幾つか踏んだ状態で、直接コンタクトをとる。もう、セキュリティーチェックを使った目眩ましは出来ないだろう」
 既に琢己は最初の踏み台へとアクセスをし始めていた。
「確かにそうだけれど、危険だわ!」
「地下ではよくやっている。そのための安全な踏み台も幾つか用意してある。もちろん奴ほど見事にやれるとは思わないが、EVILへアクセスするよりも、EVILからのアクセスの方が楽だろう」
 端末機の画面が暗転した。最初の踏み台を使って、更に次のアクセス場所へ移動したのだ。
「コンタクトをとって、どうするというの?」
 美都の胸でぐったりとなっている千恵子が、震える声で尋ねた。緊張の糸が費えたように、千恵子の体は力を失っていた。
「奴をここに――EVIL内に保護する。娘さんの卵子がクローニングに使用されたのなら、奴の体の中には、『k-2011』の抗体がある可能性がある。もしも奴が廃棄されていないという事実が連合に知れたら、奴は必ずEVILに拉致され、場合によっては凄惨な人体実験さえも行われるだろう。奴は、人でありながら、人ではない。奴は慰め程度の人権の保護さえも受けられないんだ」
 はっとしたように美都は息を飲んだ。
「それに――。奴が突然あんな質問をしてきた背景には、何かがあるはずだ。奴は、自分への遺伝子提供者が、現在も生存している少女のものであるという事実を知っている。場合によっては、娘さんの居場所を知る術が生まれるかもしれない。彼女も保護しないと切羽詰った連合が何をするかわからない。奴らは――奴らは、誰かを闇の葬ることに何の躊躇いもない、そういう奴らなんだから!」
「保護するというの? EVILの研究員であるあなたが?」
 揶揄を込めた千恵子の言葉に、琢己は首を振った。
「正式なEVILの研究員じゃない。本当はEVILに再び足を踏み入れたくなんてなかった――畜生、だから今回、俺を研究員にすることに何の反対もなかったんだな」
 吐き捨てるように琢己が呟いた瞬間、ピと軽い音がして不意に端末機の画面が明るくなった。コンタクトしたのだ。
「詳しい話は後だ。美都、セキュリティチェックの様子を伺っていてくれ」
 美都はおとなしく離れた場所にある端末に手を伸ばした。画面にゆるやかな波形が現れる。そして、それが突然乱れた。強制的なセキュリティチェックが始まる。
「ダメ! 回線を切って!」
 琢己はすばやく回線を切り替え、わざと過負荷のプログラムを実行させた。負荷の原因を感知したチェック機能が、軽い警告音を発してプログラムの終了を画面上で促す。
「クソ!」
 琢己は吐き捨てるように呟くと、まだ警告を出し続けている画面を、忌々しげに睨み付けた。
「琢己、冷静になって。まず、考えなくては」
 美都は床に倒れ伏したままの千恵子を抱き上げると、そっと脈を取った。
「脈が不正だわ。ベッドで休みましょう。別室に居るのがご不安なら、ここに寝台を持ってきますわ。情報を整理して、そして真実を探りましょう」
 千恵子の目は色濃い疲れを見せていた。戸惑ったように美都を見上げた千恵子は、小さく頷くと、寝台は要らない、車椅子を下さいと、しっかりとした口調で言った。


「情報を整理しましょう」
 美都はそっと千恵子の膝に毛布をかけながらそう言った。
「事の発端は『k-2011』でよろしいのですね?」
 千恵子は頷いた。小さく溜息を吐き、自ら封印してきた過去を語る。
「『k-2011』は主に鳥に感染するピコルナウイルス科のウイルスを変異させたものが原型で、その発見のきっかけは、渡り鳥の原因不明の死滅でした。北から飛んできた鳥が、次々と死んでいった……」
 鳥の体内からウイルスを同定して、そのウイルスが0度以下では完全に活動を停止することを発見したのは、助手の千恵子だった。すぐに発症中の鳥を冷温室に入れ、冷たい実験室の中で活動を休止した活性ウイルスを分離、保管した。
 すぐに上からの指示で同じピコルナウイルス科の別のウイルスと掛け合わせるように指示された。そのウイルスには、紫外線特性があり、紫外線にのみ反応していたその特性の幅を広げて、紫色光線に反応するように改良が重ねられている途中で掛け合わされ、『k-2011』となった。
