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何事もなさぬには

 9/10、『敦―山月記・名人伝―』を観劇してまいりました。
 たぶん、エントリー長ーくなります(笑)

 お誘いいただいたのはいつものごとく?(笑)穂高サン@【Novelism】 場所は三軒茶屋の世田谷パブリックシアター。一年という短いサイクルでの再演です。
 実は、当初お誘いいただいたときには他の用件で一度はごめんなさいしてしまったのですが、諸々の事情が巡り巡って行けるようになったという舞台でした。――が、観劇後、真剣に思った。行けて良かった。本気で。
 『敦―山月記・名人伝―』とあるように、第一幕が『山月記』休憩を挟んで第二幕『名人伝』で終幕、その後休憩を挟み、尺八の藤原道山氏と大鼓の亀井広忠氏、構成・演出・出演の3役をこなした野村萬斎氏、聞き手として世パブの松井憲太郎氏の4名でのポストトークが行われました。
 『山月記』と『名人伝』が1作ずつ演じられているというよりは、その2つの作品を『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い』という敦の言葉で繋ぎつつ、作品の中に垣間見える33歳の若さで夭逝した敦の心理が描かれていく――という構成であるように感じられました。

 ここからネタばれのため、ネタばれダメな方はみちゃイヤン(笑) 反転文字は読みにくいので今回やめますごめんなさい。

 プロローグ
 モーツアルトのレクイエムが流れていたのは正直意外でした。また、敦の写真とともに、舞台上に『死』を強調するためか霊爾が置かれていたのはすこし生々しすぎたように感じました。――にも関わらず、冒頭、敦自身の生い立ちが語られただけで体の中になんともいえない寂寥感が漂ってくるのは、なにもワタシが中島敦のファンだからだけではない、と、思うのです。『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い』という言葉が名言として世に残っているのは、おそらくは、この一種の寂寥感を多くの人間が常に持って感じて生きているからなのではないかと思うのです。そして、その寂寥感のツボをツンと押されてしまうと、その後の分裂して4人になる『敦』たちと、2作品の登場人物である『李徴』『紀昌』が常に二重写しになって目の前に迫ってくるように感じます。
 小説に限らず、自分の中にある何かを体の中から描き出した結果としての芸術は、常に雄弁に創作者自身を語ってるものだと思うのですが、それらが舞台上での4人の『敦』として描かれていたように感じました。(でも、実際のところは上記の代表作2作よりも、芥川賞候補となりつつも選考では厳しい評価が与えられたという『光と風と夢』の方が、創作者自身の感情が赤裸々といえば赤裸々な気もするのですが;)
 幽体離脱のように分裂していく敦の動きは、狂言のパントマイム的な動きで見事に表現されていて、分裂した敦が語り部として己自身をも語ることで、観客が常に客観を維持していく助けになっていたように感じますし、また、舞台そのものが、敦が死の直前に垣間見た幻想の世界のようにも感じます。

 山月記
 能ではト書きまで謡に含まれているのが普通だったりするので、ト書き部分も含めて台詞として語りながらの舞台の形にはいくぶんか慣れがあり、違和感等は(私自身には)ありませんでした。反面、表現としては現代劇的というか、時折狂言の中で感じる『型』としての狂言らしさはあまり感じなかったように思います。限られた空間の中での身のこなしや叫びなどには狂言の『型』に似たものが使われていて、虎になった李徴の嘆きや怒り、自分の中に獣を感じた理性の苦しみと諦観にも似た感情が垣間見えた気がします。動き自体はとても抑制されたものであったように感じたのですが。
 舞台上に降り積もる白い羽があまりにも悲しく、体の中で何かが反転してしまう衝撃としての『赤』はかつて通り過ぎてきたアイデンティティの崩壊(と再生)の衝撃を思い出させます。
 幕後感じたのは、構成がものすごーく能っぽかったんだなーということでした。シテが李徴でワキが袁サンで。そう感じると、面をかけた李徴を見てみたかったようにも思います。

 名人伝
 コミカルさという点では非常に狂言的だったかもしれません。生演奏がつく演劇特有の、環境音を生演奏で付けていく手法が特にコミカルで(笑) 大鼓であんな音が出るんだーと、ついつい笑ってしまいました。文字を使った表現方法は、絵本などでは見たことがあったのですが、実際に動きながら見えると、つい笑ってしまいます。ビバ、象形文字!(笑)
 この作品、非常に乾いたシニカルな笑いの作品なので、そういった意味でも狂言には似合うものなのかもしれません。

 エピローグ
 再び、『敦』自身が、この舞台を通しての言葉「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」と語り、ふいごのような呼吸音のような音が途絶え、敦の死を暗示して舞台は幕を閉じます。
 不覚にも泣いてしまいそうになりました。
 それはおそらく、夭逝した中島敦という作家そのものへの愛情であると同時に、自分自身の中にいくつか積もっている大切な人物の死、大切なものの喪失などの思い出が『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い』という言葉に集約されてしまった結果だろうと思います。

 ポストトーク
 たいへん面白かったです(笑)
 次回予定している観能での大鼓が亀井広忠氏なので、いまから楽しみです。しかも番組が「石橋」なのです。いまから楽しみ。

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