第二章『EVIL』 (1)
――僕に与えられた遺伝子は誰のものですか? Mについて教えてください。知りたいんです、自分自身のことを――。
いつもの彼なら、落ち着いた柔らかな表情で窺うようにそっとそう問い掛けるだろう。琢己の顔に浮かぶ表情をつぶさに観察しながら、少しでもそこに苦痛の色が見えたら、すぐにその発言を翻すつもりで――。だが、簡単な英語で書かれたその短い文章には、いつもの彼らしくない、強固な意志が見え隠れしていた。
――僕に与えられた遺伝子は誰のものですか? Mについて教えてください。知りたいんです、自分自身のことを――。
いつもの彼なら、落ち着いた柔らかな表情で窺うようにそっとそう問い掛けるだろう。琢己の顔に浮かぶ表情をつぶさに観察しながら、少しでもそこに苦痛の色が見えたら、すぐにその発言を翻すつもりで――。だが、簡単な英語で書かれたその短い文章には、いつもの彼らしくない、強固な意志が見え隠れしていた。
慌しく通信スイッチを切ると、数秒後に軽い機械音がして、監視プログラムが作動し始めた。美都が安堵のため息をつく。
「セキュリティーチェックはオールクリアね。良かったわ」
琢己は疲れたように肩を落とした。
「地殻変動で家族を無くした俺は、施設に収容され、そこで社会適合できる職をあてがわれ、15になったら独りで生活させられるはずだった……」
野島は初めて重い口を開いた。
「当時、各国の警察は連合と激しく対立し、水面下で激しい情報戦が繰り広げられていた。施設に入った人間は好むと好まざるとにかかわらず次第に警察色に染められていく。俺もその例に漏れなかった……」
「起こしますか?」
「いや、眠れる時は寝せておいた方がいい」
「そうですね……」
浮上していく意識の中に不意に会話が飛び込んできた。鼻腔をくすぐる珈琲の匂いが一気にめぐみの目を覚まさせた。
「――おはよう……」
毛布の中に丸まったまま、めぐみは二人を見上げた。瞼が重く、きっと無残なほど脹れているだろうと思い、めぐみは瞼を擦った。
「すいません、もう一度、言ってください」
美都が耳にしたのは信じられない――信じたくない現実だった。美都は、目の前で渋い顔をして頭を抱えている男性の唇を見つめた。深夜だというのに二人ともまったく眠たげな様子が見えない。――もっとも、寝てなどいられない状況ではあったのだ。
勧められた椅子に体を預けながら、めぐみは混乱していた。
目の前にあるのはめぐみより幼いが、どう考えてもめぐみそのものだとしか言えないほどめぐみに似ている。鏡を見ているような気さえする。
「お前は……」
呻くような野島の声は掠れていた。
琢己はふと肌寒さを感じて資料から目を上げた。読み進めているうちに、日が翳ってきたことにも気が付かないほど集中してしまっていたらしい。薄暗くなり始めた室内は静かで、視線の先にあるどす黒い試験管チューブは不気味に沈黙している。視線を巡らせると、隅の机の上で美都が突っ伏していた。かすかに肩が上下しているのが見える。きっと眠っているのだろう。
――私には、たった一度だけ雪の記憶がある。
めぐみは時折ふと意識の上に浮上してくるこの考えに、戸惑いと疑問を持ち続けていた。
赤く不透明な液体の中で、それは微かに蠢いているようにも見えた。実際には、その蠢きが肉眼でわかるはずはない。液体の中に浮遊し、蠢いている物体の大きさは0.02μ――顕微鏡を使うことで、ようやく識別できる程度の大きさなのだから。
だが、その赤く不透明な液体は、確かに蠢いている。その見えざる蠢きは、僅か30分という短い間に、チューブに充填された紅い液体を、かすかに濁った褐色へと変えてしまったのだ。
いけ好かない男だ。
それが美都が彼を見て最初に感じた印象だった。