「色々な活用法が考えられました。最初は、遺伝子治療のための運び屋ウイルスとしての活用が主目的だった。――少なくとも、私たち研究員はそう信じていたのです」
 状況が一変したのは、皮肉にも千恵子の感染がきっかけだった。
「慎重すぎるほどに私の体と胎児は検査を繰り返させられました。私はそれを嬉しいことだと感じていた。心配してくれているのだと。けれど、違ったんです。既に、羊水中に微量の不完全な抗体が検出されていて、周りはその抗体が完全なものとなるのを待っていただけだった。とうとう羊水検査が出来ない時期になっても抗体が不完全なままだったので、彼らは最後の手段に出た……」
 じっと耳を澄ませていた琢己が、小さくため息をついた。
「卵巣の摘出ですか……」
「臍胎血からは完全な抗体が検出されました。けれど、それはとても微量で、しかも不安定だった。彼らは卵巣に異常があったから手術したと私に告げた。最初は信じた。けれど――」
 秘密裏に研究が始まったのだと、千恵子は言った。
 ウイルスを人工雪の中に潜ませ、体内に潜り込ませた後、発症のきっかけとなる虹を空にかける。雪と虹で人を死に導く、まるで童話のように美しくて残酷な兵器の研究が――。
 その噂が耳に入った瞬間に、母としての本能が告げた。このまま研究室に居るということが、我が子にとってけして良い結果を生まないと。新生児と母体の意思の尊重という人権を楯にして、承諾を得ないままに卵巣摘出をしたEVILを訴え、弁護士である友人の助けを借りて逃げた。その友人の生家でもある、巨大財閥からの支援で運営される私立大学の庇護の下、見かけ上は穏やかな生活が戻った。だが、実際にはナイフの刃の上を渡るような生活だった。
 転機はすぐに訪れた。めぐみの体から抗体が失われたのだ。もともと不安定だった抗体は、永久免疫としての機能を持たなかった。
「では、抗体は?」
 抗体はとうに失われていたのだ。問いかける美都の声は震えた。
「今となっては、再度めぐみに弱毒株を感染させて免疫記憶を呼び覚ますか、あるいは、奪われた彼女の卵巣から生成するか――その卵を使用して生み出されたというAOMCを……」
「やめてくれ!」
 続く言葉を琢己が遮った。搾り出す悲鳴のような声だった。
「よく……、よく分かった。どうして俺があんなに簡単に地下に逃げられたのか。どうして不思議なくらいレジスタンスの摘発が温かったのか。――必要だったからだ。俺の知識とボウズの体が、いつか必要になるかもしれないと、そう踏んでいたんだ。踊らされただけか。手の平の上で転がされただけか」
「琢己……」
 もっと疑っても良かったのだ。容易に逃げ切れたその理由を。
「悔しいなら、守りなさい。私の夫が、全てを捨てて何かを守ろうとしたように」
 まっすぐに千恵子は琢己を見つめていた。怒りとも哀れみともつかない、強い視線が琢己の顔に当てられていた。
「俺に、守れると?」
「琢己!」
 己を嘲るような琢己の言葉に、美都は我知らず叫んでいた。
「守れるかではなく、守りたいかです。所詮、人間一人の力など知れている。守ろうともしなければ、何も守れなどしない。今なら、夫の取った行動の意味も、別れの言葉の意味も分かる。私が同じ立場でも、きっと同じことをしたわ」
 決然とした態度だった。弱々しく車椅子に身を沈めながら、それでも千恵子の体からは抗えない力が滲んでいた。
「私は守るわ。何としても守る。夫がその身を捨てて守ろうとしたものを、私は守るわ」
 ゆらりと千恵子は立ち上がった。膝にかけられていた毛布を払い落とし、よろめきながら手近な端末の前に座った。
「美都さん、リーダー権限で私に端末へのアクセスの許可を。このプロジェクトの主要データへのアクセス権限と上へのコンタクトの手段をください。そして連絡を入れて――小杉千恵子の凍結されたIDを復活させ、当時からこのプロジェクトまでの期間の『K-2011』に関連するデータを送信するようにと」
 戸惑ったような美都を見つめて、千恵子は小さく笑った。
「上は小躍りするはずよ。おそらく大喜びで機密に関する書類にまでアクセスさせてくれることでしょう。――あぁ、連絡の時に付け加えておいて、私がCPESの処方を望んでいると」
「CPESが必要な体なのですか?」
 琢己が慌てたように尋ねた。CPESは細胞融解抑制因子を含んだ抗ウイルス薬だ。
「いいえ、でも、上はそれで誤解するはずよ。完全な感染体ではなくても、母体であった私にもやはり『K-2011』の感染の影響が残っているのだと。私の中のDNAの一部が、何らかの形で『K-2011』によって組みかえられている可能性があるのだと。そう誤解されても良いような生活を今まで続けてきたわ」
 10年以上だ。彼女がこの研究所を辞してからの長い年月、彼女はその生活の全てをEVILを欺くことにかけていたのか。琢己は千恵子の痩せた横顔を呆然と見つめた。『実際にはナイフの刃の上を渡るような生活』――彼女が言ったその言葉が、文字通りの意味を持っているのだと、ようやく理解した。
「あなたは」
 琢己の声は震えた。
「私の肉体は、めぐみと貴方が言うところの『坊主』であるAOMCの、おそらくは最後の砦となるでしょう」
 視線が絡んだ。母の顔の上に、かつての科学者としての顔を乗せ始めた千恵子の顔を見つめ、琢己は立ち上がった。そして机の上に投げ出していた上着を掴み取る。
「どこに行くつもりなの?」
 その意図にようやく気付き、美都は慌てた。琢己は問いには答えず、慌しく必要なものをポケットに収め始める。
「琢己!」
 空気が張り詰めていた。
「ここを出てどうしようというの」
 琢己は答えない。だが、既に彼の意志は固く、美都がどんなに説得しても揺らぎはしないように思えた。
「探す……」
 ようやくぽつりと琢己が答えると、畳み掛けるように美都は叫んだ。
「何を、どうやって! いま、割ける時間がどこにあるというの? あの培養スピッツを見たでしょう? こうしている間にも、あのウイルスはどんどん増殖しているの。無駄に出来る時間なんてないのよ!」
「だからだ。時間がないから、探すんだ」
「分かるように言ってよ! 貴方が何を考えているか分からないのよ!」
 琢己は顔を上げた。苦しげな表情が浮かび、唇の端に噛み締めた痕が残っていた。
「いいか、まず、『M』についてだ。坊主が――AOMCのヤツが問いかけた『M』だ。AOMCのプロジェクトは、一時、暗礁に乗り上げていた。どんなDNAを使っても、心筋の融解を防ぐことが出来なかった。目の前で、次々と実験体は心筋融解を起こして死んでいった。そんな時に、EVIL側から、合成神経増殖因子との適合可能性があるDNAとして提供されたのが、『type-M』――数個の卵細胞だった。その卵細胞が持つDNA鎖には、一部に特異な変異があって、その変異部分が神経増殖因子の一部分と酷似していた。EVIL側は、『ある、健康体黄色人種女性の卵細胞』だと言った。だから、MongoloidのMをとって、『type-M』だと」
 まくしたて、琢己は机の上に置いた拳を握り締めた。それでも激昂を抑えきれないように、琢己は机を拳で叩いた。
「当時も、微かに疑問に思った。偶然、合成神経増殖因子と酷似した変異を持つDNAサンプルが手元に存在するものだろうかと。だが、俺は考えるのをやめた。目の前の実験に没頭したかった。なんとしても、自分の実験を成功させたかった。――だが、冷静になればすぐに分かる。あの神経増殖因子もまた、『type-M』を使って合成されたものだったんだ。適合可能性があるのは当然だ。元が同じものなんだからな」
「でも、いったい、何を思ってそこまで『type-M』に拘ったというの?」
 美都の言葉が終わらないうちに、ふいに横から千恵子の掠れた声が聞こえた。
「AOMCプロジェクト自体が、『type-M』の因子を持つ体細胞を――人工体を作ることを目的とされたものだったのだと、貴方は、そう考えているのね? そして、それは『k-2011』ウイルスの研究をさらに進めるため、あるいは、その研究によって必要となってくるだろうウイルス血清の研究のモルモットを作るための研究だったのだと。『type-M』のMは、めぐみの頭文字なんだと、そう、考えているのね?」
 琢己は息を呑んだ。そして、静かに頷いた。
「俺が地下に潜ったとき、あっけないほど簡単に逃げおおせることが出来たのも、俺が坊主を連れていたからだ。EVILとレジスタンスは裏で繋がっている。繋がっていたから、逃げることが出来た。でも、繋がっている以上、本当に逃げたとは言えない。――ただ、檻が広がっただけだ。現実に、いま、俺はEVILの中に居る。上の連中は全部知ってるんだ。『type-M』のDNAが誰のものであったのかも、そのDNAを使用したクローンAOMCが存在していることも。そして、もう、時間がない――だとしたら、次に上の連中が考えることは何だ?」
「琢己……」
 美都は目を閉じた。大きく息を吸って、吐き出す。涙が流れそうになった。
「奴らは、必ず、めぐみさんと坊主を利用する。めぐみさんはもし利用されそうになっても、保護できる道はあるだろう。――だが、生物機械である坊主には、人権なんてないんだ。体を切り刻まれても、それを止める法律なんてない。罰せられることもない」
「琢己、もういい――。もう、言わなくていいから」
 そう、EVILなら、実行するだろう。おそらく、琢己が進めていたAOMC計画は崩壊したのではなく、上の決定で凍結されているだけなのだ。だから琢己は消されることなく、生かされている。『type-M』を持ったAOMCは、現実に 一個体存在していて、そしてそれが何らかの理由で使用不可になったとしても、琢己さえ生きていれば新たに作り出すことも可能なのだ。
 ――やはり、EVILは牢獄なのだ。
「二人を探すというのね? EVILによって何か危害を加えられる前に、二人を探して保護したいのね?」
 美都は、再び俯いた琢己を見つめた。
「守りたいんだ……」
 消えそうなほど小さな声で、琢己が呟いた。
 不意に、美都は琢己がまだ少年の頃に失った妹の話を思い出した。琢己は心臓病だった妹を治してやりたくて科学者を目指したのだという。彼が科学者になる前に、少女はこの世から消えてしまったが、琢己がクローン技術を専門分野としたのも、より生体適合性の高い人工臓器を――人工心臓を作り出すためだったのではないだろうか。彼は、失ってしまった妹に新しい心臓を与えてやりたくて、必死に科学の道を突き進んだのではないだろうか。AOMCである少年を地下に潜ってまで必死で保護してきたのは、己の研究の懺悔だけではなく、どこかに彼の妹の面影を見つめているからなのではないか。
「――分かったわ」
 美都は自分のネームプレートを差し出した。
「時間は、ウイルスの解析結果が出揃って、類似ウイルスの血清と合成する予備実験を始めるまで――1日くらいはあるわ。千恵子さんの予想通りなら、アクセスを許可されたデータの確認と解析を含めて、もう少し時間が取れるかも知れない。このプレートを使えば、全てのドアを開けることが出来るし、事前にブラインド操作をして、監視カメラを止めることも出来る。プロジェクトリーダーにだけ与えられた特権――使って」
 琢己は差し出されたネームプレートを黙って見つめた。なかなか受け取らない琢己の手に、じれったくなったように押し付けると、傍らの机の上に放置されていた小さな端末とカードケースを差し出す。
「リーダー用の端末と、予備のカードよ。これで 新規カードも作れる。リーダー用端末にはクレジット登録もされているから、必要な費用があるならそこから使ってちょうだい」
 琢己は突然の美都の態度に呆然としたように立っていた。反対され、反対を押し切って飛び出すことを自分自身の推進力にしようという目論見は、見事に外れたのだ。
 美都はそんな琢己の様子など目に入らぬように、手早く端末とカードを皮のケースにしまうと、突っ立ったままの琢己の腰に手を回し、ベルト通しに専用の金具で繋ぐ。
「美都……」
 琢己は自分の目の前で揺れる美都の髪の流れを見た。そして、自分の体にまとわり付くようにして、自分の身支度をしてくれている細い指を見た。
「美都」
 顔を上げたその細い体を抱きしめていた。抗いがたい衝動だった。

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